EOS10D日記その38 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---
2010.1.40 ニエプス兄弟(6) 結婚
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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今、彼女はここに、彼が宿泊している家にいる。そして戦闘での勇敢な行動でイタリア方面軍の参謀部に昇進した。参謀副官である友人フロティエが彼を副官として要求したのだ。彼の生活はもう少し快適なものとなるだろう。彼はそれを要求している。野戦での過酷にすぎる状況が健康を損なわせていたからだ。多数の死者を出した酷寒の冬が終わろうとする頃、新たな疫病がニースを襲った。ニセフォールは死に瀕した。だがアニェスはこれ以上できないほど献身的に介抱した。伝染することを彼女は恐れなかった。もしニセフォールが死ぬようなことになれば、彼女はきっと彼のために、ともに死ぬだろう。彼女にとっても、彼は喜びと苦悩をみなぎらせる愛の顔をした、予期せぬ出現であった。彼女は彼のことを何でも知っている。彼がすべてを彼女に語ったからだ。二人とも間もなく三○歳になる。だが、二人は情熱や恋の優しさについてまだ何も知らない。
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イタリア方面軍に配属されたニセフォール・ニエプスは、イタリア国境に近いニースで駐留します。宿舎の民家でアニェスに出会い心を奪われますが、残念ながらアニェスは結婚していました。しかし、ニセフォールが嵐と雪のアルプスの戦闘から帰ってくると、アニェスは未亡人になっていました。その後、ニセフォールは疫病で生死の境をさまよい、アニェスの献身的な看病によって回復します。そして、結婚。この間、ナポレオン・ボナパルトは勝利を続け、イタリア方面軍司令官になります。
2010.1.39 ニエプス兄弟(5) フランスの先駆者たち
第一中隊に入ったニセフォール・ニエプスは生家のあるサン=ルーに配属となり、兄クロードといっしょに楽しい時間を過ごすことができるようになります。この頃フランスでは科学が流行し世界の最先端を走るのですが、どういうわけかイギリス人やアメリカ人に手柄を横取りされてしまいます。ニエプス兄弟はこれがくやしくてたまらなかったようです。
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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サン=ルーはいわば二人の母港である。子ども時代に改造され、飾られた納屋は洞窟であり、宝島であり、彼らの好奇心が知識となる特権的な場であった。一人は空想を現実に引き戻そうとして魔法の映像を実現させようと計画する。もう一方のクロードは途方もない装置を入念に作り上げる。彼にとって英雄は先駆者たち、つまり、最初の自動車とも言うべき<運搬車>を考案したキュニョと、蒸気船のジュフロワ・ダバンであった。ワットやフルトンといった運のいい人間たち --- クロードは彼らに打ち勝つことを心に誓っている --- に蹴落とされた不幸な英雄たち。彼にはかつてないほどの加速度を持つ、爆発性の動力というものについての予感がある。
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ワットもフルトンも発明をしたというよりは、既存の技術を改良し商業運転を開始したことにより有名になりました。一方、ドニ・パパン、キュニョ、ジュフロワ・ダバンなどのフランス人科学者たちは偉大な実験に成功しているにもかかわらず、ほとんど有名にはなりませんでした。もちろん私も今回初めて知りました。ニエプス兄弟がフランスの先輩科学者の恨みを晴らしたいという意気込みが良く分かります。
2010.1.38 近江(8) お寺の数
「百寺巡礼 第四巻 滋賀・東海」(五木寛之著、講談社)から引用します。
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ところで、日本で一番人口当たりの寺の数が多いのは、いったいどこの県だろうか?
こうたずねられたら、たいていの人は「もちろん京都でしょう」とか「奈良じゃないのか」と答えるのではあるまいか。
実は私自身も、京都だとばかり思い込んでいた。なにしろ、京都の街を歩いていると、いたるところに寺があるからだ。
ところが、以外にもトップは京都ではなかった。おとなりの滋賀県が全国第一位なのだそうである。人口十万人あたりの仏教寺院数が、滋賀県は269.5寺である。これは平成六年(1994)のデータなので、現在もその順位は変わっていないだろう。
それだけではない。県内にある寺院の数を単純に比較しても、滋賀には3200以上あって、京都の3000あまりを上回っている。
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この本では、滋賀県の寺として三井寺、石山寺、延暦寺、西明寺、百済寺、石塔寺について書かれています。西明寺(さいみょうじ)、百済寺(ひゃくさいじ)、石塔寺(いしどうじ)はまだ行ったことがないので、機会があれば訪れてみたいと思います。特に石塔寺は、司馬遼太郎氏、白洲正子氏、瀬戸内寂聴氏、小林秀雄氏などが絶賛しているようです。
2010.1.37 ニエプス兄弟(4) 義勇兵
1789年7月、バスティーユ襲撃。いよいよフランス革命が始まります。故郷のシャロンに帰ったニセフォール・ニエプスは志願して義勇兵となります。「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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ニセフォールにとって、楽しみにしていた帰宅は失望に終わった。自分の家で、家族の中で彼が見出したものは愛情を別にすれば、成り行きにまかせるしかない数々の問題だけであった。だがそれはどのように解決されるというのであろう?
明日市役所に出頭しよう。兵籍に登録されるだろう。つまり宗教の誓願から解放された途端、別の誓願にとらわれることになるのだ。昨日はスータンを着ていた。明日は軍服に身を包む。彼にとってはどちらも同じことだ。阻まれ、延期された将来であった。
情勢に押されてニセフォールは市役所に出頭した。市にとっては申し分のない新兵であった。ニエプス兄弟は敬意と完全な信望を受けるにふさわしい。ただちに、中産階級の良家の青年たちで構成されている第一中隊に編入され、ニセフォールは規律に服従する義勇兵となった。
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ニエプスはフランス革命の真只中にいたわけですね。このころ、アメリカではジョージ・ワシントンが初代大統領に就任。日本ではこの頃、天明の大飢饉、筑前国志賀島で金印発見、田沼意次が失脚などが起こります。この少し後に東洲斎写楽が登場します。ニエプスは写楽の浮世絵を見ていたかもしれません。
2010.1.36 ニエプス兄弟(3) ボナパルト
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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「父は僕を聖職者に決めていた」とニセフォールが打ち明けた。
「僕の方は軍職にだ。10歳のときにブリエンヌの士官学校に入った。そのときから僕は家族に会っていないんだ。父には一度だけ、パリの士官学校に入学が許可されたときにね。十六歳だった。それからほどなくして、1785年に父は亡くなった」
「僕の父も亡くなった。僕は科学、研究だけに引かれている。現在、これほど多くの発見が相次いでされている。僕の家族は安楽に暮らしていける。兄弟や僕は幸運にも将来のことを気づかわずにすむ。それに兄はいつの日か天分を大いに発揮しますよ」
ボナパルトは苦々しい、軽蔑するような笑いを浮かべた。
「将来!・・・・・確かに貴君は幸せだ! 僕には将来などありはしない!」
「でも貴君は20歳で早くも将校になっているじゃありませんか」
ボナパルトの表情が曇る。
「僕は十六歳で将校になった。僕は<国の生徒>の一員となった・・・・・孤児や文無しや家柄なしの類だ・・・・・ブリエンヌの士官学校ではラテン語ばかりが教えられた! 貴君のようにオラトリオ修道会で学びたかったよ」
「神学校で僕はよく退屈した」
「僕が軍隊でどれほど退屈しているか貴君には想像もつかないだろう! 軍隊で何ができるかいつも自問している。僕が好きなのは家庭生活、それに数学と読書だけだ。僕は作家に、それも偉大な作家になりたい。貴君も知っての通り、僕は文章を書いている。随筆、小説、それに戯曲だ。僕の心をとらえて離さない死や栄光について語るんだ」
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1789年春、ナポレオン・ボナパルト20歳、ニセフォール・ニエプス24歳の出会いでありました。ボナパルト砲兵隊中尉は暴動を鎮圧するため、スールにやってきました。そこでニセフォールの従姉妹であるピエレットの美貌に心を奪われます。ちょうどそこに、司祭になるのをやめてシャロンに帰る途中のニセフォールが立ち寄ります。
2010.1.35 易学入門(40) 外典と内典
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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このようにごく基本的な戒律についても、勝鬘経に初めて接した当時の日本人は深い感動を覚えたのではないだろうか。このような内面の統制が人間にとって最も大事な徳性であるということを、日本人はこの頃仏教から初めて学んだのである。儒教は『日本書紀』が聖徳太子について書いている条で呼ぶように、「外典」(げてん)であり、社会をいかに統治していくかという政治学としてまず日本人には取り入れられた。それに対して、仏教は「内典」であり、内面の統御を教えるものとして儒教に対置されて受け止められていたのである。
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勝鬘経は優れた仏教の入門書であったようです。この後、十七条憲法にも大きな影響を与えているようです。易だけではなく、仏教も少し知れば、日本史の理解が進むのかもしれません。
2010.1.34 ニエプス兄弟(2) 父クロード
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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将来の発明家の父であるクロード・ニエプス先生は控訴院付き弁護士であり、シャロン市バイイ裁判所裁判官兼徴税官であった。くわえて、ロアン・シャボ公から、ブルゴーニュ地方の広大な領地の管理を託されていた。彼は任務に打ちこみ、忠実に履行する。宗教的道徳や約束に重きを置く、誠実な人間であり、揺るぎのない信念を持っている。ルイ十五世、次いでルイ十六世に仕える<王の名代>であり、彼が前言を翻すようなことは決してない。
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父クロードは1785年1月、出張中にディジョンで急死します。この年の冬は寒く、肺炎で多くの死者がでたそうです。父の後を継ぐためパリで勉強していた長男クロードが長子相続権により家長となります。クロードはパリで法律の勉強をするはずでしたが、実際には科学の実験ばかりしていたようです。二男ジョセフと三男ベルナールは司祭になるため修道院に入ります。司祭は<王の名代>に次ぐ高い地位だったためです。24歳まで修道院の学校で先生をやれば司祭の資格が取れるはずでした。しかし、三男ベルナールは司祭への道を途中で放棄し、弁護士になるためパリに向かいます。後に写真を発明する二男ジョセフは自分の名前が気に入らず、勝手にニセフォールと名前を変えてしまいます。先祖代々長男はクロード、二男はジョセフのように決まっており、親戚に同名のジョセフ・ニエプスがたくさんいたのが気に入らなかったようです。そして、司祭の資格取得を目前にして、修道院をやめてしまいます。
2010.1.33 ニエプス兄弟(1) 生い立ち
T・オルドルさんご推薦の本、「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)を読んでみました。500ページ、定価5,800円の大作ですが、図書館にありましたので無料。最近の図書館はインターネットで本の検索と予約ができるので便利です。ニエプス兄弟の生活がこと細かに書かれていますので、何回かに分けて紹介していきたいと思います。この本のどこまでが事実で、どこからが創作なのかは分かりませんが、かなり綿密な調査に基づいて書かれているような感じはします。
フランス中部のブルゴーニュのシャロン・シュル・ソーヌでニエプス兄弟は生まれます。ここは、パリから南東に約300km、リヨンの北100kmあたりになります。長女アントワネット、長男クロード、二男ジョセフ、三男ベルナール。ニエプス家は裕福で父クロードは弁護士。長男クロード(父と同じ名前)は父親の後をついで弁護士になり、二男ジョセフと三男ベルナールは聖職者になる予定でした。クロード12歳、ジョセフ10歳の時、家庭教師のモンタンジェラン神父に空想小説『ジファンシー』を紹介されて虜になります。
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福音書に語られる奇蹟よりも、実験の奇蹟の方に心を引かれる。時代の子どもたちは妖精の出てくるおとぎ話や伝説よりも未来を先取りした空想小説の方に心を踊らせる。どうして空中を飛び、海底に潜り、船を矢のように走らせられないことがあろう? 不透明な物体を貫通できる光線を発明すること。地球の端から端まで像をただちに伝えること。風の後を追い、雨を固定させ、微笑をかすめ取ること。こうしたすべてが少年たちのお気に入りの本の中では実現可能なのだ。空想や魔法の形をとって泉がたたえられていく。やがて必ずほとばしり出よう! クロードやジョセフに
--- ベルナールはまだ小さすぎる --- 『ジファンシー』は読書の無上の喜びを与えてくれる。大当たりをとったこの本は、少し前に亡くなった、ノルマンディー出身のティファーニュ・ド・ラ・ロシュという名の科学者が書いたが、彼は医者でもあった。ジュール・ベルヌの先駆者とも言うべき彼の空想が多くの科学者たちの直感を目覚めさせ、研究へとかりたてたのである。
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2010.1.32 電力の捨て方(2)
日経エレクトロニクス1月25日号に、「東京電力がスマートメーター、まずは実証実験から」 という記事が出ていました。日本では電力需要が安定しており、米国のようにスマートメーターを介して家庭の電力利用を制限する必要がなく、現在の分電盤で十分だと考えられていました。しかし、各家庭に太陽光発電が普及すると状況が変わるようです。どうやら過剰に発電された電力を捨てる方法はないようでして、各家庭の太陽光発電機からの電気の流入を遠隔操作で止める必要があるようです。日経エレクトロニクス1月25日号から引用します。
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太陽光発電の普及を見据え
ただし、今後国内で急増する太陽光発電の逆潮流対策は別。事業所などが休暇期間に入るような時期に、仮に晴天が続くと、電力の需要に対して供給が過大となり、電力系統の周波数変動などの障害を招きかねないためだ。こうした狙いから、スマートメーターを活用した太陽光発電の遠隔制御について、実証データを取得する狙いとみられる。
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せっかく発電した電力なので有効に使いたいものですね。余った電力を有効に使う方策はたくさんあると思います。
2010.1.31 近江(7) 坂田の息長氏
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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また、用明天皇在位の頃は太子と目された彦人皇子が、即位できなかったのは、この物部―中臣連合に荷担したと見られたためであろう。
彦人皇子の母は息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘、広姫である。広姫は敏達天皇の最初の皇后であり、広姫の没後、
炊屋姫が敏達皇后となったのである。そうした点から見れば、推古天皇自身は自分より上の存在であった敏達の先妻の子、彦人皇子によい感情が持てるはずがない。
そうであれば、皇位継承の争いに敗れた彦人皇子の生活は、崇峻、推古両朝にわたって索漠たるものがあったであろう。
息長氏は皇后を出すなど、古代の雄族であり『日本書紀』に言う近江国浅井郡の鉄穴を管理する製鉄氏族として財力を備えていた。
継体天皇の系統と親しく、また古いタイプの製鉄を行うという点では、物部氏にも近い。
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第30代敏達天皇は坂田の息長氏の広姫の子です。その後しばらく蘇我氏系の用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と続きますが、第34代舒明天皇は息長足日広額天皇
(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)という名前からも分かるように広姫の孫です。この後、息長系(すなわち非蘇我系)の天皇が続き、天智天皇、天武天皇へと続きます。
つまり後妻の炊屋姫(蘇我氏系)が推古天皇となり、先妻の広姫(息長氏系)は無念だったというわけではなく、しばらくするとまた息長氏系が天皇位を取り返したということのようです。
地図を見ると、米原駅の北東に息長小学校というのがあるので、このあたりが息長氏の本拠地だったのかもしれません。
2010.1.30 近江(6) 鹿深臣
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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最後の同盟国とも言うべき百済との国交もほぼ断絶に近い状態に立ち至ったときに、蘇我馬子のよる仏教の復興が行われる。日羅(にちら)の事件のあった翌年の敏達天皇十三年(五八四年)、百済から石の弥勒像がもたらされたのである。
秋九月に、百済より来る鹿深臣(かふかのおみ)、弥勒の石像一躯有てり。佐伯連(さへきのむらじ)仏像一躯有てり。
鹿深臣とは甲賀と音が通ずるので、近江国甲賀郡の豪族であると考えられる。外交的な要件なのか、百済に行っていたものが日羅の事件のあおりで百済にいることが難しくなって帰国したものだろう。
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六世紀の甲賀に鹿深臣という豪族がいて、百済から仏像を持ちかえり、仏教の復興に貢献したそうです。
先日、高速バスで京都に行くと新幹線よりうんと安いと聞き、調べてみたところ、甲賀土山高速バス停留所が目にとまりました。こんなバス停知らないなぁと思って良く見ると、知らないうちに亀山から草津まで新名神高速道路というのが2008年に出来ていたのでした。以前第二名神と呼ばれたものです。関ヶ原の雪の心配をしなくてもよいので助かります。
2010.1.29 近江(5) 丸邇(わに、和珥、和邇)氏
570年(欽明天皇31年)、高句麗からの使節が越の国、今の石川県の海岸にやってきます。当時、新羅の真興王の大攻勢に、高句麗は追い詰められていました。朝鮮半島の東側はほとんど新羅の勢力圏となってしまいましたが、北の方の元山あたりの港はまだ使えたようでして、竹島、隠岐の北を通る日本海横断ルートで日本にやってきました。若狭から陸路で琵琶湖に入り、船で宇治まで出て、そこから木津川を遡ったのだそうです。大臣である蘇我稲目の妻が高句麗人であっため、高句麗使節はこれを頼りに来日した可能性が高いそうです。ところが、570年というのは大変タイミングが悪く、あてにしていた蘇我稲目が三月に死にます。欽明天皇が自ら迎賓館である相楽(今の木津川市上狛あたり)で高句麗使節団を手厚くもてなしますが、その欽明天皇も翌年4月に崩御。親高句麗派の蘇我稲目に代わって、物部守屋が権力を握るなどの事情により、外交交渉はさっぱり進みませんでした。
この頃、若狭の豪族である膳臣(かしわでのおみ)が大和政権において高句麗との軍事・外交を担当していました。また聖徳太子が最も愛した妃は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)の娘、膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみいらつめ)でした。そして、琵琶湖から宇治までの水上交通を支配したのが琵琶湖の西岸である和珥(わに)を本拠とする和珥氏(わに、日本書紀では丸邇)でした。奈良付近を本拠とする春日臣も和珥氏の同族らしく、高句麗使節の通った経路は、膳臣と和珥氏によってほぼ押さえられていたそうです。遣隋使である小野妹子も和珥氏の同族と言われ、和珥の小野が本拠地だったそうです。現在、JR湖西線に和邇駅、その隣に小野駅があります。
2010.1.28 近江(4) 穴穂部皇子
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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いよいよ我々は飛鳥時代の中心人物、聖徳太子の近親者の時代に入ってくる。敏達天皇の死後、欽明天皇の四男で、蘇我稲目(そがいなめ)の娘、堅塩媛(きたしひめ)を母に持つ用明天皇(橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと))が即位する。用明天皇はやはり欽明天皇の皇女で、堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)を母とする穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を妃に立てるが、この二人の間に生まれたのが厩戸(うまやど)皇子、すなわち聖徳太子である。異母兄弟の結婚であり、しかも母同士が姉妹であるという大変な近親結婚であるが、近親結婚は遺伝子上問題が生じやすい半面、とび抜けて優れた人物が生まれる可能性があるという。聖徳太子の場合は近親結婚がよい方向に働いた例であろう。
ところで用明天皇の即位は順調に行われたのではなかった。敏達天皇が没すると、欽明天皇の皇子で間人皇后と同じく小姉君を母とする穴穂部(あなほべ)皇子が自分が皇位につく権利があると主張したという。
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矢の矢尻を表す言葉に二種類あり、一つは軽で、これは銅を意味し、もう一つは穴穂でこれは鉄を表すそうです。また穴穂(あなほ)は近江坂本の穴太(あのう)と同じだそうです。同書から再度引用します。
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このように、穴穂部皇子の穴穂部という名前は、物部に結び付き、さらに大津―坂本の穴太(穴穂)と結びついてくる。そして、近江の穴穂部の新しい渡来系の製鉄技術こそ、穴穂部皇子の勢力の源であり、それを支える物部氏にとっても希望の星であった。これまで見てきたように、物部は蘇我氏の新しい産業技術に押され気味だったのであるから、自分と密接な関係のある穴穂部の最新の製鉄技術は、まさに頽勢を挽回する切り札であった。
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坂本の日吉大社の祭神、大山咋(おおやまくい)命は鳴鏑の神であり、製鉄神としての性格を持っているそうです。
2010.1.27 電力の捨て方
原子力発電で余った電力(発電しすぎた電力)をどうやって捨てるのか調べてみました。たぶん電力のつくり過ぎと原発が一番分かりやすいのではないかと思います。最も電力の消費が少ないのは冷房も暖房も使わない四月の午前3時から5時ごろと、工場が止まる一月二日と三日の未明だそうです。この時間は原子力発電だけでも(つまり石油・石炭・天然ガスなどの発電所の出力を最低限に絞っても)電力が余ってしまうようでして、余った電気は揚水式の発電所に使われる仕組みになっているようです。つまり、余った電力を捨てる必要がないよう、その分の揚水式発電所が作ってある、ということだそうです。もしこれ以上四月と一月の未明の消費電力が減ると(そして真夏の昼間の消費電力が減らないと)、揚水式発電所をもっと作るか、この時間帯の電力料金をさらに安くして消費を促すしかないようです。
そういえば思い出しました。電気炉を動かすため巨大な電力を消費する工場では、東京電力と特殊な契約を結んでいて、東京電力からの指示に従って深夜や正月休みに操業するのだと聞いたとがあります。その代わり、電気代は安い。ただし、出勤すする人は変則勤務になるので大変。揚水式発電よりはこの方法の方が効率的ですね。
揚水式発電所では、上の池と下の池があり、夜に余った電気でポンプを動かして下の池から上の池に「揚水」します。昼間電気が不足すると、上の池から下の池に水を落として水力発電を行います。現状では巨大な電力を保存するのはこの方法しかないようです。約300年前にニューコメンの大気圧機関が開発された目的も同じ「揚水」であったことを思い出しました。
これとは全く別の話ですが、原子力、石油、天然ガス、石炭などの発電所は大きな排熱を出します。だいたい総発熱量の60%が排熱となり、40%が送電され、38%が利用されるそうです。(日本の送電ロスは総発熱量の2%、発電量の5%程度というのは非常に効率的なのだそうです) 排熱は海水で冷却され、温排水として海に流しているのだそうです。温排水については、無害だという説と、有害だという説が両方あるようです。
2010.1.26 エコキュート
「空気の熱でお湯を沸かす」と宣伝しているエコキュートですが、まあヒートポンプを使っているのだろうと推測はできるのですが、細かいことは宣伝では説明していません。そこで、Wikipediaのエコキュートを読んでみたところ、なるほどなぁ、と思ったのでメモしておきます。
昔から安い深夜電力を利用してお湯を沸かし、これをタンクに貯めておいて昼間使うというシステムがあります。これの熱源をニクロム線ヒーターから、二酸化炭素を用いたヒートポンプの変えたら熱効率が良くなったので、さらにランニングコストが安くなりました、ということのようです。ちょっと前にエアコンのフロンガスによるオゾン層の破壊が問題になった時に、フロンの代わりに二酸化炭素を使ったカーエアコンが開発されました。二酸化炭素は温暖化効果が少なく(代替フロンの1/1300)、漏れても爆発しないという利点があります。しかし、高圧ガスを使うため装置が複雑で重く、高価で、凝縮器が90度と高温になるためカーエアコンには向かず、実用化には至りませんでした。一方、凝縮器が90度と高温であることは湯沸かし器向きであり、据え置き型であれば重量も問題にならないことから、家庭用の給湯機として実用化されました。
東京電力には深夜電力、おトクなナイト8・10、電化上手、などの深夜電力を安くする契約があります。原子力発電所などの特性上、夜も昼間と同じ量の発電が行われますので、消費量の少ない夜間の電力は捨ててしまうことになります。どうやって電力を捨てるのか正確には知りませんが、多分熱に変換して水で冷やすしかないと思います。つまり、無駄にお湯を沸かして海に捨てるわけです。それはもったいないので、各家庭で夜にお湯を沸かして溜めておき、電気の足りない昼間に使って下さい、ということのようです。
うちでも使えないかと思ったのですが、問題が2点ありました。ひとつめはエコキュートの装置の価格です。ダイキンのラインアップを見ると、フルオートタイプで約80万円。これに工事費がはいりますので、相当の出費になります。仮に100万円として、光熱費を月に5千円節約にできたとして、元をとるまで約16年かかることになります。ふたつめは既に設置されている東京ガスのTESの配管や配線が使えなさそうなこと。多分大規模なリフォームで配管を入れ替えるというようなケース以外は工事費の問題あると思います。
昔の電気式給湯器よりは熱効率が約3倍良いようですので、これから新築、あるいはリフォームするのであれば有力な候補になると思います。
2010.1.25 近江(3) 近江毛野臣
近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)は527年、継体天皇により任那への赴任を命じられますが、新羅と組んだ筑紫国造の磐井に妨害されなかなか任那に渡ることができません。物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された後、翌年の528年に、毛野はようやく任那に渡ることができます。しかし、傲慢な態度で失敗を繰り返したため530年に召喚されます。帰国途中の対馬で病死し、故郷の近江国野洲郡小篠原村(現在は野洲市)に葬られたそうです。
継体天皇の臣下であった毛野は、製鉄士族の力を過信し、のぼせあがっていたのでしょう。朝鮮半島においても傲慢な態度をとったのは製鉄技術において朝鮮半島に負けないという相当の自信があったと想像します。
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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不思議なのはこの近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)という人物である。最初彼は新羅を討つ将軍として出征しながら、筑紫国造磐井の反乱によって道を遮られてしまう。この反乱は物部麁鹿火によって鎮圧される。ようやく任那に渡ることができた。近江毛野臣は、百済に対しても、新羅に対しても高圧的な態度に出て、結局百済の協力をも得られずに、新羅による伽耶南部地方の併合という事態を招く。さらには、日韓混血の者を殺したり、裁判にくがたち、つまり日本古来の湯の中に手を入れて正邪を決めるという、無茶な慣習押しつけを行って任那の王に訴えられて、継体天皇に召喚された、と『日本書紀』は記す。
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2010.1.24 易入門(39) 物部氏 vs. 蘇我氏
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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仏教を錦の御旗とした蘇我氏の記録が、現在の『日本書紀』の原点であることを考えれば、物部氏に関する『日本書紀』の記述は蘇我中心の潤色があったことを想定して割引をして考えなければならない。
のち、大化の改新に際して蘇我蝦夷が殺された時、蝦夷の家にあった『国記』という歴史書が焼かれようとするのを船史恵尺(ふねのふびとえさか)というものが救い出してこれを中大兄皇子に奉ったという。ところでこの船史は、王辰爾が難波の津の船の税をつかさどっていたことにちなむ姓であって、すなわち王辰爾(おうじんに)の子孫である。そしてこの『国記』とは、推古天皇の時代に聖徳太子と蘇我馬子が作成したものなのである。(『日本書紀』)。当然、王辰爾の一族=船史がその作成に深く関わっていた。蘇我氏の作成したといっていい『国記』の内容は、天武朝に作成された『日本書紀』の最も重要な源泉となったと考えられる。そうして『国記』の内容は、それが天武天皇の朝廷にとって不都合がなければ、基本的に継承されたはずだ。つまり飛鳥時代の仏教全盛期に蘇我氏によって作成された内容の、『日本書紀』の仏教と蘇我、物部に関わる記述は蘇我氏の視点と、都合からのみ記述が行われているということである。物部に関する『日本書紀』の記述は、注意して解釈する必要がある。
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日本書紀は易の影響に加えて、仏教の影響と蘇我氏の影響も受けているのですね。当時の仏教がいったいどんなものであったか、大伴氏 対 蘇我氏 対 物部氏 の勢力争いがどのようなものであったかを調べるのも面白そうです。
2010.1.23 ダゲールの損得勘定
ダゲールとイジドール(ニエプスの息子)は、ダゲレオタイプの特許を限定400名に1,000フランで販売しょうようと考えていたのです。しかし、1,000フランは高すぎて売れないだろうし、一旦公表したらすぐに広まるので限定400名にも無理があると思いだしたようです。ちなみにダゲールが政府からもらった年金は6000フラン。ダゲールの死後、夫人は半額の3000フランをもらうことになります。夫人は3000フランでは姪とふたりでの生活ができなかったので家を売ったと書いてあります。この金額が月額だったのか、それとも年額だったのかについての記載はありません。一方、同書(「ダゲレオタイプ教本」(L.J.M.ダゲール著、中崎昌雄解説・訳、朝日ソノラマ クラシックカメラ選書10))には次のようにも書いてあります。
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(6) カメラを初め機材が嵩高くて重く高価である。カメラ、研磨台、ヨウ素槽、水銀現像槽などを入れると50kgもあり、装置一式で400フランもする。当時パリでの2カ月の生活費にあたる。
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ということは、一か月の生活費が200フランですから、年額に直すと2400フラン。夫人がもらった3000フランは年額であることが分かります。まあ何とか生活できる金額だったようです。仮に今の金額で年額300万円だったとして、ダゲレオタイプの特許を販売した時の利益と、年金をもらった時の損得を計算してみたいと思います。
(A) 特許を販売した時の利益
ダゲレオタイプの特許の使用料1000フランは現在の100万円に相当し、400名で総額4億円の商売を目指していたものと思われます。もし、100人にしか売れなければ1億円です。多分100人に売るのも難しいと思っていたのではないでしょうか。
(B) 年金総額
.ダゲールは1787年生まれ。年金をもらいはじめた1839年(52才)、亡くなったのは1851年(64才)ですから12年間年額6000フランの年金をもらったことになります。その後、夫人のアニェスが半額の3000フランを受け取りますが、4年後の1855年に亡くなっています。ですから年金受取額は、
(6000 x 12) + (3000 x 4) = 84000 フラン = 約8400万円
つまり、84人に特許を売ったのと同じ程度の年金を得たことになります。アラゴーの年金案にダゲールが同意したのは正しい判断だったと思います。そしてなにより、全世界にダゲレオタイプを気前よく公開するというフランス政府の判断が正しく、写真工業が世界中で一気に発展することになります。
2010.1.22 ダゲールとフンボルト
「世界の測量 ガウスとフンボルトの物語」(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)の中に、最初の実用的な写真であるダゲレオタイプを発明したダゲールが登場したので驚きました。これを日誌に書いたら、掲示板にT・オルドル氏から「ダゲレオタイプ教本」(L.J.M.ダゲール著、中崎昌雄解説・訳、朝日ソノラマ クラシックカメラ選書10)もあるよ、という書き込みを頂き、もう一度読み直してみたら、この本の中にもフンボルト氏が登場していました。「ダゲレオタイプ教本」から引用します。
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7. 1839年1月ダゲレオタイプの衝撃
しかし事態はダゲールにとっても思いがけない方向に進展していった。初めダゲールが予約募集に箔をつけようと著名な科学者や芸術家に接近した。自然科学者の中には、アラゴー、ビオ(J.B.
Biot)、フォン・フンボルト(A. von Humboldt)などがあり、芸術家には画家ドラロシュ(P.
Delaroche)、ルーブル博物館館長ド・カイヨー(A. de Cailleux)などがあった。アラゴーはフランス政府に特許を買い上げてもらって、その代償としてダゲールをイジドールに年金を支給すると言う案を考えた。
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2010.1.21 ウェッジウッド
コーヒーカップなどで有名なウェッジウッド社倒産というニュースが正月早々に報道され驚きました。超有名ブランドなので儲かっているのかと思っていたら、かなり財務状況が悪かったようです。そんな時、T・オルドルさんおすすめの「ダゲレオタイプ教本」を読み返していたら、いきなり23ページにトーマス・ウェッジウッドが写真の研究を行い、その成果を最初(1802年)に発表した、と書いてあり、またまた驚きました。トーマスはウェッジウッドの創始者であるジョサイア・ウェッジウッドの四男でだそうです。一番上の姉のスザンナがチャールズ・ダーウィンの母親ですから、ダーウィンの叔父さんでもあります。トーマスは硝酸銀を使って陰画を作ることには成功しますが、残念ながら定着には失敗し、写真を世に出すことはできませんでした。もし定着に成功していたら、陶器製のカメラが作られたかもしれません。
「ダゲレオタイプ教本」(L.J.M.ダゲール著、中崎昌雄解説・訳、朝日ソノラマ クラシックカメラ選書10)より引用します。
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紙や皮に硝酸銀水溶液を塗り、この上にガラス絵や銅版画を重ねて太陽光に当てる。光の当たった部分が黒くなるから、できた画像が白黒反対になる。現在の言葉で言う「陰画」である。しかも、この「陰画」は明るいところに出すと、全体が黒化して画像が消えてしまう。このため、せいぜいロウソクの光でしか見ることができない。ウェッジウッドは繰り返し水で洗って、「陰画」から未変化の硝酸銀を除く試みもしたが成功しなかった。現在の言葉で言う「定着」の試みはすべて失敗に終わった。
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2010.1.20 易入門(38) ニニギノミコト天孫降臨
大国主神は苦労して戦ったわけですが、結局天照大神が派遣したタケミカズチノオ(建御雷の男)に立ち退かされて、出雲大社に引っ込んでしまいます。天照大神は自分の子供であるオシホミミに地上に行くように言いますが、オシホミミが拒否して、オシホミミの子供のニニギ、すなわち天照大神の孫が地上に降り立つことになります。これを天孫降臨といいます。ニニギノミコト(天孫降臨)を参考にさせて頂きました。
初代の天皇である神武天皇はニニギの曾孫にあたります。「神武天皇」は、天平宝字6年(762年)〜天平宝字8年(764年)に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。と書いてありますので、古事記や日本書紀の時代にはまだ和風の名前しかありませんでした。次のようなものです。
(古事記) 神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)
(日本書紀) 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、または、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、または、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、または、狹野尊(さののみこと)、または、彦火火出見(ひこほほでみ)
同一人物にたくさんの名前があるのは、大国主神も同じですが、ややこしいです。後の時代に神武天皇と名付けたのは正しい処置だったようです。
2010.1.19 易入門(37) いなばのしろうさぎ
「いなばのしろうさぎ」は、鮫をだまして一列に並ばせ、鮫の背中を渡っておき島から気多前(けたのさき)に戻ることに成功します。しかし、その直前に”やい、おまえたちはだまされた”と言ってしまったがために、最後の鮫に毛皮を剥がれてしまいます。気多前(けたのさき)を通りかかった八十神にもだまされて海水を浴びてから風にあたったらますますひどくなったのでした。そこに大国主神がやってきて、真水で体を洗い、蒲の花粉を敷いてその上に転がれば元通りになる、と言われて助けられます。
この物語は十二支のめぐりを表しているそうです。十二支の巡りに対応する易に卦を「消息の卦」と呼ぶそうです。北=子=地雷復を出た兎は陽の道に沿って、一気に南=午=天風こう(「女后」という一文字ですが、変換できません)まで行きます。消息の卦を見て頂ければ分かるのです、陽が一個しかない子=「復」(地雷復、一陽来復ともいう)から徐々に陽が増え、巳=「乾」または乾為天ではすべて陽になります。陽の道は易しく、苦労なく午に到達できますが、生きるためには元の子に戻らなければなりません。十二支の巡りが止まることは死を意味するからです。しかし、午から子に戻る陰の道は険しく、苦難の連続です。
午=天風こう(てんぷうこう) おき島から気多前に帰りたがっている兎が鮫と遇うこと
未=天山遯(てんざんとん) おき島からの脱出、遁走
申=天地否(てんちひ) 恐ろしい鮫を並ばせて、その背中を渡って行く。何とか切り抜けなくては、早く終わってほしいと願う時期。
酉=風地観(ふうちかん) あと一歩で岸に着くというところで、気が緩んで、黙っていられなくなったところ。
戌=山地剥(さんちはく) 鮫に毛皮を剥がれて、八十神にいじめられる
亥=坤為地(こんいち) 純陰=地の神である大国主神の登場
北=地雷復(ちらいふく) 大国主神のおかげで兎は元通りの体に戻ることができた。「回復」したということ。
飛鳥時代や奈良時代に「消息の卦」に精通した人が読めば、ふむふむなるほど、良くできた話じゃ、みたいな感じだったと思います。また、易に精通した長老が、子供に対して「消息の卦」の卦を教える時に使った例文なのかもしれません。あるいは村長さんが結婚式のスピーチでウンチクを傾けたのかもしれません。
2010.1.18 ガウスとフンボルトとダゲール(3)
「世界の測量 ガウスとフンボルトの物語」(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)から引用させて頂きます。
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身分を偽るという病の伝染ですな、とフンボルトは言った。私と共同作業をおこなっているふたり、ダゲールとニエプスは、この問題を解決できる発明に取り組んでいます。それが実現すれば、当局は個人ごとの公的に承認された像を入手することにより、有名人になりすますことは不可能になるでしょう。この問題ならば、深く認識しております。つい最近もティロルで、ある男が何か月にもわたって市町村に金を出させて生活していました。自分はフンボルトであり、金を発見できる場所を知っていると主張したからなのです。
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写真ができる前には、有名人になりすますことは簡単だったようです。写真には犯罪防止効果があるのですが、仕事がしにくくなった詐欺師の方々は、さぞかしダゲールを憎んだことだとでしょう。
2010.1.17 易入門(36) 水地比
「古事記の暗号」(藤村由加、新潮社)では水地比を次のように解説しています。
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水地比の「比」は、建国の卦だ。君主はこの卦に従って国を建て、諸侯と親しんで政治を行っていかなければならない。地に水を撒けば隙間なく混じり合い、一体となっていく。この水と地の関係のように、争うことなく諸侯と親しみ、いっしょに国を作っていくのだ。天下のものすべて親しみ合い、互いに助け合って生活していくのである。
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2010.1.16 ガウスとフンボルトとダゲール(2)
「世界の測量 ガウスとフンボルトの物語」(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)から引用させて頂きます。
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とんでもないですよ。上機嫌なダゲールが彼の耳に囁いた。ちゃんとした像が得られるまでには、まだ何年もかかることでしょう。いつかは感光はうまくいくでしょうが、私と共同研究者のニエプセには、どのようにしてヨウ化銀の膜を作ればいいのか、まったく見当もつかないのですよ。
ガウスがシー、と言うと、ダゲールは肩をすくめて黙った。
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ニエプス(ニエプセ)がヘリオグラフィーではじめて風景を撮影したのが1826年頃ですが、夏の強い光の下でも露出に6時間かかっていたようです。ニエプスとダゲールが共同研究の会社を設立するのが1829年、ダゲールがヨウ化銀を用いたダゲレオタイプを完成するのが1837年ですから、まともな記念写真が撮れるようになるのは、しばらく後のことです。
2010.1.15 ガウスとフンボルトとダゲール(1)
「世界の測量 ガウスとフンボルトの物語」(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)の冒頭から引用させて頂きます。
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1828年9月、国内最高の数学者が、ベルリンで開催されるドイツ自然科学者会議に参加するために、長年住み慣れた街をひさびさに離れた。もちろんそんなところになど行きたくはなく、何か月にもわたって拒み続けたのだが、アレクサンダー・フォン・フンボルトからの誘いは執拗だった。だから彼は、少し弱気になっている時期に、そんな日が永遠に来ないことを祈りつつ、参加を承諾する返事をしてしまったのだ。
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ガウスはブラウンシュヴァイク生まれですが、このときはゲッティンゲンの天文台長だったと思います。ゲッティンゲンからベルリンまでは直線距離で300kmほどあるようですので、馬車で行くのは大変だったと思います。ベルリンに着くと、フンボルトとダゲールが待っていました。
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フンボルトは身体を硬直させ、唇を動かさずに、あれはダゲールさんですと囁いた。私が目をかけている男で、ひとつの光景を感光性の銀ヨード層に焼きつけ、その瞬間を流れ去る時間から奪いとってしまう装置にとり組んでいるのです。どうか動かないでください!
ガウスは言った、家の中に入れてもらいたいのだがね。
ほんの一瞬ですよ、とフンボルトは小声で応じた。わずか十五分ほどです、いやずいぶんと進歩したものですな。ほんの少し前、つまり最初の実験をしていたころにはもっと長い時間がかかっていましたから、私なんぞは背中が痛んだものですよ。ガウスは逃げ出したかったが、小柄な老人は驚くべき力で彼の身体をしっかりとつかみ、小さな声で、王にお伝えしろという指令を下した。
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フンボルトはベルリンでプロシア貴族の家に生まれ、ゲッティンゲン大学で学んでいますが、このころはパリに住んでいたと思います。フンボルトがダゲールの写真の研究を手伝っていたという話を写真関係の本で読んだことはありませんが、ひょっとしたらそうだったのかもしれません。フンボルトがダゲールをわざわざベルリンまで連れてきてガウスと一緒に写真を撮ったというのは、小説としてはなかなか面白い設定だと思います。
2010.1.14 易入門(35) 風地観
古事記における、大国主神(地) と スセリ姫(風) の関係 = 風地観 であるようですが、「古事記の暗号」(藤村由加、新潮社)では風地観を次のように解説しています。
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風地観は「臨」を反対にした卦で、仰ぎ見られることを表わしている。民は常に君主を見ており、君主は下々に仰ぎ見られているのだ。君主はその民の風俗を見ることで、おのれの政治がうまくいっているかどうかを見ることができる。旅行をして、その国の美しい所などを見てまわるという「観光」ということばは、「風地観」から派生している。国の光を外に示すことこそが、君主の徳を表していた。
古事記の後段にも天皇が行幸する話題は数多くある。国を治める立場にあるものとして、民の暮らしを知らずして、そうして治められようか。「風土」ということばは、その地方の気候、地形、地味などのありさまで、その土地柄を表している。それを見比べ、さらにそれを示すことが君主の務めなのだ。四季に狂いが無いことを天が示すように、君主は正しい政治を行わなければならなかったのである。
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2010.01.13 易入門(34) 五経博士
「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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百済が継体政権に対して、任那四県やソムジンガン下流地域の領有承認のお礼として日本に提供したのは「五経博士」だった。『日本書紀』継体天皇七年(513年)条には、任那四県のお礼として、五経博士段楊爾(だんように)を貢ったと記している。
すでに日本国内での製鉄が次第に軌道に乗ってきていたとすれば、次に求められるのは中国の高度な文明である。されに五経博士とは儒学の師であるが、儒学は帝王がいかに国家を統治するかという政治学としての側面を強く持っている。五世紀後半に王統内部の血で血を洗う抗争を経験し、さらにこれまでの王家とは血縁関係の薄い継体天皇の即位という不安要因を抱える倭国政権にとって、儒学の政治学、帝王学は何よりも必要なものであった。
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6世紀初頭、継体天皇の頃の国際情勢は、次のようなものだったと思われます。
・中国は南朝の梁と北朝の北魏に分かれていた。
・梁は名君といわれる武帝の即位(502年)によって最盛期を迎えていた。武帝は学問を尊重し、仏教を崇敬して平和主義をとり、最高の文化水準に達した。朝鮮半島の百済は梁を手本に国づくりを行おうとした。
・北魏は最盛期を過ぎて、混乱期にさしかかっていた。
・朝鮮半島は、北の高句麗、東の新羅、西の百済、南の伽耶(任那)に分かれていた。
・伽耶(任那)は弱小であったが、鉄を産出したため各国が侵略、あるいは併合を狙っていた。日本は伽耶(任那)から鉄を輸入していた。
・日本に高句麗、新羅、百済などからの渡来人がたくさんおり、大和政権に近い有力な官僚であった。
まがりなりにも国が統一されているのは日本だけであり、細分化された朝鮮半島よりも強大な国力(軍事力)があったものと思われます。また、半島の南部での国境紛争においては、日本の協力を得ることが不可欠だったようです。日本が軍事力を背景に領土の承認を与えるのと引き換えに、百済から五経博士が贈られたというのは面白いですね。五経博士がいかに価値のあるものであったかが推測できます。
2010.01.12 近江(2) 継体天皇と製鉄士族
継体天皇は57歳で即位し、大和入りを前提に手白香皇女と政略結婚をします。それ以前には次のような製鉄士族と婚姻関係を結んでいます。
・尾張の代表的製鉄士族である尾張連(おわりのむらじ)の娘、目子媛(めのこひめ)
・製鉄地帯である高島の豪族、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹、雅子媛(わかこひめ)
・伊吹山の製鉄士族である近江の坂田の坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘、広媛(ひろひめ)
・同じく坂田の製鉄士族である息長氏出身の麻績娘子(おみのいらつめ)
これは婚姻関係というより、資本提携のようなものですね。当時は紙の契約書には法的根拠もなく、実効性を期待出来なかったでしょうから、婚姻という形式をとったのだと思います。現代風に解説すると、次のような感じだと思います。
(男大迹ホールディングスのホームページがもしあったとしたら)
男大迹(おおど)ホールディングスは、尾張製鉄、高島三尾製鉄、坂田大跨製鉄、坂田息長製鉄を傘下に持つ日本最大の製鉄グループです。弊社の男大迹王会長は長年、日本経団連の会長として日本の産業振興、特に鉄製農具・武器の国産化に尽力してまりました。小泊瀬首相(おはつせのわかさざきのみこと、武烈天皇)の死去にともない、両院総会において男大迹王会長が党の総裁および大和政権の首相に就任することが内定いたしました。来る507年3月3日に国会において首班指名を受ける予定です。小泊瀬前首相の体制を誠実に引き継ぐ決意を込めて、「継体」と名乗ることにしました。それに加えまして、小泊瀬前首相の妹である手白香皇女を国務大臣に任命し、政権の正統性と政策の継続性を内外に示すとともに、後継者の育成に全力を尽くします。激動の六世紀の東アジアを生き抜くため、鉄製農具の普及による食糧増産と、鉄製武器の品質改善による軍事力の増強を主要な政策としてマニュフェストに明記し、誠実に実行してまいります。
2010.01.11 近江(1) 高島出身の継体天皇
古代の歴史を読んでいると、私の地元である近江(現在の滋賀県)のことがたくさん出てきます。地元と言っても、歴史に関しては何も知らないに等しいし、すぐに忘れてしまうので、メモをしていきたいと思います。歴史を知っていると、その場所を訪れた時に何倍も楽しめるのではないか思います。
以前、「長い日本の歴史の中で天皇家に代わる王朝を開こうとしたのは足利義満ただひとりである」と書きました。しかし、第26代の継体天皇(在位507-531)は、現在の滋賀県高島市で生まれ、福井県坂井市で育った天皇家の遠縁、あるいは別系統の豪族ではないかとの説があるようです。後に、仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女を皇后に迎え、嫡子である天国排開広庭尊(欽明天皇)に引き継がれていますので、女系としては継承されていることになります。
なぜ継体天皇がいきなり近江・越前方面からやってきたかと言うと、この地方が当時の最重要物資であった鉄の大生産地であり、経済力・武器生産力があったためだそうです。「聖徳太子と鉄の王朝」(上垣外憲一、角川選書)から引用します。
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産鉄地帯、近江高島には五世紀代には賀茂族による砂鉄からの製鉄が行われていた。それが継体天皇の父、彦主人王によって北陸から新しい製鉄技術が導入され、大々的な生産の質、量両面での飛躍があり、その経済力、武器生産能力を背景として近江、北陸の製鉄士族を後ろ盾とする男大迹(おおど)王の大和の大王就任が実現したのである。
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五世紀には朝鮮半島南部(伽耶、任那)から鉄の輸入が続けられていました。半島から北陸に新しい製鉄法が伝わると、この地域の製鉄能力が向上し、豪族の力が増大したようです。しかし、しばらくは輸入品の鉄の方が品質が高く、国産品だけでは増大する重要をまかないきれませんでした。主要な鉄の産地である朝鮮半島南部をめぐって、百済、新羅、高句麗、日本が武力衝突することは避けられなかったそうです。
2010.1.10 易入門(33) 地沢臨
「古事記の暗号」(藤村由加、新潮社)では地沢臨を次のように解説しています。
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地沢臨の「臨」という字は、高いところから下方の物を見下ろすことを表している。つまり君主はこの卦に則って下にいる民衆に臨むべきだというのだ。民を教え導くということと、民を教え導くということ、民を無限の広さで包容、保護するという二つを指す。この二つとも上から下に臨む仕事である。「臨」は、君主が民に対するあり方を説いていた卦なのだ。
当然、君主とは万民の上に立つ人であり、それを統制していくのだから先頭に立って導いていかなくてはならない。それにはただ力を使って制すればよいというのではない。易では徳があれば自然に民はその徳に感動し、従ってくるとある。また最も優れた臨む態度とは、自分の身を正しく守り、自分は動かずに実力のある臣下に仕事を任せることだと説いている。
現代でもそうだ。以下に仕事のできる人でも、その人がすべてやってしまうのでは、部下に優秀な人材がいようとも育たない。優れた君主とは、そのように臨んでいかなければならなかったのだ。
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2010.1.9 易入門(32) 五行思想と六十四卦
「古事記の暗号」(藤村由加、新潮社)によりますと、古事記の中には五行思想と六十四卦がたくさん登場するそうです。古事記の主人公ともいうべき大国主神は三人の女性、八上姫、スセリ姫、沼河姫と関係を持ちます。五行でいうと、大国主神=地、八上姫=沢、スセリ姫=風、沼河姫=水となります。それぞれの関係は六十四卦でいうと次のようになるそうです。
大国主神(地) と 八上姫(沢) = 地沢臨
大国主神(地) と スセリ姫(風) = 風地観
大国主神(地) と 沼河姫(水) = 水地比
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これらの三つの卦の共通点は、もう言うまでもないだろう・「天下を治め、君主としての道を歩む」ということだ。一国を治める主として、その行いはどうあるべきかを説いていたのである。この三人の姫との物語は、国を作っていく時の王道を説いた話だったのだ。
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2010.1.8 易入門(31) 帝紀と旧辞の異本
六世紀に書かれた帝紀と旧辞が各家で代々伝わるうち、内容が異なり、誤りを含む異本ができてしまいました。では、具体的にはどのような誤りがあったのでしょうか。 「古事記の暗号」(藤村由加、新潮社)から引用します。
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各家々に伝わっていた記録は事実を含みながらも、多少それぞれの家にとって都合のよいように書かれていたのではないか。例えば「我が家の祖先は百済の王家の出だった」というような類である。
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これは確かにまずいですね。百済びいきの天智天皇に取り入るには好都合だったかもしれませんが、朝鮮半島と距離をおいて日本独自の政治体制を固めたい天武天皇にとっては許せない内容です。中国や朝鮮半島とは別の日本独自の神(天皇の祖先)が日本国を作ったと納得させられるような統一された神話が必要になったのだと思います。
2010.1.7 易入門(30) 古事記と日本書紀
古事記と日本書紀の決定的な違い、なぜ似たようなものが二種類あるのか、それぞれの編集方針、編集経過などは、まだ学説が定まっていないところもあるようですが、”「記紀」はいかにして成立したか”(倉西裕子、講談社)にはだいたい次のように書かれています。
古事記も日本書紀も天武天皇の命により編纂が始まったと思われます。しかし、天皇の名前と継承順が同じなのに宝算(亡くなった年)や在位年数がなぜ異なるのか?、など不思議な点もあるようです。
昨日書きましたように天皇の定義が異なるようです。「あまつひつぎしろしめす」と「あめのしたしろしめす」の違いです。日本書紀が天(天上)の歴史、古事記が地(天下)の歴史と言ってもよいようです。
以前書きましたように、日本書紀と古事記の前に、帝紀と旧辞という歴史書があったようです。
古事記は、まず天武天皇の時代に複数の帝紀と旧辞の異本を一本化しました。しかし完成には至らず、元明天皇の時代になって「旧辞」を重視する方針に変更し、天皇を「あめのしたしろしめす」と定義し、天皇が実際に政治を行った期間とその内容を、編年体(古い順に)書いているそうです。
養老四年(720年)に日本紀(日本書紀になる前の本、養老日本紀ともいう)が成立します。養老日本紀は、「仮名日本紀」を元にした可能性が高いそうです。仮名では日本の正史にふさわしくないということで、漢文に書き直されたのだそうです。「仮名日本紀」は「帝紀」と「上古諸事」(旧辞の一種)を元に書かれたそうです。養老日本紀も古事記と同じように旧辞に重きをおき、編年体(年代順)で書かれた本です。「記」や「紀」は編年体の書物のことを言うのだそうです。
養老日本紀はその後「帝紀」重視に方針変更が行われ、系図一本が追加され、内容が再編されます。この時点で天皇を「あまつひつぎしろしめす」と定義したのかもしれません。天平12年(740年)に「日本書紀」に名前が変わったのは、系図一巻=帝紀が追加され、「紀伝体」の体裁が整い、「書」と呼べるようになったからだと推測されます。本場中国の紀伝体では、帝紀と旧辞の他に「列伝」や「志」が含まれており、これらを備えたものが「書」と呼ばれるようです。本来ならば、「日本書」としなければならないところですが、元の名前が日本紀だったため、「書」を追加して「日本書紀」になった模様です。
何しろ昔のことですし、古事記以前の書物は散逸しており、はっきりとは分からないそうです。
2010.1.6 易入門(29) 天皇と皇太子の定義
明治22年に皇室典範で「天皇」・「皇太子」の定義が明文化されますが、古代においてははっきりしなかったようです。7世紀末の天武天皇時代になって、やっと定まったようです。古事記や日本書紀では天武天皇以前の天皇・皇太子のことを扱っていますので、古事記と日本書紀では天皇・皇太子の見方が異なり、在位期間に差異が生じているようです。つまり言葉の意味が定まってから、定まる以前の歴史を書いたので、編集方針によって見方が異なる、ということのようです。”「記紀」はいかにして成立したか”(倉西裕子、講談社)によりますと、天皇の属性はだいたい次のようなものだったと推定しています。
日本書紀
「あまつひつぎしろしめす」人が天皇であると定義しています。「あまつ」とは“天の”という意味で、「ひつぎ」とは初めて天から葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨した「ににぎのみこと」(天照大神の孫、皇孫)の皇祖皇霊のこと。「あまつひつぎしろしめす」とは皇室の先の神祇・祭祀を行う権限を引き継いだ皇族のことを指すそうです。神主さんの総元締めみたいなものですね。日本書紀は”天”、つまり皇孫の祭祀権に重きを置いて編纂されたそうです。天皇は実際の政治を行う場合もあるし、行わない場合もあったです。これと直接関係ないのですが、あの卑弥呼は祭祀のみを行い、政治は行わなかったそうです。
古事記
「治天下」=「あめのしたしろしめす」人が天皇であると定義しています。これは実際に政治を行った人という意味です。古代においては皇太子が政治を行っていたケースが多いようでして、実際に政治を行った皇太子のことを天皇と位置付けているようです。今の総理大臣みたいなものですね。(あるいは幹事長?) 古事記は”地”=”国”、すなわち政治に重きを置いて編纂されたようです。
皇太子にも二通りの意味があるようです。皇太子を「ひつぎのみこ」とよむ場合には、祭祀権継承予定者という意味になり、現在の次期天皇という意味と同じになります。一方皇太子のみが国事を行う権限を持っていた時代もあるようでして、たとえば聖徳太子や中大兄皇子や草壁皇子などの事例があるそうです。天皇になってしまうと国事を行う権利がなくなるので、天皇になりたくない、ということもあったそうです。ところが、聖徳太子は歴史書では天皇として扱われていないのに、中大兄皇子は皇太子在任中も天皇(天智天皇)として扱われているなど、ちょっと分かりにくいです。聖徳太子には謎が多く、ちょっと別格かもしれません。
ちなみに、天智天皇の息子の大友皇子は、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の反乱(壬申の乱)によりその治世は短く、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号を贈られるまで歴代天皇として数えられなかった、そうです。何と死後1198年後に天皇と認定されたわけですね。
このように、古代から祭祀権と政権を分離して考えることがあったようです。聖徳太子を筆頭に、摂政・関白・太政大臣などが政権を担い、天皇が祭祀権のみを持つという体制が現代まで長く続くことになります。大東亜戦争後に日本を占領した米軍も当然このことを知っていたと思われます。(明治時代が実質的にどうだったかは、まだ調べていません)
2010.1.5 易入門(28) 神代の昔
”「記紀」はいかにして成立したか”(倉西裕子、講談社)によりますと、「日本書紀」の巻三の神武紀において、天照大御神の降臨した
「神代より179万2470年余を経ている」と書かれているそうです。神話は遠い昔の話として書かれたようです。179万年前というと
アウストラロピテクス(猿人)の時代です。地球史年表を見ると、石器の使用が始まり、伊豆半島が本州に衝突します。富士山もこの頃から出来だしたのではないでしょうか。まさに日本列島の形が整う時期であります。
易とは関係ない方向に行っているようにも見えますが、「神話は易の流れに沿っている」、というのを書きだすための前振りでございます。
2010.1.4 易入門(27) 帝紀と旧辞
以前、”天武天皇の権威を確立するために古事記が編纂された”と書きましたが、本当にそうだったのでしょうか?
また、古事記と日本書紀の違いは何なのでしょうか? という疑問に鋭く答えてくれるのが、”「記紀」はいかにして成立したか”(倉西裕子、講談社)です。
古事記の説話と易の関係を書く前に、古事記がいったいどのような書物なのか調べてみました。
古事記と日本書紀は、現存する日本最古の歴史書といわれています。現在は散逸してしまっていますが、
その前に「帝紀」と「旧辞」という二種類の書物が存在したことは間違いないようです。「帝紀」は皇室の系譜で、「旧辞」は政治的事象の記録だったようですが、
何しろ現存しないのではっきりとはわからないようです。
6世紀の継体天皇や欽明天皇の時代に「帝紀」と「旧辞」が編纂され、諸家に伝わったようです。しかし、時が経つにつれて自家の都合にあわせて改ざん、
改編が加えられ、内容の違う多くの異本が派生してしまったようです。きっと筆で書き写す度に少しずつ変わっていったのだと思います。
天武天皇の時代である7世紀末になると、これではいかん、ということで古事記と日本書紀に再統合が始まったようです。
各家に伝わる「帝紀」と「旧辞」を持ち寄って研究し、編集方針を決めて、各家のエゴを排除し、正式な文書にまとめあげるという難事業だった思われます。
ひいおじいちゃん(欽明天皇)が作った天皇家の系譜を、親戚一同が勝手にぐちゃぐちゃに書き換えてしまいよったのはけしからん。
ここらでいっぺんまとめなおしてくれへんか(天武天皇は関西弁だったと想定)みたいなことを言いながら、天武天皇は稗田阿礼(当時28歳)に「帝紀」と「旧辞」を研究するよう指示したのかもしれません。しかしながら、この計画は実行されませんでした。それから30年ほどたった711年9月18日になって、
天武天皇の姪であり嫁でもある元明天皇が大朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)に対し、稗田阿礼が暗唱する物語を書きとって献上するよう命じました。
このおかげで、翌712年に「古事記」が成立する運びとなったそうです。稗田阿礼がいったい何者であるかは、諸説あるようですが、ただものではないようです。
2010.1.3 易入門(26) 占い
「古事記の暗号」(藤村由加、新潮社)に、古代の占いに関して興味深い記述がありますので、引用させて頂きます。
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今でこそ誰でも占ってもらうことができるが、古代、占いを最も必要としたのは王であった。国を治めるにあたって、次にどの方向へ進むかの決定は、王が下さなければならなかった。王者の責務として、その時その時、自然の動向と時の流れを見極め、決断を下すことは何物にも替え難いことだった。その決定を占いによって行ったというのである。つまり、国の大事はその占いによって、最初は亀の甲を焼いてそのひび割れを見て判断を下したというわけだ。「亀卜(きぼく)」である。
周代にはそれが易の思想をもとに、今も、ジャラジャラやっている筮竹(ぜいちく)を使うようになっていったのだった。
ここでまた勘違いをしてはいけない。亀の甲羅のひび割れが音声を発するわけではないのである。筮竹がものを言うわけでもない。それを読み解き、御託宣を垂れるのは人間である。占いといってもそれは、やはり易者によって語られる人間のことばだということだ。だから、自然の理、人の理に通暁した人ほど、当たる確立が高いのはこれまた当然の理といえる。王が抱え、侍らせたという占い師は、当然、当代一流の自然科学者だったに違いない。
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まあ、民主党がやっている事業仕分けと同じようなものですね。仕分けをやっている有識者は古代の占い師に相当するのではないかと思います。古代に事業仕分けを行った有識者すなわち占い師は次のように言ったのではないかと思います。
”この事業は廃止。専門家が検討を元に王様が最終決定をしました。理由は普通の人には分からないので説明しません。要するに「方角が悪い」ということです。”
ということは、占いは一種の修辞学なのかもしれません。うまく説明すればすんなり行くし、下手だと紛糾する。しかしながら、本質的には、もし王様に権威や武力があれば、事業は決定通り廃止されます。もし権威や武力が衰えてくれば、反乱が起き、革命が起き、新しい王様が新しい占い師を雇って、新しい事業をはじめます。
2010.1.2 易入門(25) 甲子園
八卦に比べて、十干十二支の方はなじみがあります。
1924年(大正13年)は十干十二支の最初の組み合わせに当たる
甲子年(きのえねのとし)で、60年に1度の縁起の良い年でした。 この年に完成した紅洲(べにす)遊園地は、後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名されました。このような十干十二支に基づく命名は、戊辰戦争とか、壬申の乱とか、辛亥革命などに使われています。
本年2010年は庚寅(かのえ とら)です。Wikipediaを見ながら過去の庚寅の年の出来事を振り返ってみましょう。
1950年 昭和25年 朝鮮戦争勃発。年齢の表示に満年齢を用いるようになる。
1890年 明治23年 第1回衆議院議員総選挙。東京・横浜で電話交換業務開始。
1830年 文政13年 フランス7月革命が勃発。阿波を中心にお蔭参り大流行。
1590年 天正18年 豊臣秀吉が西国の諸大名を率いて小田原城を包囲し後北条氏を降す(小田原の役)、日本統一が成る
2010.1.1 謹賀新年
あけましておめでとうございます。今年の年賀状は北鎌倉の明月院の蝋梅にです。花言葉は「先導、先見」。
本年も、ksmt.comおよび「10D日誌」をよろしくお願いいたします。