EOS10D日記その20
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2007.9.16 Hektor Rapidの改造
改造といっても、毎度のように、ただEOSマウントを瞬間接着剤で貼るだけです。EOSだと、どうせレンズの先数センチしか写らないので、何も考えずにただ貼るだけです。
レンズをカメラに近づけるにこしたことはないのですが、ミラーと当たらないように注意します。
カメラへの脱着用兼飾りで、真鍮のローレットを貼り付けてみました。ゴージャスまたは悪趣味。
EOS 5Dでパソコンの画面を撮影。F1.4ですが、真ん中はシャープです。
2007.9.15 Hektor Rapidはエルノスター型
Ernst Leitz Wetzlar Hektor Rapid f=2.7cm 1:1,4 530252
Cマウントのアダプタ付きのHektor Rapid 2.7cm 1.4です。ライカじゃF6.3のヘクトールでもCマウントでならF1.4まで明るく出来ますと書こうと思って買ったのですが、分解してみると中身はエルノスター型でした。トリプレットの前玉を2枚に割った4群4枚のエルノスターの基本型です。バックフォーカスは非常に短く、レンズ後端から約1cm。
シリアルナンバーから見ると、1936年(昭和11年)製造のようです。写真工業出版社の”ライカのレンズ”のシリアルナンバーリストに25mmとして出ています。このロットは500本作られています。27mmとは記載されていませんが、25mmのうちの一本だと思います。リストをざっと見たところ、Hektor
Rapid 1.4/25は1933年から1940年にかけて全部で2450本ほど作られています。この辺に詳しいカメラ屋さんに聞いてみたところ、Hektor
Rapidは25mmしか聞いたことがないとのことでした。
最近作られたと思われるCマウントアダプタのようなものが附属しています。なぜこのようなアダプタが必要なのかは不明です。Cマウントのカメラにはそのまま取り付けられそうです。
指で回すだけで、ここまで分解できます。値札には絞り不良と書いてあったのですが、正常に動きます。ヘリコイドも問題ありません。
前玉と後玉は貼り合わせのない凸レンズです。中玉は貼り合わせのない2枚玉で、前が凸レンズ、後ろが両凹レンズのようです。すなわち、トリプレットの前玉を2枚に割った4群4枚のエルノスター型ですね。本には基本的なエルノスター・ゾナー型と書いてありますが、実際のエルノスターやゾナーには貼り合わせ面があります。
中玉に明らかな反射が4つ見えますので、貼り合わせのない2枚です。前面は凸で後面が凹なので、4群4枚のエルノスター基本型だと考えられます。バックフォーカスが短い点、開放がF1.4と非常に明るい点などからもエルノスター型と考えるのが自然だと思います。
2007.9.14 レモンとユズ
2週間ほど前のことですが、近所のホームセンターにレモンとユズの木が安く売っていたので、植えてみました。スダチとカボスも欲しかったのですが、残念ながら売っていませんでした。レンズはKino
Plasmat 1.5/90 F2.0.
まずはレモン。かなり葉っぱが黄色く、弱っているようにも見えましたが、これ一本しか在庫がなかったので購入。1個だけ青いレモンの実がついています。
次に、ユズ。まだ小さい実がたくさんついています。
2007.9.13 写真工業
”世界の歴史21 帝国主義の開幕” 中山治一著 河出書房新社 に写真が19世紀末の新しい産業として紹介されていますので、引用します。
”さらに、化学工業---ないしは物理工業---のいまひとつの分野として、おおきな発展---あるいはその可能性---を示したのは、写真工業であった。もちろん、写真のはじまりは1970年以前にあったが、しかしその進歩は、1870年代以降に急速なものとなった。巻き(ロール)フィルムの発明は1884年のことであったが、それから四年後には、最初の小型写真機「コダック」が市販されるようになった。カラー写真の誕生は1891年にあったが、それから四年後の1895年には、フランスで「シネマトグラフ」に特許権があたえられた。これは、やがて到来する映画ブームにさきぶれであった。”
2007.9.12 Sustenance
秋分の日のWorld Wide Panoramaのお題は "Sustenance"です。直訳としては、生計、暮らし、生命を維持するもの、食べもの、支持、維持、耐久、持続などの意味があるそうです。sustenanceはsustainの名詞形で、sustainの語源はラテン語の「下から支える」(sus+tenere「保つ」)の意味だそうです。意味の広い言葉ですので、何の写真を撮ればよいのか分かりません。まず思い浮かぶのは、稲刈りとか、漁師が網を引き上げるところとかでしょうか。
2007.9.11 血ぬられた平和
イエナの新種ガラスによって写真レンズが大きな発展をとげた1990年頃は、なぜかヨーロッパの「先進的」地域では大した事件が起こっていないのです。ドイツではビスマルクが失脚した後、平凡な宰相が短期間で交代していきますが、すぐには大きな変化はありませんでした。私の読んだドイツの歴史の本には、ここのところが詳しく書かれておらず困っていたのですが、”世界の歴史21 帝国主義の開幕” 中山治一著 河出書房新社 に明確な回答がありました。少し引用します。
”血ぬられた平和 19世紀最後の30年間、ヨーロッパ列強相互の間には、戦争がなかった。ことに1890年までの20年間には、ヨーロッパはいわゆる「ビスマルク的平和」を楽しんだといわれている。
けれども、これらの期間をつうじて、ヨーロッパはつねに戦争の噂になやまされ、戦争の脅威におびえていた。そればかりではない、「先進的」ヨーロッパの周辺の「後進的」地域では、現実に戦争がくりかえし姿をあらわしていた。”
これには、日清戦争や義和団も含まれます。
”まことに、ヨーロッパの平和には、つねに血と硝煙のにおいがしみついていたというべきである。”
2007.9.10 KOWA-SERの構造(2)
KOWA-SERのシャッターはSeikosha-SLVというレンズシャッターだったようです。レンズシャッターといっても、ボディー側にあります。今の一眼レフはすべてフォーカルプレーンシャッターですのでレンズの後玉をいくらでも大きくすることができます。しかし、Seikosha-SLVのような内径の小さなシャッターだと、後玉の直径が小さくないと入りません。今でこそ安くても安定したフォーカルプレーンシャッターが作れますが、昔は高価で不安定でした。それで直径が小さくても、安くて安定したレンズシャッターを使ったレンズ交換式一眼レフが作られたようです。ハッセルブラッドのようにレンズの中にシャッターを組み込めば良いのですが高価なシステムになるので、カメラ内部にレンズシャッターを組み込むという方法がとられたようです。
2007.9.9 KOWA-SERの構造
KOWA-SERが店にあったので触らせてもらいました。いったいどうやってボディー側で絞りを制御しているのかと思ったのですが、普通のカメラと同じ位置に絞り輪がありました。バヨネットマウントのカメラ側に、絞りとシャッタースピードを設定するリングがふたつ並んでおり、見た目はごく普通です。普通のカメラは絞り輪がレンズ側についていますが、KOWA-SERでは絞り輪がボディー側についています。つまり、カメラとレンズの切れ目となるバヨネットマウントの位置が違うわけですね。多分シャッタースピードと絞りを両方ボディー側に並べて置いた方が統一感があると考えたのでしょう。
しかしながら、たたこれだけの変更のために、カメラの構造が非常に複雑になっています。最も難しい点は、レンズによって開放F値が違うことです。ボディー側の絞り輪にはF2から刻印してあるのですが、F4のレンズではF4で止まりF2までは回せないようにできています。当然F2より明るいレンズを販売することはできません。ただ絞りと絞り輪をバヨネットマウントを介して接続するだけで、複雑なメカが必要になってしまいました。絞り輪の内側にこの複雑なメカを仕込むために、後玉の外形を約20mmまで細くしなければなりません。このために暗くて特別なレンズを設計する必要が生じたようです。
キヤノンがEOSでマウントを電子化した理由が良く分かります。複雑なメカはコストがかかるわりに拡張性がありません。しかし、電子化してしまえば、当初は苦しくとも、時がたつにつれて安定し、安くなっていきます。ただ電子化されてしまうと修理がきかなくなり、骨董品としての価値がなくなってしまうのが辛いところです。
2007.9.8 帝国主義
”世界の歴史21 帝国主義の開幕” 中山治一著 河出書房新社 に次のような記載があります。
”ここで、この「帝国主義」ということばについて、少し説明しておきたい。当時イギリスで刊行されていた一評論雑誌の1878年12月号に掲載されたある論文のなかに、
「われわれは、最近われわれのあいだにひろまった帝国主義という言葉によって、当惑させられている。・・・・・・いままでわれわれは、帝国の利害とか、帝国的政策ということについてはきいてきたが、しかし帝国主義というのは新しい概念である。」
とのべられているのをみると、それが、19世紀の70年代末期のイギリスで、ようやく一般に用いはじめられたことばであることが知られる。”
この当時は一部の植民地主義者や植民地官僚たちの、反自由党的な運動や主張を意味しており、イギリスだけの特別な現象に対してあたえられた言葉だったのだそうです。これが1890年代の末にあたらしい意味を持つようになります。
国というと、故郷とか藩とか、狭い地域で文化を共有する共同体という感じがします。王というと、その国を何代にもわたって支配した一族という感じがします。王には権威が必要ですね。帝国というとなりあがりものものや成金が皇帝を名乗って、調子に乗って旅行した国の集合体という感じです。皇帝には勢いが必要ですね。皇帝は旅先で時々戦争もしますが、まあどうせすぐに旅立ちますので、土着の王様は適当に調子を合わせて宿と食事を提供したのではないかと思われます。王様の圧制に民衆が苦しめられていた国では、解放者として歓迎を受けることも多かったでしょう。征服とはこんな感じだったのかもしれません。時代によって国家の考え方が変わるのでややこしいのですが、19世紀末以降の帝国とか皇帝とか植民地とかの用語に惑わされているような気がします。
2007.9.7 第一回ksmt.comレンズ人気ランキング
今までksmt.comトップページの撮影にどのレンズ何回使ったかカウントしてみました。自分がどのレンズを気に入っているか定量的に分かるのではないかと思って。
ランキング一位に輝いたのは、同率でZeiss Plannar 3.6/110とMeyer Kino Plasmet
1.5/90でした。Ernostar 2/100はわずかに及ばず3位。同率4位のDallmeyer Speed
1.5/75とOpic 2/5.5inは大変気に入っているので今後大きく伸びると思われます。全体で6位のPlanar
1.8/50は5千円以下部門で堂々のトップ。
14 Zeiss Planar 3.6/110
14 Mayer Kino Plasmat 1.5/90
12 Ernemann Ernostar 2/100
8 Dallmeyer Speed 1.5/75
8 Cooke Opic 2/5.5in
7 Zeiss Planar 1.8/50
7 Dallmeyer 3D
6 ICA Periskop Alpha
5 Zeiss Anastigmat Series I 4.5/183
4 Cooke Speed Panchro 2/75
4 Leitz Summar 4.5/80
4 Canon 2/100
4 Leitz Hektor 1.9/73
4 Zeiss Biotar 1.5/75
4 Cooke Speedic 2.5/6.5in
4 Cooke Copying M=1 2/4in
4 Zeiss Unar 4.7/145
4 Hermagis 4.5/210
4 Voigtlender Apo-Lanthar 4.5/150
4 Mamiya-Sekor 2.8/100
4 Cooke Triplet 3.5/6.25in
3 Kinoptik Apochromat 2/100
3 Cooke Technicolor 2/35
3 Ernemann Ernostar 1.8/50
3 Kilfit Makro Kilar 3.5/40
3 Nikkor-P 2.8/75
3 Asahi Takumar 1.8/55
3 Zeiss Biometar 2.8/120
3 Zeiss Orthometar 4.5/210
3 Beck Isostigmar 6.5/9.5in
3 Goerz Lynkeioskop No.5
3 Zeiss Biotar 2/58
3 Ross Zeiss Anastigmat V 18/86
3 Schneider Xenon 2/50
3 Mamiya-Sekor 3.5/100
3 Zeiss Tessar 4.5/135
2回以下は省略
2007.9.6 アフリカの植民地化
”世界の歴史21 帝国主義の開幕” 中山治一著 河出書房新社 を読んでいるのですが、アフリカのヨーロッパ人による植民地化は、それほど昔の話ではないんですね。1875年(明治8年)の時点では、まだほとんど植民地化されていなかったようです。同著から引用します。
”いま、1875年という時点に立ってみると、世界で二番目におおきいこのアフリカ大陸は、その面積の10分の1も、まだヨーロッパ人に盗用されてはいなかった。ところが、20年後の1895年には、その面積の10分の1だけを残して、それ以外の部分は全部ヨーロッパ人の支配下におかれていた。つまり、この巨大な大陸のおよそ80パーセントが、わずか20年間に植民地化されたのである。”
この時期は写真レンズが目覚しく発達した時期でもあります。
2007.9.4 Hermagis 210mm 4.5
エルマジー アナスチグマット 210mm 4.5をペンタ67マウントに改造してみました。割と細いレンズなので、太いペンタ67のチューブにうまく入れるのが難しいのですが、割ときれいに入りました。
かなり年季の入ったエルマジーです。明治時代のプラナー4.5のコピーのようです。テッサー型かと思って買ったのですが、分解してみると、典型的なダブルガウスでした。何年に製造されたレンズか分からないのが残念です。私の勘では、第一次プラナーブームの頃、すなわち、1896-1910年頃のものと思います。その後、1923-1924年頃に少しプラナー4.5が作られ、1925年頃にはBiotar 1.8の記載が見られます。1920年にテイラーホブソンのリーが作ったOpicの影響で、F2.0クラスのダブルガウス型レンズが続々と作られるようになります。年表風にすると、
1896年頃 ツアイスのルドルフがプラナー F3.6 - F6 を開発
1910年頃 プラナーが一旦すたれる。テッサー全盛時代。(工業用のS プラナーは別)
1920年頃 テイラーホブソンのリーがダブルガウスを改良し、オピック F2を開発
1923年頃 プラナー4.5が少量生産される
1925年頃 シュナイダーのトロニエがクセノン F2を設計。ツアイスのメルテがビオター
F1.8を設計。(キングズレークの”写真レンズの歴史では2年後となっていますが、ツアイスのシリアルナンバーを見ると1925年に販売されていてもおかしくないです。)
1931年頃 テイラーホブソンのリーがスピードパンクロ F2 を設計。ハリウッドの映画用標準レンズになる。
1933年頃 ライツのベレークがF2 ズマールを設計。
太さを変える段差のところが難しいのですが、たまたまフードにうまくねじ込めるフードを見つけたので、うまく行きました。
この改造の利点は、2分割でバッグに収納できることです。以前はこ一体型だったので、カメラバッグへの収納が困難でした。
2007.9.3 KOWA-Rの不思議
KOWA-Rは後玉が非常に小さい上に、ヘリコイドの後部に内面反射防止用と思われる遮光板がついています。レンズは全群繰り出し式ですのが、遮光板の位置は固定です。従って、無限遠の時にはレンズと遮光板が近くにあり、ケラレは発生しません。しかし、レンズを前に繰り出すと、どんどんケラレて行きます。カメラを見ていないので分かりませんが、なぜこんな取り付け方をしたのか理解に苦します。
一方、近接撮影をするときに、中間リングを使うと、ケラレは発生しません。これは遮光板が前に出て、イメージサークルが広がるためです。
分かりにくいので、図を描いてみました。こんなことが起こっているのです。普通は遮光板をレンズと一緒に繰り出すか、穴を大きくするかどちらかです。何故KOWA-Rではこのような設計になったのか謎です。
2007.9.2 KOWA-RとSuper-Takumarの比較
KOWA-R 1:4/135の方が大口径で、多分レンズも一枚多いのに、なぜSuper-Takumar
1:3.5/135より暗いのか?
デザインはよく似ています。この絞り輪は指がよくかかるので使いやすいと書いたのですが、実際に使ってみると、あまり使いやすくありませんでした。やっぱりゴムの方が使いやすいです。
KOWA-Rは大口径なので、F2.8に見えます。
最大の違いは後玉の口径。KOWA-Rはとにかく小さい。これが暗い原因だと思います。
2007.9.1 KOWA-R 1:4/135 EOSマウント
KOWA-R 1:4/135はフランジバックが長いので、EOSでのNikon-Fでも簡単にマウント変換ができます。Nikon-Fだったら、ただマウントを接着剤で貼るだけで使えると思います。
その辺にあるわっかを貼るだけですので、30分もあれば作業終了します。但し、絞りは変えられず、開放のみ。
EOSの場合には、適当なスペーサーを挟んで、レンズを数ミリ前に出す必要があります。実は、これでは無限遠よりだいぶ向こうまで行くので、元々1.7mの最短撮影距離が2mほどに悪化しました。元々マクロがきかないので、大勢に影響ないです。
なかなかきれいにできました。無限遠をまじめに調整すると汚くなってしまったので、外観を優先しました。せっかくきれいなレンズなので。一眼レフの場合、まじめに無限遠を出す必要は全くありません。無限遠がヘリコイドのどこかの位置で出ていれば、それで良しとしています。
2007.8.31 Super-Takumar 1:3.5/135
Super-Takumar 1:3.5/135 2133435 Asahi Opt. Co. (M42)
新品同様が980円だったので買ってみました。多分KOWAと同じ時代のようで、デザインがそっくりです。
このデザインは指がかかりやすく、ピント合わせが楽です。それに総金属製なので全く経年変化がありません。
M42なので、マウントアダプタですぐにEOSで使えます。M42アダプタは安いです。EOS用でも、Nikon
F用でも5千円もあれば新品が買えます。私のは1500円の中古ですが、動く部分がないため、問題ありません。かつては多くの海外・国内のレンズメーカーがM42のレンズを販売しており、手軽に古いレンズが楽しめます。
カメラより全然きれいですね。もったいないですね。実は私も分解してヘリコイドだけ使おうと思ってかったのですが、あまりにきれいなので、ちょっと使ってみようと思います。
2007.8.30 KOWA-R 1:4/135
KOWA-Rです。ほとんど使われておらず新品同様ですが、タダ同然です。取り付けるカメラがないせいでしょう。KOWA
SER(昭和40年), SETR(昭和43年), SETR2(昭和45年)用のレンズだと思われます。前玉が5cmもあるので、普通ならF2.8なのですが、後玉が小さくF4.0と控えめなスペック。KOWAのカメラについてまとめてあるホームページがあって、非常に分かりやすいです。このレンズも出ています。
コーワカメラクラブ http://www.geocities.jp/toyoo1943/youkoso.htm
レンズを拭いた跡はありません。
なかなかきれいな外観です。昭和40年当時で定価15,000円也。
前後のキャップ付き。
マウントは外爪の複雑な構造です。レンズ側に絞り輪はなく、カメラ側からの操作のみ。カメラ内部の内面反射を防ぐためか、後玉が非常に小さく、カバーで覆われています。フランジバックはEOSより数ミリ長いので、改造は簡単だと思います。ただ、絞りはF4.0固定になると思います。
2007.8.29 EOS-1D Mark IIIのライブビュー
EOS-1D Mark IIIのカタログをもらってきて見たのですが、ライブビューは予想通り強力です。ライブビューそのものはオリンパスで前からやってますので目新しいものではありません。しかしキヤノンの場合、無線LANと組み合わせることにより、今までと全く違う撮影スタイルが生まれそうです。キヤノンのカタログから引用します。
”これまでEOS Utilityでリモート撮影を行うためには、USB接続が必要でした。それを、無線/有線LANで可能にするのが、このPTPモードです。USBケーブルの代わりに、LANを利用する仕組みなので、リアルタイム画像を見ながら撮影するリモートライブビュー機能や画像の取り込み、フォルダー監視など、EOS
Utilityで行う全てのカメラ操作が可能です。スタジオでの商品撮影や記念撮影、天体や野生動物、研究開発時の記録撮影などに有効です。”
一眼レフのファインダーを覗く必要がなくなり、パソコンのモニターでライブビューを見ながらリモート撮影できるわけです。ですので、
○ 女優さんが”先生、きれいに撮影してくださいね”と言っていたのが、パソコンのモニターを見ながら、”先生、遊んでていいのよ、パソコンのモニターを見て自分でシャッター切るから。” つまりスタジオが超高級プリクラになる。
○ スポーツ撮影用のレンズが、超望遠レンズから超広角レンズに代わる。例えば陸上競技では、スタートラインの下に仕込まれたカメラが、真下から選手の表情をとらえる。カメラマンは別室からカメラを操作。北京五輪では目新しいアングルの写真が見られるかも。
○ 熊の背中に1Dmk3を背負わせて熊の目線のネイチャーフォト。東京、ロンドン、ロサンゼルスのカメラマン3人がシフト勤務で24時間シャッターを押す。
○ 修学旅行の記念撮影で、”ハイ、一番後ろの左から2番目の人、前の人と重なっているので、左によけて下さい” から ”ハイ、モニター見てください。前の人と重なっていないか、自分でチェックして下さい。”
2007.8.27 夏椿伐採
茶毒蛾にやられてしまった夏椿は、残念ながら昨日伐採し、廃棄しました。これで毒蛾の被害はもう二度起こらないはずです。夏椿は別名「沙羅双樹」または「沙羅の木」ですが、これはお釈迦様が亡くなったとき近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」とは全く別の木らしいです。
その代わりに植えたのが、ゆずとレモン。レモンの枝を切ってみると、枝からもレモンの香りがするんですね、驚きました。ゆずにはたくさん青い実がついています。レモンは1個だけ。うまく育ってくれるといいのですが。
2007.8.26 京都の夕焼けのパノラマ合成
8月21日の京都の夕焼けのパノラマ合成をしてみました。75mm一本しか持っていなかったので、
縦位置で6〜7枚撮影して、合成しました。これでだいたい28mmくらいです。パノラマ合成のいいところは、
広角レンズを持っていなくても平気なこと、必要に応じて360度まで画角を調整できること、
ものすごい解像度の写真が作れることなどがあげられます。
pano1s.jpg 2000x803 76KB
2007.8.25 黄金のローマ 法王庁殺人事件
”黄金のローマ 法王庁殺人事件” 塩野七生著 朝日文庫刊 は16世紀前半のローマを舞台にした華麗な恋愛小説。ローマで有数のコルティジャーナ(どうやら京都の舞妓さんみたいな職業の女性)であるオリンピアと、ベネチアの貴族マルコ・ダンドロという実在しないふたりの主人公の恋愛小説の形式をとります。しかしながら、そのまわりに登場する人物及び事物は史実に基づいて描かれ、ローマ法王パオロ三世、ミケランジェロ、神聖ローマ帝国皇帝カール五世(スペイン王カルロス一世)なども登場します。歴史を楽しく覚えるのには、誠に優れた本です。
こんなすごい本はとうてい書けそうにありませんが、19世紀末のドイツを舞台にした小説の形式をとりながら、レンズの開発の歴史を書きたいと思って、いろいろ調べている訳です。なかなか進みませんが。
2007.8.24 世界歴史地図
”世界歴史地図” R.I. ムーア編、中村英勝訳 東京書籍。
図書館で見つけた本なのですが、これがあれが西洋史の理解がうんと楽になります。ヨーロッパの昔の国または地域の名前は、現代の地図を見ても分らないので困ったものです。日本なら、たとえば薩摩は今の鹿児島のことだと分かるのです。時代ごとの地図があれば、地理的なことが簡単に理解ができます。また、ドイツ語読みと英語読みでは地名が異なるので混乱するのですが、これも避けられます。例えば、BAVARIAにバイエルンとルビがふってあったり、SAXONYにザクセンとルビがふってあったりします。
もちろん新刊は買えませんので、Amazonのマーケットプレースで購入。古本を探すのが非常に簡単ですので、助かります。ただ、この手の地図は大きくて重いのが難点です。
2007.8.23 ナポレオン
西欧の歴史を読んでいると、コルシカ出身のナポレオンがフランス皇帝になって、東欧まで支配していますが、どうも不思議でなりません。ということで、ちょっとだけナポレオンを調べてみました。
ナポレオンは9歳で父とともに渡仏し、16歳でパリの王立陸軍士官学校を卒業し、砲兵少尉に任官。22歳の時、休暇を取り、故郷のコルシカへ旅行し、そのままコルシカ国民革命の独立運動に身を投じた。このため、フランス軍はナポレオンを解雇。独立運動は成功せず、23歳の時パリに舞い戻るが復職できず、貧乏。ところが、フランス軍の司令官がオーストリアに投降したり、将校が二派に分裂したり、将校不足に陥ったらしく、砲兵大尉として復職に成功。1795年、26歳の時、ロベスピエールの失脚にともない、軍隊から追放される。投身自殺しようと死場所を求めてセーヌ河畔を徘徊しているとき、昔の友人の貴族に救われる。”ナポレオン戦争全史” 松村劭著 原書房刊 を参照。
波乱万丈ですね。
2007.8.22 京都の夕焼け
京都駅から見た西の空。2007年8月21日午後6時半頃。
2007.8.21 イタリア(2)
イタリアの軍隊は本当に弱かったようですね。多分ほとんど必要なかったのでしょう。再び”物語 イタリアの歴史” 藤沢道郎著 中央公論新社刊 から引用させて頂きます。18世紀のはじめ、スペイン継承戦争が終わって、イタリアの支配者=保護者がスペインからオーストリアに変わった頃の話です。
”軍隊はあったが、サヴォイア公国以外は実戦に使える代物ではない。一例としてトスカーナ大公国陸軍の兵士リストを覗いてみよう。「ドメニコ・カンパーナ、兵士、70歳、勤続34年、杖をついて歩行する。ジョヴァンバッティスタ・レオナルディ、70歳、勤続40年、両眼失明。ミケーレ・リッチ、80歳、勤続59年、杖にすがれば立つことはできる・・・・・」 戦争の好きな若者は、外国へ行って、皇帝にでも王様にでも仕えればよい。才能があれば出世できるだろう・・・・・。”
2007.8.20 チャドクガ
夏椿にチャドクガが発生しているのを発見。殺虫剤を買ってきて駆除。これにやられるとひどいことになります。毛虫が好きな人は、こちらをご覧下さい。毛虫が嫌いな人は見ない方がいいと思います。
2007.8.19 二子玉川の花火大会
昨日の午後4時頃から絞りのテストに電車で駒沢公園に出かけたのですが、すでに浴衣の人がちらほら。今日は二子玉川の花火大会です。午後6時ごろ駒沢大学駅から下りの電車に乗ったら超満員。6時半から花火なのでしょうがないですね。花火の最寄り駅は二子玉川と二子新地。いつものようにものすごい人出です。今年は浴衣がはやっているようで、若い女性は半分くらい浴衣を着ているように見えます。男性でもちらほら。20年ほど前に一度見に行ったことがあるのですが、帰りの混雑はものすごいものがあります。
2007.8.18 絞り板製作
Carl Zeiss, Jena No 4475 Anastigmat 1:4,5 F-183mm の絞りを製作。ウォーターハウス絞りです。黒いビニール板をハサミで切って、彫刻刀の丸いので穴を開ければ完了。慣れれば10分でできます。
左の穴がF8。右がF16の穴です。単純計算で穴の直径を決めています。F8: 183/8=22.8mm,
F16: 183/16=11.4。異常に長いのは、たまたまこの長さの板を使ったため。長すぎて不便ということはありません。
取り付けたところ。最小は寸法を測って切りますが、慣れれば現物合わせで、いきなりチョキチョキ切れます。こちらの方が正確。
この微妙な傾きは、適当にレンズを改造したら、たまたまこうなったという訳でして、決して右利きの人が絞りを交換しやすいように考慮したわけではありません。結果オーライです。
これが開放F4.5。
F 8 の絞りを使用。
F 16 の絞りを使用。
ちょっとテストしてみると、一応ちゃんと絞りの効果は出ています。
F 4.5 かなりぼやけてますね。
F 16 かなりシャープになりました。ピクセル等倍でこれだけシャープなら立派なものです。
2007.8.17 スピードパンクロのコマ収差
掲示板にスピードパンクロのコマ収差の話が出たので、ピクセル等倍の拡大写真を追加しました。
http://www.ksmt.com/panorama/070815ginza/070815ginza.htm#sp
F2.0にしては、そんなに悪くないと思います。
2007.8.16 イタリア
あいかわらずドイツの歴史を調べているのですが、まだよく理解できていません。そして、さらにそれより分からないのがイタリアの歴史です。神聖ローマ帝国という名前のドイツの統治下におかれたり、ナポレオンのフランスに支配されたり、イタリア統一が1861年と遅かったりします。何で簡単に他の国に支配されてしまうのか不思議でなりませんでした。そこでイタリアの本を探したら面白いのがありました。”物語 イタリアの歴史” 藤沢道郎著 中央公論新社刊 です。この本の”第十話 作曲家ヴェルディの物語”は物語としても大変面白いのですが、歴史に関しても次のような分かりやすい記述があります。ちなみに、イタリア語では「歴史」と「物語」は同じ言葉だそうです。
(ナポレオンの押し付けた)”徴兵制はビエモンテ以外のイタリア人にとては恐ろしい災厄だった。教皇領諸国では召集令状を受け取った荘丁四百五十人のうち半分しか出頭せず、それも髪を掻きむしって悲しむ母や姉妹と、十字架を捧げた神父に付き添われていた。子弟を召集された貴族は門扉を固く閉ざし一家全員が喪服を着た。彼らにとって戦争は、金を払って専門の人にやらせるべきものであり、まっとうな市民のすることではなかった。”
つまり、金持ちは戦争をする気は全くなかったわけですね。
”それに、教会が世俗権力への従属を免れるためには、教皇庁の存在するイタリアに統一した強力な権力を成立させないというのが、伝統的なカトリックの政策である。”
そういわれれば、そんな気もします。ドイツもオーストリアもフランスも、皆ローマカトリック教会の檀家なわけですね。同じお寺の檀家同士の争いみたいなものですね。お寺があまり強いと困るが、つぶすことはできない、という感じでしょうか。
2007.8.15 鎮台
実家の近くに”チンダイさん”という屋号の家があって、変わった名前だなぁと思っていたのですが、分かりました。きっと昔”鎮台”だったんですね。鎮台とは明治4年に設置された陸軍の組織で、明治21年に師団に改組されるまで、日本陸軍そのものでした。明治6年に制定された徴兵令によって農家からも鎮台に行く人が出たのでしょう。また当初は成年男子の3〜4%であったため、めずらしかったのでしょう。当初は徴兵制の評判は悪く、”血税一揆”なども起こっています。今では血税はお金の意味で使われていますが、元々は徴兵のことだったようで、印象が悪かったようです。しかし、その後、国防思想の普及、日清日露戦争での勝利などにより、次第に名誉なことだと思うようになったようです。
2007.8.14 図書館
野毛山公園の近くの横浜市立中央図書館にドイツ史の本を探しに行ってきました。あわよくば写真産業史の本をと思ったのですが、そのようなものは見当たらず。備え付けのパソコンで”レンズ 歴史”と入力すると、ただキングズレークの本が一冊リストされるのみ。
ビスマルクの伝記を探してみたら、分厚い本の9巻セット。これはさすがに読む気がせず、断念。簡単なものでよかったのですが。
結局。”ドイツを読めば日本がみえる” 加来耕三著 二見書房と、”近代ドイツの辿った道”
A.J.Pテイラー著 井口省吾訳 名古屋大学出版会、の2冊を借りて帰ることにしました。
2007.8.11 アナスチグマートI類再改造
ツアイスの電話帳には、アナスチグマートI類は1892年から1896年まで、わずか42本しか記載されていません。183mm F4.5は9本だけで、これは最後に作られたもの。かなりめずらしいはずなのですが、うまく改造できず、全然使っていませんでした。そこで、ペンタ6x7マウントに再改造。
ペンタ6x7よりもだいぶ細いので、太さ合わせが結構大変。
ペンタ6x7のヘリコイドチューブを使って、ペンタ6x7に装着。
自作EOSアダプタでEOSに装着。
最短2mでそのへんにあったカメラを撮影。ソフトです。
2007.8.10 パンクロタールのレンズ構成
”写真レンズの歴史” ルドルフ・キングズレーク著、朝日ソノラマ刊 に6枚エレメントのダブル・ガウス型のレンズの例として、パンクロタール(Panchrotal)とスピード・パンクロ(Speed
Panchro)があげられています(但し、必ずしもダブルガウス型とは限らないとの注釈つき)。スピード・パンクロは分解できたので、明らかにダブルガウスだと確認しました。ところがパンクロタールはどうしても分解できません。ダブルガウス型だと思って買ったパンクロタールですが、改造して使ってみたところ、明らかにダブルガウス型ではない特徴を示しました。焦点距離が近いスピード・パンクロと比べると明らかです。
(1) バックフォーカスが非常に短い。3 inchのスピード・パンクロよりも4 inchのパンクロタールの方が短い。つまり望遠型のレンズ。
(2) 強い糸巻き型の歪曲がある。スピード・パンクロにはない。
(3) レンズの一番後ろの面(カメラ側)が深い凹面である。スピード・パンクロは凸面。
Googleで探したところ、次の中国語の論文に出ていました。
http://0-thesis.lib.ncu.edu.tw.lib1.npue.edu.tw/ETD-db/ETD-search/getfile?URN=91226015&filename=91226015.pdf
開くのが面倒くさいので、ちょっと引用させて頂きます。
この型のレンズは初めて見ました。エルノスター F2.0の3群と4群を貼り合せて、ひっくり返したようですね。多少の歪曲には目をつぶって、コントラストとシャープネスを追求した感じです。35mmフルサイズだと目立つ歪曲も、映画のハーフサイズだと目立たないのかもしれません。
2007.8.9 ブロワー
最近ブロワーをやたらと使います。レンズの改造時に削りかすを吹き飛ばしたり、撮像素子ほこりを飛ばしたり、レンズ交換時にレンズ内部のゴミを飛ばしたり。自分で改造したレンズからは、やたらとゴミが出ます。加工時のゴミが飛ばしきれていないのが主な原因です。絞りを開けている分には、ゴミはほとんど目立たないのですが、絞ると非常に目立ちます。そこで、大きなブロワーを購入しました。1890円也。ロケット型です。
全長は16cmほど。今まで使っていた300円くらいのは、だいぶくたびれています。グリースのついた手で触るので、汚くなります。
机の上に自立するというのが特長です。一回に送り出せる空気の量が多いので、楽です。
2007.8.8 王様のあだ名
ヨーロッパの歴史の本を読んでいると、似たような名前の王様がたくさん出てきて、なかなか覚えられません。でも、昔の庶民も王様を正式名称で呼んでいたわけではないようです。あだ名がついている人が結構たくさんいます。たとえば、
禿頭王 フランス カロリング家 シャルル2世
無為王 フランス カロリング家 ルイ5世
敬虔王 フランス カペー家 ロベール2世
尊厳王 フランス カペー家 フィリップ2世
聖王 フランス カペー家 ルイ9世
美王 フランス カペー家 フィリップ4世
強情王 フランス カペー家 ルイ10世
長身王 フランス カペー家 フィリップ5世
征服王 イギリス ノルマン家 ウィリアム1世
獅子心王 イギリス プランタジネット家 リチャード1世
欠地王 イギリス プランタジネット家 ジョン
雷帝 ロシア リューク家 イワン4世
2007.8.7 山崎光七
1905年(明治38年)に浅沼商会に徒弟として入社した山崎光七(1893-1989)は、指物師からレンズ屋になることを決心する。写真工業2006年11月号、光学随想 2 山崎光七のコンゴーレンズ 尾関萬里著から引用させて頂きます。
”そこで営業に頼んでツァイスに手紙を書いてもらう。私は貴社の1類C型180mm
F4.5が大変気に入っている。同じものを自分で作ってみたいので材料を送ってもらいたいと書いた。営業の者はそんな馬鹿なことはないといったが、とにかくツァイスに手紙を送ってくれた。 半年も経ったであろうか、忘れたころにその現品が到着した。光七は鼻の穴を膨らまして、あらかじめ相談してあったレンズ屋の所に駆けつけた。”
光七さん無茶しますね。ツァイスも太っ腹ですね。ただし、これですんなりとレンズができた訳ではありません。レンズ屋がどのガラスが何番目か分からんというので、日本光学に順番を調べてもらったり、金物がうまくできなかったり、塗装で問題が出たり。コンゴーレンズが完成するのは昭和2年(1927)頃だったようです。これが契機となって小西六がヘキサーを開発するのが昭和6年ころです。
明治8年(1875)に国立レンズ製造所ができてから52年、テッサーの特許が下りた1902年からでも25年が過ぎていますが、山崎光七の無茶によってようやく日本のレンズ生産が始まったそうです。
尚、山崎コンゴーレンズは、その後、この著者の尾関萬里氏によって再設計され、現在も人気が高く、山崎光学研究所から発売されています。
2007.8.6 国立レンズ製造所
尾関萬里氏の”写真随想”の中で、第1回の”国立レンズ製造所”が一番好きです。珠玉細工職人の朝倉松五郎が明治6年のウイーン万博に行った帰りにレンズ研磨を習い、動力研磨機を持ち帰り、日比谷の内務省博物局内で国立のレンズ製造所の運転を開始します。朝倉松五郎は帰国2年目に34歳の若さで亡くなってしまい、若い職人にレンズ研磨技術を十分教えることはできませんでした。しかしながら、これが日本の光学工業の礎になったことは間違いないようです。明治の人の意気込みが伝わる箇所を引用させて頂きます。
”ウイーンに派遣されたいた博覧会副総裁佐野常民以下71名、共通の思いであった。われわれはこのままでは帰れない。何らかの技術研修をして戻りたいという声が圧倒的だった。そのため佐野常民は、政府に1万円の経費を要請するが、博覧会が終了したらすぐ帰れというにべもない返事。再三の交渉の末、会場に残した神社等の残存物を売り払った代金(約6千円になった)の範囲内で実行してよいことになる。”
2007.8.5 光学随想
写真工業の2006年10月号から2007年4月号にかけて尾関萬里氏が”写真随想”を連載しておられました。大変面白い記事ですが、今は残念ながら休載となっています。尾関萬里氏は1922年(大正11年)生まれで、日本光学に入社。その後、陸軍に徴兵。戦後、中学の教員などを経て、第一光学に入社し、レンズ設計者となる。その後、八陽光学、太陽堂光機、ビューティカメラ、トキナーなどを経て、1984年、設計コンサルタントとして独立。
写真工業は全部は保存していないので、写真工業出版社のホームページで目次を調べてみました。
2006年10月号 国立レンズ製造所(新連載) ○ (一度捨てたが、昨日フジヤカメラで再購入)
2006年11月号 山崎光七のコンゴーレンズ ○
2006年12月号 辻内順平先生のレンズデータ ×
2007年1月号 (休載?)
2007年2月号 富田良次氏とシムラーレンズ X
2007年3月号 ケプラーの望遠鏡 ○
2007年4月号 コンピュータとレンズ(休載お知らせ) ○
○は手元に本があるもの。Xは廃棄して手元にないもの。
尾関氏はレンズ設計者として、戦中から戦後の激動期を見ておられますので、その随想は大変面白いです。是非また連載を再開して頂きたいものです。
2007.8.4 アラビヤのロレンスのレンズ(ADON)
ADON PATENT J.H. Dallmeyer No 78273 LONDON
アラビヤのロレンスが持っていたレンズだと思います。手彫りの刻印がきれいです。ラックアンドピニオンギヤでピント合わせを行います。
マウントはライカスクリューと同じ39mmです。小さなレンズです。
手彫りの刻印です。ほぼ完璧ですが"8"の数字はちょっと乱れています。
使うときには前玉を引き出します。聞き出す距離を変えると、焦点距離とバックフォーカスが同時に変わるようです。引き出さないと焦点が合いません。カメラ屋にどうやって使うのと聞くと、知らないとのこと。きっと引き出していなかったので、焦点をあわせられなかったのだと思われます。何のためだったか忘れましたが、以前作ったチューブに取り付けて終了。改造する必要はありませんでした。
窓の外を写すとこんな感じ。超望遠です。もやがかかっており、写真向きの天気ではありません。四隅がケラレているのは、多分Nikon
Fマウントの穴が小さいせいです。
ピクセル等倍だとこんな感じ。多分ぶれていると思います。暗いレンズだし、手持ちなのでしょうがないですね。
比較はEF 300 F4 ISL IS USM + EF 1.4xで合成焦点距離420mm。F19でこの明るさです。一応アドンは420mm
F18としておきます。焦点距離は前玉の引き出し具合で変わります。これだけコンパクトなレンズなので、F18はそんなに悪くないと思います。
2007.8.3 COOKE ANASTIGMAT 40mm f/2
COOKE ANASTIGMAT 40mm f/2 563684
シリアルナンバーから見て、わりと新しいレンズです。専門業者が改造したものなので、分解はできないのですが、構造はTechnicolor
35/2.0と同じだそうです。
PHOTO-SONICSという会社が改造したようです。元はもちろん35mm映画用の逆望遠レンズです。35mmのイメージサークルはなく、ハーフサイズ用です。35mmフルサイズで使うと隅が黒くなり、周辺は流れますが、中心はシャープです。ただ、Technicolor
35/2よりは、5mm長い分、多少イメージサークルは広いです。
ライツのヘリコイドを使ってNikon Fマウントに改造されています。さすがにきれいな改造ですね。
でかくて重いです。これで35mmがカバーできないわけですから、普通に考えれば使う意味はありません。しかし、一眼レフで使える広角のクセ玉というのはあまりないのです。何とか使いこなさなければ。
2007.8.2 Dallmeyer No 9 Kinematograph
J.H. Dallmeyer LONDON No 9 KINEMATOGRAPH No108417
ダルマイヤーのキネマトグラフというと、F1.9のを想像します。F1.5というのもあるとの噂。これはきっとものすごく高いでしょう。一方こちらは安い方。約1/10の値段です。最初とんでもない掘り出し物かと思ったのですが、そうは問屋が卸さない。
割と小さなレンズです。
塗装ははげてきていますが、刻印ははっきり読めます。
No 1は 1 inch くらいの短い焦点距離だったと思います。No 9なので、望遠レンズじゃないかなぁと思ったのですが、その通りでした。
分解すると、明らかに2群4枚。つまり、ADONです。ADONを映画用の望遠レンズにキネマトグラフという名前で使ったようです。
余っていたヘリコイド(元はマミヤプレス)に瞬間接着剤で貼り付けて、あっという間に改造終了。
Kinematgraph No9の写真。もやがかかった天気にしては、結構きれいに写っています。絞り不明。1/3000秒
比較したのはEF 70-200 F4。焦点距離は200mm。キネマトグラフはこれより少し短いので、160mmくらいだと思われます。同じ1/3000秒で、明るさが同じになる絞りを読むと、F4.5。案外明るいですね。ボケ具合からするとF5.6かもしれません。一応160mm
F5.6と断定します。
キネマトグラフ+EOS 5D ISO400。ピクセル等倍表示ですが、結構解像度高いですね。これなら映画に使えそうです。
2007.8.1 Kinoptik Apochromat 100/2
APOCHROMAT KINOPTIK PARIS F:2 FOCALE 100mm No 21529
映画用のアポクロマートです。全く分解できないので、中身は不明ですが、スペックから考えると多分基本的なダブルガウスじゃないかと思います。バックフォーカスは十分長いので、中判でもいけます。
あまり状態の良くないレンズと聞いていたのですが、実際は十分にきれいで、何ら問題ありませんでした。
映画用で、ヘリコイドはついていません。
改造はたったこれだけ、ブロニカの中間リングを適当に切って、ビスで留めただけです。
これをブロニカのヘリコイド経由でEOSに取り付けます。見た目はいまいちですが、暫定マウント完成。後日中判用の本マウントを作りたいと思います。カメラ屋の話ではハッセルならOKで、ペンタ67は無理。私はハッセルは持っていないので、無理にペンタ67に挑戦してみたいと思います。しかし、暫定マウントがあまりに使いやすいので、本マウントは先送りになりそうです。。
2007.7.31 COOKE SPEED PANCHRO 75/2
COOKE SPEED PANCHRO LENS No282574 75MM f/2
SPEED PANCHRO 75/2の改造はカメラ屋によると簡単だとのことでしたが、実際は難しいです。結局絞りを回すのはあきらめて、開放に固定。これなら改造は簡単ですが、絞りを回せるようにするのは大変。
75mmのくせに100mmのパンクロタールよりうんとフィルムバックが長い理由はよく分かりません。
分解すると、普通の4群6枚の基本的なダブルガウス。Opicと同じようです。
ネジは針金のストッパーでで固定する方式。ワンタッチではずせます。
溝を合わせて針金を入れるとロックされます。
以前プラナーF3.6で使っていたヘリコイドを流用。ただし、絞り輪は前からも後ろからも回せず、開放のみ。とりあえずはこれでテストしてみたいと思います。
2007.7.30 COOKE PANCHROTAL 4inch T2.5(F2.3)
COOKE PANCHROTAL ANASTIGMAT No369472 4inch T2.5
一眼レフへの改造が難しいので有名なPanchrotal 4inchに挑戦。あまりにも改造が面倒くさいので改造業者が投げ出したレンズです。
レンズはきれいです。T2.5ですが、カメラ屋ではF2.3と呼んでいました。
左のでぱった部分はヘリコイドなのですが、この部分を切ればいいというわけではなくて、左側のギザギザの部分をほとんど切り落とさないと無限遠が出ないらしいのです。
ここまでは分解できます。絞り輪が異常に硬く、実質的に回すことができませんが、その部分は分解できず修理できていません。開放絞りでしか使えませんが、これは後回し。
特殊なヘリコイドです。とても精度の高いもので、素手で強く握って回すと指が切れました。
どれくらい切ればいいのか分からないので、まずEOSのマウントを素直に貼った時のでっぱりを切ってみました。残念ながら、全然切り足りず、もう一回きり直しです。勘でエイヤと7mmほど追加で切断。
切り取った部品。最低3箇所切る必要があります。
ヘリコイドの切断は怖いです。切りくずがヘリコイドの中に入ると全く回らなくなります。従って、切る前に丁寧にマスキングする必要があります。私はセロテープでマスキングしています。
ここまで切ってやっとEOSで無限遠が出ます。ニコンだと後少し削らなければなりません。
ここまで短くして、完成。3箇所で縮めています。
EOSに取り付けたところ。なかなかきれいに出来ました。
カメラ屋の言うとおり結構大変でした。ヘリコイドを切ったので、最短撮影距離は3m程まで伸びてしまいました。絞りも固くて回せませんが、これで試写は十分できます。
最後にフードを探すとELMOのプラスティックのフードがぴったりでした。
2007.7.29 Cooke Technicolor 35mm f/2
COOKE ANASTIGMAT FOR TECHNICOLOR No218404 35MM f/2
Technicolorはカラーフィルムが開発される前に、複数の白黒フィルムを使って撮影された擬似カラー映画です。色分解用のプリズムが入るため、広角レンズは逆望遠型にせざるを得なかったようです。
”写真レンズの歴史” ルドルフ・キングズレーク著、朝日ソノラマ より引用
”1931年、テーラー・ホブソン社のH.W. リーが三色分解テクニカラー・カメラ用に焦点距離35mmF2レンズを設計した。このカメラではレンズの後ろに置く色分解用のガラス部品が広い場所をとるので、焦点距離50mm以下の普通のレンズは使えなかったのである。”
映画用のレンズを一眼レフ用に改造して言っている業者が、このレンズをどうやって改造しようか長い間悩んでいました。小さな絞り輪がレンズの最後尾にあるためです。自分で改造するなら、安くしとくよというので、うちにやってきたわけです。
何とかぎりぎりEOSマウントに改造できました。ミラーがレンズのお尻の金属に当たるので、ぎりぎりまでヤスリで削る必要があります。こりゃ大変です。しかし、これ以外は特に難しいことはありませんでした。
シリアルナンバーが書いた古い紙が貼ってありますが、ここは隠れるところなので、そのままにしておきました。
構成は3群3枚のトリプレットの前に2群2枚のワイドコンバータを取り付けたような構造。合計5群5枚。
面白い絞りです。初めてみました。絞っていくと最後にしゃもじのようなものが出てきて、完全に光を遮断します。
手書きで404と書いてあります。多分シリアルナンバーの下3桁でしょう。前のワイドコンバータ部分にしかシリアルナンバーの刻印がありませんので。
改造は、まずペンタ6x7の中間リングをヤスリで削って、ぴったりレンズが収まるようにします。ミラーとの干渉防止のため、3mm厚のスペーサーを作りました。
絞りはレンズを取り外して変えます。変えやすいように小さなハンドルを取り付けたのですが、後で良く考えると、不要でした。ワンタッチでこの状態になりますので、普通に絞りを変えればいいです。
このような操作方法のために作ったハンドルです。まあ、これでもいいのですが、絞り値の文字は読めません。
そのままではEOS5Dのミラーに当たるので、ヤスリでギリギリまで削りました。EOS
30DなどのAPS-C機なら、削る必要はないでしょう。でも、せっかくの広角なので、どうしてもフルサイズで使いたい。
改造完成。ペンタックス6x7の部品でできていますので、ペンタックスのレンズを間違われそうです。
最後にガラクタ箱の中からレンズキャップを探して、改造終了。