EOS10D日記その39 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---
2010.5.27 Carl Zeiss 1913/14
199,061番から229,881番までの30,821本。1914年6月28日サラエボ事件。7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告。8月1日ドイツがロシアに宣戦布告。8月3日ドイツがフランスに宣戦布告。8月4日ドイツ軍がベルギーに侵入。イギリスがドイツに宣戦布告。8月23日、日本がドイツに宣戦布告。
Icar/Triotar F6.3 4,853本
Tessar F3.5 1,080本
Tessar F4.5 13,050本
Tessar F6.3 7,933本
Apo-Tessar F??? 93本
Ptotar F9 55本
Protar F18 352本
Doppel-Amatar F6.8 1,037本
Protarlinse VII 2,165本
Apo-Planar F??? 4本
Magnar F10 28本
第一次世界大戦が始まったにもかかわらず、ほとんど出荷数量が減っていません。この会計年度は1913年10月から1914年9月までで、開戦が1914年7月末ですので、開戦までの十ヶ月間は従来通りの出荷を続けていたものと思われます。Tessar
F4.5は予定通り前年比二千本増し。Tessar F6.3は二千本減。
出荷先にKodak Pocketと記載されています。アメリカは1917年まで中立を保っていますので、アメリカには輸出できたようです。Kodakはドイツのレンズ・カメラ関連メーカーにかなりの投資をしていたようですが、アメリカが中立を守りたかった理由のひとつだったかもしれません。
2010.5.25 Carl Zeiss 1912/13
165,689番から199,060番までの33,378本。前年度の約150%と急成長をします。Tessarの人気が世界中に広がったものと思われます。
Icar/Triotar F6.3 6,203
Tessar F3.5 976
Tessar F4.5 11,296
Tessar F6.3 10,065
Apo-Tessar F??? 119
Ptotar F9 131
Protar F18 476
Doppel-Amatar F6.8 1,401
Protarlinse VII 2,446
Apo-Planar Ia F6.3 14
Apo-Planar VIII F??? 5
Magnar F10 57
まず、初登場のIcar/Triotarがいきなり6,203本出荷されています。普及型の安価なレンズの需要が一気に高まったのでしょう。そして、普及品はTriplet型,
高級品はTessar型という棲み分けがはじまったのだと思います。
Tessarについては、需要に合わせて生産したのではなく、Zeissが計画的に生産本数を増やしたものと思われます。納品待ちが増え、ますます人気が上がったのかもしれません。毎年のTessar
F4.5とF6.3の生産数量をまとめなおすと、次のようになります
Year F:3.4 F:4.5
--------------
1910 4639 4615
1911 6693 6065
1912 8571 8311
1913 11296 10065
---------------
Tessar F4.5とF6.3をそれぞれ二千本だけ増やすという計画があったようです。あるいはTessarをこれ以上生産できないので、急遽Icar/Triotarの生産をはじめたのかもしれません。
2010.5.22 Carl Zeiss 1911/12
143,275番から165,688番までの22,414本。内訳は次の通り。
Tessar F3.5 498本
Tessar F4.5 8,571本 出荷先 Argus, Richard, Ica Atom, Zulauf, Compur
Tessar F6.3 8,311本 出荷先 Ica Atom, Zulauf, Richard, Ica Cipido
Tessar F8 10本
Apo-Tessar F??? 89本
Protar F9 156本
Protar F18 494本
Protarlinse VII F12.5 2,675本
Doppel-Amatar F6.8 1,393本
Apo-Planar Ia F6.3 3本
Apo-Planar VIII F??? 9本
Magnar 61本
いよいよCompurシャッターの登場です。Tessarは全長が割と短いので小型のCompurシャッターに適します。Tessar+Compurのブランドがあっというまに確立したのだと思われます。写りは以前と変わりません。決定的な違いはシャッター音にあると想像します。絞りとシャッタースピードのダイアルを合わせて、Compurのシャッターをジッとチャージして、カシャっとシャッターを切る。スローシャッターの時にはチッとシャッターが開いてジーーっとスローガバナーの音がしてカシャっとシャッターが閉じる。これはたまりません。金持ちが先を争って買っていったことでしょう。シャッターを切りたい一心で無理をしてお金を工面する人もいたでしょう。写真館または写真マニアから、カメラマニアまたはシャッターバグあるいは見栄っ張りにマーケットが移ったと言えるかもしれません。
2010.5.20 小沼ようすけ 3,2&1(初回生産限定盤)
ツタヤのカードを更新したらCDレンタルの無料券を2枚くれたので、久しぶりにCDを借りてみました。小沼ようすけ 3,2&1(初回生産限定盤)(ここで試聴もできます)が秀逸でした。特に初回生産限定盤にだけついているディスク2の
Isn't It Romantic と Oleo。一度聴いたらずっと耳に残ります。ジャズを聞いたことがない人でも楽しめます。既に発売から4年たっていますので、きっと必死でコピーしたギター少年も多いんじゃないでしょうか。バンドが組めない人には最適です。
最近は日本の若手ががんばっているようなので、たまにはジャズも聞かねばと思いました。
2010.5.18 Carl Zeiss 1910/11
125,723番から143,274番までの17,552本。内訳は次の通り。
Tsaasr F3.5 354本
Tessar F4.5 6,693本
Tessar F6.3 6065本
Apo-Tessar F??? 97本
Protar F9 228本
Protar F18 498本
Doppel-Amatar IX F6.8 1,163本
Protarlinse VII F12.5 2,169本
Apo-Planar Ia F6.3 11本
Apo-Planar VIII F??? 5本
Magnar F??? 102本
Tessar F4.5とF6.3の出荷数量が増えています。Tessarの中で生産数量が多い焦点距離は次の通り。
4.5/55 744
4.5/65 798
4.4/75 435
4.5/120 511
4.5/135 375
4.5/150 1,518
4.5/180 823
4.5/210 543
6.3/130 453
6.3/135 1,284
6.3/150 787
6.3/165 324
6.3/175 512
寺崎さんの六櫻社の記事に詳しい説明があります。キャビネならどちらも18cmが推奨されていますので、同じ絞りの時のイメージサークルはほぼ同じだったものと思われます。F4.5のレンズを開放で使うために、少しイメージサークルに余裕のある長めのレンズが選ばれたということのようです。
このころはまだ良い引き伸ばし機がありませんので、全て密着プリントだと思います。したがって、プリントのサイズ=乾板のサイズ=焦点距離が成り立っているはずです。
この後、映画の発達 ==> 映写機の発達 ==> 映写機用ランプの発達 ==>
引き伸ばし機の実用化(つまり映画のスクリーンのところに印画紙を置く) ==>
ライカの登場(映画用フィルムの流用) という進化の過程をたどり、プリントの大きさとレンズの焦点距離の関係がなくなります。というシナリオかと思っていたのですが、違うかもしれません。
造船技術の発達 ==> プロジェクターを使った鉄板の精密なケガキ ==> 鉄板の大型化に対応した強力なランプの開発
==> 映画の映写機や写真の引き伸ばし機への流用 という進化の過程も考えられます。1912年の処女航海で沈没したタイタニック号の建造に使われたのは歪曲の少ないApo-Planarや、Meyer
Ariststigmatだったかもしれません。イギリスで建造されたことを考慮すると、クックのSeries
Vかもしれません。当時はまだ広角エクスプレスもトポゴンもメトロゴンもありません。
2010.5.16 Carl Zeiss 1909/10
111,990番から125,722番までの13,733本。内訳は次の通り。
Planar Ia F4.5 2-10cm 324本
Apo-Planar Ia F6.3 8本
Apo-Planar VIII F??? 6本
Magnar F10 107本
Tessar Ic F3.5 211本
Tessar Ic F4.5 4,639本
Tessar IIb F6.3 4,615本
Apo-Tessar F??? 58本
Protar IIIa F9 176本
Protar V F18 442本
Doppel-Amatar Series IX F6.8 1,216本
Protarlinse VII F12.5 2,059本
キングズレークの本にはTessar F4.5が出たのは1917年と書いてありますが、実際には1910年で既にTessar
Ic F4.5の方がIIb F6.3より多く出荷されています。Tessarの本数が全体の7割ほどを占めます。
集計表の焦点距離の単位がmmからcmに変わります。別の表では全ての年でmmが使われていますので、どちらかというと昔からmmの方が一般的だったようです。
2010.5.14 Carl Zeiss 1908/09
100,776番から111,989番までの11,214本。内訳は次の通り。
Magnar F10 450-800mm 149本
Planar Ia F3.6-6.3 188本
Apo-Planar VIII F6.3-12.5 17本
Tessar Ic F3.5 148本
Tessar Ic F4.5 2,838本
Tessar IIb F6.3 4,116本
Apo-Tessar VIII 70本
Protar IIIa F9 247本
Protar V F18 373本
Protarlinse VII F12.5 1,085本
Protarlinse IV 12.5 215本
Protarlinse IV 13.5 (neues Glas) 1,453本
Prtho-Protar F??? 14本
Doppel Amatar F??? 1本
時代は完全にTessarの時代に入っています。主力はF6.3とF4.5で、F3.5はわずかです。
唐突にProtarlinse Series IV F12.5/13.5というのが増加します。Protar Series
IVは10年ほど前に生産中止になったはず。Protar Series VI (ダゴール型)の誤植かとも思ったのですが、Amatarというダゴール型の別のレンズが出ていますので、どうかなぁ。しかし、別の表を見ると、Doppel
Amatarがたくさん出荷されているようですので、一応次のような仮説をたててみました。
「Dagorと同じ構造のAnastigmat Series VIがGoerzの真似だといちゃもんをつけられて、特許も取れなかった。しかし、Dagorよりは少し優れており、前後別々にF12.5のレンズとして使える。F12.5といえば、かつてSeries
IVと呼んでいた。前後別々に使えるのはProtarlinseと呼んでいる。だから、これはProtarlinse
Series IVと改名する。一個ずつ売る場合にはProtarlinse IVでいいが、できれば2個ずつ売りたいので、セット売りの場合にはDoppel
Amatarという名前にする。
でも、こんな姑息な手段ではツアイスの名がすたる。気を取り直して、イエナの新種ガラスを使って、レンズの設計をやり直そう。おっと、F13.5と少し暗くなったが、その代わりシャープになったので、まあいいだろう。イエナの新種レンズをどんどん使うのが我々の最も大事な仕事である。」
ちなみに、MagnarはRoss Telecentricと同じ形の望遠レンズですが、前後が逆のようです。多分特殊用途だと思います。
2010.5.10 Carl Zeiss 1907/08
91,693番から100,775番までの9,083本。内訳は次の通り。
Planar Ia F3.6-6.3 210本
Protar IIIa F9 181本
Protar V F18 405本
Protarlinse IV F12.5 252本
Protarlinse VII F12.5 1,390本
Tessar Ic F3.5 143本
Tessar Ic F4.5 2,057本
Tessar IIb F6.3 3,950本
Apo-Tessar VIII 15本
前の年にはTessar F4.5はSeries IIbと記載されていますが、この年からTessar
F3.5/F4.5はSeries Icに変わっています。これが単なる集計上のことなのか、レンズの呼び方を変えたのかは分かりません。確かにUnar
F4.7がSeries Ibだったのに、Tessar F4.5がSeries IIbなのは異論が出て当然だと思います。時代は完全にTessar
+ Prontarシャッターの時代に入ったようです。1907年12月にはTessar F6.3/136mmを500本と、Tessar
F6.3/150mmを500本出荷。1908年3月にはTessar F4.5/150mmを500本出荷。月産千本程度の量産体制が整ったようです。
ツアイスは直接カメラメーカーを育成するのには失敗しましたが、デッケルと組んでシャッター付きのレンズを量産することに成功したようです。シャッターの中には絞りも金属の鏡胴も含まれます。ですから、ツアイスは手間のかかる金属加工から開放されたことになります。ツアイスはガラスとレンズに専念し、デッケルはシャッターに専念し、カメラメーカーは暗箱に専念する、という分業体制はいかにも量産向きに思えます。
以下はWikipediaからの引用
1908年、10月1日 - T型フォード発売開始。10月5日 - ブルガリアがオスマン帝国から独立宣言、10月6日 - オーストリア・ハンガリー帝国がボスニアとヘルツェゴヴィナを併合、10月7日 - セルビア王国とモンテネグロ公国が反オーストリア・ハンガリー同盟を結成。11月14日 - 清で光緒帝が崩御、翌日には最高権力者であった西太后も崩御。
2010.5.8 Carl Zeiss 1906/07
82,979番から91,692番までの8,714本。内訳は次の通り。この年の集計表には多分誤植があります。同じ本の他の部分から見ても明らかに矛盾があります。私なりに誤植を訂正してみました。
Planar Ia F3.6-6.3 329本
Planar VIII F7.2-12.5 93本
Unar Ib F4.4-5.6 111本
Unar Ib F6.3 4,581本 ==> 886本の間違いかもしれない。前年度が77本で次年度が0本なので、常識的には100本以下。
Tessar IIb F6.3 886本 ==> 少なくとも3,557本は作られているはず
Tessar IIb F4.5 54本 ==> 少なくとも676本は作られているはず
Tessar IIb F3.5 52本
Apo-Tessar VIII F? 35本
Protar IIa F8 286本
Protar IIIa F9 407本
Protar V F18 1,533本
Protarlinse VII F12.5 325本
皆さんお気付きだとは思いますが、念のためにこの表から得られる豆知識をまとめます。
- Tessar F4.5はキングズレークの本では1917年からと書いてあるが、実際には1907年頃に始まっている
- Tessar F4.5もF3.5もSeries IcではなくIIbと記載されている。実際レンズに何と刻印されたかとは関係なさそう。
- Series VIIIは製版用という意味でレンズの型を表すわけではない。Apo-PlanarもApo-Tessarも同じSeries
VIII。
2010.5.7 Carl Zeiss 1905/06
1905年10月から1906年9月の年度に、ツアイスから次のようなレンズが出荷されています。
Planar Series Ia F3.5-5 20/35/50/75/100/130mm 342本
Planar Series VIII F7.2-12.5 14本
Unar Series Ib F4.4-6.3 136/145/155/210/255mm 294本
Tessar Series IIb F6.3 54/56/75/84/112/136/145/155/180/210mm 3,707本
Apo-Tessar Series VIII 48本
Protar Series IIa F8 290本
Protar Series IIIa F9 491本
Protar Series V F18 307本
Protarlinse Series VII F12.5 1,816本
完全にTessar IIbの時代です。Tessarはシャープな上に小型軽量なので、小型カメラに搭載されて売り上げを伸ばした、と書こうと思ったのですが、それは以前から存在するCookeのトリプレットでも、ZeissのUnarにもあてはまるので、いまいち説得力がありません。少しWebを検索したら、見つかりました。多分これですね。
(http://www.all-art.org/history658_photography9-4.htmlより引用)
In about 1904, the compound shutter, designed for the Zeiss Company by
Friedrich Deckel, introduced sets of blades totally enclosed within the
camera that controlled both the size of the aperture and the length of
time it remained open; after improvements it became standard on all better
hand cameras
ロールフィルムの普及と感度上昇でシャッターが必要になった。小型カメラが普及しはじめると、小型のシャッターが必要になった。これに気付いたツアイスは、デッケルに頼んで画期的なコンパウンドシャッターを作ってもらった。コンパウンドシャッターに入ったテッサーを売り出すと、これが大当たり。つまりレンズを売るにはシャッターとセットにするべし、と気付いたツアイスのマーケティング戦略の勝利だと思います。
カメラメーカーは、コンパウンドシャッター付きのテッサーを買ってくれば、蛇腹によるピント合わせ機構とロールフィルム送り機構だけ作れば良いわけですから。
2010.5.4 Carl Zeiss 1900-1905
1902年以降はツアイスの出荷j記録はわずか数パーセントしか残っていない、というようなことを書いたのですが、これはあまり適切な表現ではなかったと思います。途中で見る表を変えなけらばならなかったようです。私が見ているツアイスの出荷台帳(Fabrikationsbuch
Photooptik I Carl Zeiss Jena, Photoobjektive und Fertigungsnummern, Fertigungszeiten,
Menge und Lieferungen an die Kameraindustrie von 1890 bis 1927)は大きく3つのセクションに分かれています。
Tabelle 1 Zeiss-Productionsstatistik 年度毎、月毎、品種(型、F値、焦点距離)毎の数量の集計。1900年までは総数で44,434本出荷とのみ記載。1900年から1905年まで(多分1900年10月から1905年9月まで)は各レンズ型毎の5年間の総数を記載。1905年10月以降は、事業年度毎、月毎の集計。
Tabelle 2 Objektive nach Fabrikationsnummern sortiert シリアルナンバー順の詳細な出荷記録。1900年までは詳細な記載があるが、1902年以降はわずか数%しか記載されていない。
Tabelle 3 Objektivlieferungen nach Kunden sortiert 出荷先毎(つまりカメラメーカー毎)の出荷記録
今まではTabelle 2を見て説明してきました。しかし、1905年10月以降はTabelle
1 に切り替えるのが適当だと思われます。その中間の1900年10月から1905年9月までの期間は帳簿の切り替え時期のようでして、Tabelle
1もTabelle 2も不完全で、両方を見なければなりません。
Tabelle 1の1900-1905の欄は次のようなものです。
1900 bis 1905 | 1 : x | Gesamt |
Planar Series Ia | 4.5-5.6 | 1,622 |
Apo-Planar | 6.3 | 20 |
Unar Series Ib | 4.5-5.6 | 2,455 |
Tessas Series IIb | 6.3 | 4,623 |
Apo-Tessar | 104 | |
Protar Series IIa | 8 | 5,215 |
Protar Series IIIa | 9 | 3,805 |
Protar Series V | 18 | 1,604 |
Protarlinse VII | 12.5 | 6,783 |
Tele-Negative | 799 | |
Alte Serien | 3,499 | |
Diverse | 412 | |
Gesamt/Jahr | 30,941 |
これを見ると、この期間はまだプロターおよびプロターリンゼの出荷本数が合計で17,407本と多いようです。1902年に出荷が始まったテッサーは4,623本と急激な立ち上がりを見せます。プラナーとウナーは合計でもテッサーよ少なく、テッサーまでの中継ぎだったようです。それでも、Planar 1,622本、Unar 2,455本というのは決して少ないとは言えず、もう少し市場に出回ってもいいような気がします。
2010.5.1 Carl Zeiss 1904
1904年は67,066番から72,837までの5,772本。台帳に記載があるのはわずか399本。欠落率93%。この年、日露戦争勃発。英仏協商。ドイツの3B政策対イギリスの3C政策。三国同盟対三国協商。そんな世界情勢の中で次のようなレンズが作られました。
Planar F3.6/40mm
Planar F3.8/160mm
Planar F4/205mm, 250mm
Planar F4.2/300m
Planar F4.5/50mm, 75mm, 100mm, 370mm, 423mm
Planar F5/470mm, 610mm
Planar F6.3/110mm
Apo-Planar F6.3/73mm, 110mm, 133mm, 142mm, 152mm, 206mm, 305mm
Apo-Planar F7/417mm
Apo-Planar F9/590mm
Unar F4.7/145mm
Unar F5/155mm, 255mm
Unar F6.3/136mm
Tessar F4.7/145mm
Tessar F6.3/84mm, 112mm, 136mm, 145mm, 150mm
Protar F7.2/224mm
Protar F8/62mm, 205mm, 295mm
Protar F9/120mm
Protarlinse F?/183mm, 340mm
Aplanat F6.3/250mm
これだけ見ると、Planarの時代が来たように見えますが、たぶんProtarからTessarへ直に切り替わったようで、PlanarやUnarが主流になったわけではなさそうです。この辺の事情は台帳の別の表が分かりやすいので、次回そちらを説明しようと思います。
2010.4.29 Carl Zeiss 1903
1903年は60,456番から67,032までの6,577本。台帳に記載があるのはわずか238本。欠落率96%。
Protar ?/54mm
Protar F8/110mm
Protarlinse F12.5/285mm, 350mm, 412mm, 590mm
Aplanat F6.3/145mm
Unar F4.5/73mm, 100mm, 112mm
Unar F4.7/145mm
Unar F5.3/375mm
Planar F3.6/40mm, F3.6/110mm
Planar F3.8/130mm
Planar F4/205mm,, 250mm
Planar F4.5/50mm, 75mm, 100mm, 423mm,
Planar F5/470mm
Apo-Planar F6.3/73mm, 110mm, 133mm, 142mm, 152mm, 305mm
Apo-Planar F7/430mm
Apo-Planar F12.5/1750mm
Tessar F2.7/1.5cm
Tessar F6.3/54mm, 107mm, 112mm, 136mm, 145mm, 155mm, 210mm
焦点距離がcm表記なのはTessar F2.7/1.5cmだけで、他は依然としてmm表記です。
Protar Series I/II/III/IV/V/VIIやTessar IIb類のように、同じF値で各種の焦点距離を揃えるタイプのレンズがあります。Planar
F4.5やApo-Planar F6.3もこのカテゴリーに入るかもしれません。一方、Unar Ibや、F4.5以外のPlanar
Iaや、F6.3以外のApo-Planarなどは焦点距離によってF値が変わります。これには多分ふたつの理由があったのではないかと推測します。
(1) 既製品と特注品
Zeissが見込み生産して在庫を抱え、既製品として短納期・低価格を実現したのがProtarやTessar
IIbではないかと思います。木製の蛇腹カメラの場合には設計に無理がないため、既製品のレンズの在庫から少量購入する方法が適すると思います。また、金属部品の加工にはミスが発生しやすいので、同じものを大量に発注する効果があると思います。
一方、Unar Ibや、F4.5以外のPlanar Iaや、F6.3以外のApo-Planarは注文を受けてから設計して製造する特注品だったと思います。パルモスなどの小型カメラの場合設計に制約が多いので、カメラとレンズの設計を同時に進めざると得なかったのだと思います。Apo-Planarの長距離のは印刷工場とか、造船所とかの投影用だと思われますので、一個ずつの特注だったと思われます。
(2) サイズ制限
同じF値で焦点距離を長くすると、レンズのサイズは焦点距離の3乗に比例して大きくなります。例えば、50mm
F1.8が100gだとすると、500mm F1.8は多分1000倍の100Kgになると思われます。これは天文台以外では現実的ではありません。例えばF5.6に暗くすると約3.2Kg,
F12.5にすると、約300gくらいに収まります。特に厚いガラスを6枚も使うPlanarの場合、重量が問題になったと思われます。
一方、映画用の15mmレンズの場合、もしF6.3で作ろうとすると、直径2.4mmのレンズを製作することになります。当時これを精密に製作することは難しかったと思われます。F2.7まで明るくすれば、直径5.5mmのレンズになり、すいぶん作りやすくなります。あるいは、もう少し大きなレンズを作って、絞りでF2.7に制限してしまってもかまいません。ちなみに、現代でも超短焦点レンズの自動絞りを製作するのは難しいようです。Sigma
8mm円周魚眼レンズの場合絞りをF32まで絞れるのですが、この時絞りの直径は0.25mm程度になります。5枚羽根の自動絞りでこれを実現するのは相当に難しく、冬になると絞った羽根が噛み合ってしまって、元に戻らなくなる時がありました。この現象が出て以来、Sigma
8mmで絞るのをやめました。Sigma 4.5mmの最小絞りがF22なのは、よく頑張っていると思います。
2010.4.27 Carl Zeiss 1902
1902年は53,705番から60,312番あたりまでの、約6,608本。1902年12月3日に59,919番まで出荷された記録がありますが、その後しばらく日付が不明の出荷が続き、次に日付の記載があるのが1903年1月2日の60,456番です。これの直前に記載されているのが60,312番ですので、これを1902年の最終としました。欠落率96%。つまり、ほとんど出荷記録が残っていません。
前年までのProtar一本槍から様変わりし、UnarとPlanarが多く記載されています。
Planar F3.6/60mm
Planar F3.8/130mm, F3.8/160mm
Planar F4/205mm, F4/250mm
Planar F4.2/300mm,
Planar F4.5/50mm, F4.5/75mm, F4.5/100mm, F4.5/370mm,
Planar F6.3/34mm
Apo-Planar F6.3/315mm, F9/470mm, F10/800mm, F10/900mm, F12.5/1300mm
Planarに関しては、寺崎さんの”小西本店 六櫻社 鏡玉と暗箱”のPlanarの項に詳しく出ています。焦点距離が長くなると少しずつ暗くなります。ただし、F4.5には50mmから370mmまであって、ちょっと別系統かもしれません。
Unar F4.5/112mm, F4.5/136mm
Unar F6.3/112mm, F6.3/180mm
Unarに関しては、F4.5とF6.3しか記載されていません。
Tessar F4.5/62mm, F4.5/16.5cm
Tessar F6.3/112mm
Tessar F10/470mm
TessarはF4.5とF6.3が同時に出ています。たったの4本なので、サンプル出荷段階ですね。今回の大発見としては、Tessar F4.5/16.5cm(57,661)で初めて焦点距離にcm表記が登場することです。それまで、台帳に記載されたのは全てmm表記です。もし、57,661以前のツアイスのレンズでcm表記のものがあれば、めずらしいと思います。
もちろん1902年製造(つまり発売初年度)のTessarを入手できれば価値が高いと思います。是非挑戦してみてください。方法は簡単です。ひたすら製造番号が6万番以下のTessarを探すだけ。
2010.4.25 Anastigmat I類の日誌訂正
2009.10.23 Zeiss Anastigmat 4.5/183mmの構成図において、
『1892年5月12日に初出荷されたツアイス・アナスチグマット・レンズ I類F4.5は、わずか11ヶ月後の1893年4月12日が最後の出荷となりました。この間に製造された記録があるのはわずか31本。183mm
F4.5は結局1月28日の出荷が最後となりました。』
と書いたのですが、これは明らかに間違いです。今回のZeiss台帳調査で、その後もアナスチグマットI類が出荷されていたことが分かりました。1893年4月12日以降、次のようなレンズが出荷された記録があります。一年以上飛んでいるので、生産終了だと思い込んでいたのでした。
1894.7.10 Anastigmat F4.5/150mm 1本
1894.7.12 Anastigmat F4.5/260mm 1本
1894.12.5 Anastigmat F4.5/416mm 1本
1895.1.14 Anastigmat F4.5/300mm 1本
1895.4.20 Anastigmat F4.5/150mm 1本
1895.5.22 Anastigmat F4.5/300mm 1本
1895.5.30 Anastigmat F4.5/260mm 1本
1896.4.28 Anastigmat F4.5/50mm 1本
1896.5.29 Anastigmat F4.5/50mm 1本
1896.10.1 Anastigmat F4.5/50mm 1本
1896.11.5 Anastigmat F4.5/416mm 1本
1897.1.4 Anastigmat F4.5/52mm 1本
1897.6.1 Anastigmat F4.5/354m 1本 (最終)
一個目のプラナーIa類 F4.5/19mmが出荷されたのが1897年5月22日ですから、その11日後に最後のアナスチグマットI類が出荷されたことになります。まさに選手交代といった感じですね。
2010.4.24 Carl Zeiss 1901
1901年は46,387番から53,445番までの7,059本。台帳からの欠落2,887本。欠落率41%。51,295番から53,445番の間には、わずか14本しか記載がなく、150本に一本程度しか記録が残っていません。ほとんどのレンズはProtar
F6.8, F8, F8, F18と、Protarlinse F12.5で、UnarやPlanarはたったこれだけしか記載されていません。
Unar F4.5/112mm x 1, F4.5/136mm x 12
Unar F4.7/145mm x 1
Unar F5/155mm x 1
Unar F5.3/375mm x 2
Unar F6.3/115mm x 11, F6.3/147mm x 3, F6.3/183mm x 8,
Planar F4/205mm x 6
Planar F4.5/105mm x 1
Apo-Planar F5/155mm x 1
UnarはF4.7が主流だと思っていたのですが、F4.5からF6.3までいろいろあったようです。ルドルフのパルモスは、この年に銀行の破綻の余波で解散してしまいます。パルモス向けに製造される予定だったUnarは幸運に恵まれなかったのかもしれません。
2010.4.22 Carl Zeiss 1900
1900年は38,539番から46,386番までの7,848本。台帳からの欠落1,133本。欠落率14.4%。Anastigmat
Series IV F12.5の出荷が停止されたようで、ゼロ本です。Anastigmat改めProtar
F6.3, F8, F9, F18, Protarlinse F12.5が主力レンズです。
Planar F4.5 75mm 10本、F4.5 50mm 11本、F9 620mm 1本。あいかわらずPlanarは台帳への記載が少ないです。
そして、Unarが登場します。F4.5/112mm 13本、F4.5/136mm 2本、F5/155mm 16本、F5.5/112mm
1本の合計32本。
この焦点距離を見ると、Unarはパルモス向けに開発されたのかもしれません。良い小型カメラがないのでレンズの生産が伸びないと考えたアッベは、この年1900年にパウル・ルドルフにパルモスAGというカメラ会社を設立させます。ツアイス本社がカメラ作りに乗り出す気はなかったようで、ベンツィンと組んで別会社を作りました。パウル・ルドルフは手ぶらでパルモスに行くわけにもいかないので、ウナーという強力な手土産を準備したのではないかと思います。Protarでは暗いし、Planarはパルモスには大きすぎます。パルモスを売るためには、軽くて明るくてシャープなウナーが必要だったのかもしれません。
2010.4.20 Carl Zeiss 1899
1899年は31605番から38538番までの6934本。台帳からの欠落429本。重複1本。Anastigmat
III類 F7.2が激減して、わずか8本の出荷となります。F6.3, F8, F8, F12.5, F18は引き続き出荷。この頃になると、1ロット50本というのも多くなり、本格的に量産を開始したようです。
Planarは合計9本のみ記載。F9/620mm, F4/250mm, F4/250mm x 6, F3.8/130mmのみ記載。Planarは記載漏れが多いと思われます。F9の暗い製版用のレンズも、lこの時はまだ単にPlanarと記載されています。私の持っているPlanar
F3.6/110mm 36606番も記載されていません。この前後10本が欠落していますので、ひょっとしたら同じレンズが10本作られたのかもしれません。
1899年12月1日をもってAnastigmatがProtarに改名されたようです。しかし、翌1900年の1月まではまだAnastigmatと記載されたレンズもあり、この2か月間はAnastigmatからProtarへの帳簿上の移行期間だったようです。
1899年に開発されたUnarはまだ1本も帳簿に記載されていません。
2010.4.18 Carl Zeiss 1898
1898年は25040番から31604番までの6565本。台帳から欠落した番号は456。欠落率7%。重複はゼロ。ついにAnastigmat
I類 F4.5の出荷がゼロになります。代わりにPlanar Ia類が4本記載されています。F4.5/100mmが1本,
F3.6/83mm が2本、F不明/焦点距離不明が1本。多分もう少しPlanarが作られたと思いますが、台帳にはたったの4本しか記載されていません。どういうわけかAplanatが5本ほど出荷されていますが、PlanarとAplanat以外は全部AnastigmatまたはAnastigmatlinseです。Anastig-Satzlinseと改名されたのかと思ったら、いつのまにかAnastigmatlinseに戻っていました。多分帳簿をつける人の気分で変わったのだと思います。
この年に製造されたPlanar F3.6を探しているのですが、まだ見つかっていません。Zeiss
Planarで検索すると、新しいレンズが大量にリストされてくるので、その中から古い物を探すのが難しいのです。
いずれにしろ、Zeiss Anastigmat I類からPlanar Ia類への切り替えがひっそりと終了しました。しかしF4.5クラスの明るいAnastigmatの生産数量はあまり増えません。これらのレンズは主にポートレート用ですので、昔ながらのペッツバール型人物用レンズを置きかえるのが難しかったのだと思います。
2010.4.16 Carl Zeiss 1897
1897年は19457番から25022番までの5566本。台帳から欠落したレンズが510本。欠落率9%。製造番号の重複が19本。前年に引き続きAnastigmat全シリーズが生産されています。Series
I F4.5は52mmが五本生産されています。どういうわけかAplanat(F値、焦点距離とも不明)が128本出荷されています。そして、いよいよPlanar
Ia類の登場です。1897年の台帳に記載されているのは次の2本のみ。
1897 Planar F4.5/19mm
1897 Planar F4.5/20mm
焦点距離が短いので、マクロ撮影用だと思います。ひょっとしたら映画用かもしれませんが、はっきりしません。
これ以前にZeissから出荷された20mm前後のレンズは3本だけ。
1893 Anastigmat F7.2/14mm for Mikro-Photo Zeiss
1894 Anastigmat F7.2/22mm for Mipho Zeiss
1896 Anastigmat F7.2/22mm for Mipho Zeiss
Mikro-PhotoとMiphoは多分同じZeissのマクロ撮影用カメラ部門だったのではないかと想像します。ここから先はフィクションです。
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ツアイスの顕微鏡写真部門では、小さな乾板を使って、研究者が手軽にマクロ撮影できる装置を開発していた。以前Anastigmat
F7.2で焦点距離の短いレンズを試作したが、暗くて撮影しづらかった。このことを写真レンズ部門のパウル・ルドルフが聞きつけて、現在開発中のPlanar
F4.5を提案してきた。Planarは性能が良かったが、厚いレンズを6枚も使っているので、大きな乾板のための長焦点レンズとしては重すぎたのである。まずは小さな乾板を使う装置向けに短い焦点距離のレンズで性能を確認し、実績を得たかった。Planarは20mm程度の短い焦点距離では、軽くて、シャープで、像面がフラットで、明るい視野を得ることができた。
2010.4.14 Carl Zeiss 1896
1896年は14290番から19456番までの5167本。台帳から欠落するレンズが多くなります。面倒くさいので全部集計はしていませんが、たとえば、14290番から14934番までの645本のうち183本が台帳に記載されていませんので、欠落率3割ほどになります。
生産されたレンズはF4.5, F6.3, F7.2, F8, F9, F12.5, F18のAnastigmat全種類。F4.5は3本しか記載されていません。。
レンズの出荷先にはGoerzやHasselbladの名前も見えます。 GoerzにはF7.2/120mmが2本、HasselbladにはF9/230mmが10本出荷された記録があります。F4.5,
F6.3, F7.2, F8, F9, F12.5, F18の七種のラインナップは一見無駄に見えます。たとえば、F6.3,
F8, F12.5, F18の四種もあれば十分でしょう。しかし競合のGoerzが使っていることを考えると、豊富なラインアップが売り上げを増やす上で重要だったのかもしれません。
2010.4.13 Carl Zeiss 1895
1895年は10,461番 - 14289番までの3,829本。1984年引き続き、Anastigmat全種類が生産され、それ以外の銘柄のレンズは全く生産されていません。几帳面にも、ほぼすべてのレンズの記録が残っています。Anastigmatの生産本数は少し伸びていますが、多分アッベやルドルフの期待した数量には達しなかったと想像します。まだ大口の出荷先(つまりカメラを量産できる会社)が見当たらないのです。台帳には,
Richard, Harbers, Nadar, Edwards, Ernemann, Schiffmacher, Wemhard, Lechner,
Mackenstein, Huttig, Boulade Freres, Bellieni, Karpoffなど、カメラメーカーと思われる名前が見えます。しかし、一度に納品する数量はほとんどが1本から12本で、一度に13本以上の納品したのはわずかに7回で、最大でも30本でした。
優れた光学ガラスはある。優秀なレンズもある。しかし、それを使うにふさわしいカメラがない、という状況であったと思われます。街に一軒だけある写真館が一個のレンズを10年は使う、といった状況を何とかして変えなければなりません。
2010.4.11 Carl Zeiss 1894
1894年はシリアルナンバー7,668番から10,460番までの2,793本です。1893年に引き続き、全てのレンズの出荷記録が残っているようです。Anastigmat
F4.5, 6.3, 7.2 8, 9, 12.5, 18, Anastigmatlinse (Series VII) F12.5などAnastigmat系列のレンズは全種類が出荷されています。(Anastigmat
Series VIがあるのかもしれませんが、出荷台帳からは判別できません)
気になる点としては、Anastigmat Series I F4.5がわずか3本(150mm, 260mm,
416mm)しか出荷されていないことです。パウル・ルドルフはこのレンズをあきらめて、Series
Ia Planarの研究を始めたのでしょう。
もうひとつ気になる点は、Anastigmatlinseの名前がAnastig-Satzlinseに変わったことです。多分どちらも同じ4枚貼り合わせのSeries
VIIだと思います。
この時期のドイツ国内政治情勢を調べてみたのですが、ビスマルク首相辞任後のドイツ国内に大した事件はなく、割と平和だったようです。カプリヴィ首相の親英自由貿易路線の元、Zeissは割と自由に活動できたものと思われます。不気味に静かなヨーロッパ。一方、アジア・アフリカ方面では大事件が相次ぎます。1894年の日清戦争。1899年のボーア戦争。
ドイツの歴史をちょっと読んで感じたのは、平和な時期は凡庸な首相が続き、任期が短いということです。戦争になるときまって強力な指導者が出現します。今の日本は凡庸な首相が頻繁に交代し、誰にも指導力がありません。しかし、これは全くすばらしいことなのです。テレビで解説者が、指導力のない首相が頻繁に交代するのは良くない、などと言うのを聞くと気分が悪くなってしまいます。
2010.4.10 Carl Zeiss 1893
Zeissの出荷記録の中で、1893年出荷で最もシリアルナンバーが若いのは356番です。シリアルナンバーが割り当てられてから出荷までに時間がかかったレンズがあるようでややこしいのですが、便宜上4657番から7667番までを1893年製造としたいと思います。うちにあるNo 4475
Anastigmat 1:4,5 F-183mmは1893年1月28日出荷ですが、今回は便宜上1892年に分類することにします。一年ぐらい違っても気にすることではありません。(実際は相当気になりますが)
台帳に記載された本数を暗算で数えると、3061本になりました。シリアルナンバーが4657番から7667番まで3011番しか進んでいないわけですから、シリアルナンバーの重複があるか、または私の計算間違いだと思われます。まあ要するに、1893年のレンズはほぼ完全に記録が残っていると言えます。
台帳に記載されているレンズの名前と焦点距離は次の通り。(シリーズ名は台帳には記載されていません。F値のみ)。(ざっと集計しただけですので、抜けがあるかもしれません)
Anastigmat
(Series I) F4.5 ----- 220, 260mm
(Series II) F6.3 ---- 43, 85, 105, 140, 170, 210, 250, 300, 360, 430, 510, 590mm
(Series III) F7.2 ---- 96, 120, 148, 195, 220, 250, 315, 586mm
(Series IIa) F8 ----- 110, 136, 167, 205, 244, 295, 350, 433mm
(Series IIIa) F9 ---- 76, 120, 150, 172, 196, 230, 272, 317, 407, 505, 600, 690, 820mm
(Series ??) F10 --- 1270mm(1 unit)
(Series ??) F12 --- 1228mm(1 unit)
(Series IV) F12.5 -- 98, 119, 154, 196, 260, 386, 605, 906mm
(Series V) F18 ---- 86, 112, 141, 182, 212, 265, 315, 460, 632, 947, 1660mm
Anastigmatlinse
(Series VII) F?? 200, 250, 320, 385, 450, 530, 900
Triplet-Apochromat
F?? 95mm(1 unit) ??mm(2 unit)
Anastigmatは全種類出荷されています。F10とF12はそれぞれ一本ずつの出荷ですので、特注品だと思います。Anastigmat
Series IVはキングズレークの本では1894年と書いてありますが、1893年にも少し出荷されています。驚くべきは、1890年に失敗に終わったはずのTriplet-Apochromatが1893年に3本出荷されていることです。狭い角度であれば優秀なレンズだったのかもしれません。Triplet-Apochromat
95mmが是非欲しいのですが、まあどこかの博物館で見られればラッキーといったところでしょう。
2010.4.9 FlexScan S2411W
ずっとノートパソコンのモニター(WXGA 1280x800)で作業していたのですが、押し入れにしまいこんであった預かり物のFlexScan S2411W(WUXGA 1920x1200)を繋げてみてビックリ。画素数は約2.5倍ですが、ソフトウェアのメニュー領域を除いた実質的な作業省域は4倍くらいある感じです。ほとんどスクロールせずに作業できるし、書類を4枚くらい並べて見られるので、肩こり防止に有効です。
最初デュアルモニターで使っていたのですが、一枚の小さなタブレット(WACOM
Intuos 3 PTZ-430)で2枚のモニターを操作するのはなかなか難しいことがわかりました。もう少し大きなタブレットかマウスなら問題ありません。WUXGAのモニターは十分大きいので、外部モニターのみ使うことにしました。
ノートパソコンのモニターとマウスという組み合わせの時には肩こりがひどかったのですが、外部モニターとタブレットの組み合わせでだいぶ軽減することができました。モニターを少し遠くに置くことで、眼精疲労にも多少効きそうです。
その他、ちゃんとファイルを整理すること(ファイルを探さなくても済む)、グラフィカルなメニューは使わずキーボードのショートカットを使う(ファイル-->上書き保存 ではなく
ctrl-s)、文字の領域指定はシフトキー+矢印キーで行う、shift+↓で次の行の先頭に移動する、など昔ながらの手法も肩こりや腱鞘炎に有効です。頭痛がする時には。。。
パソコン肩こり防止コンサルタントやろうかなぁ。
2010.4.8 Carl Zeiss 1892
1892年はとても統計の取りにくい年です。1892年の11月から1893年の2月にかけて大量に(といってもロット当たり1本から10本までですが)出荷されており、シリアルナンバーが前後するため、何番までが1892年製造で何番からが1893年製造と言えないのです。ちなみに、1892年出荷で最も大きなシリアルナンバーは4868、1893年出荷で最も若いシリアルナンバーは358。受注時にシリアルナンバーを付けて製造したものの、客先(例えばKrauss
Paris)の都合で(カメラがまだできていないなど)、出荷待ちの在庫があったのだと思います。
ちなみに、1905年から(あるいはそれ以前から)少なくとも1928年までのZeissの決算年度は10月ー翌年9月だったようでして、暦の年はあまり関係なかったと思われます。
便宜的に1294-4656番を1892年製造、それ以降を1893年製造とします。シリアルナンバー上では3363本製造されたことになります。一方帳簿に記載されているのは1041本だけです。記載率31%。多分台帳が一部失われているのだと思います。二度の戦争を考えると、やむを得ないでしょう。
1892年には、Series IIIa F9(割とたくさん), Series IIa F8(わずか1本),
Series I F4.5(23本)が登場します。この年はSeries I F4.5, II F6.3, IIa
F8, III F7.2, IIIa F9, IV F12.5, V F18が全て出荷された年でした。ひょっとしたら、Series
IIaとSeries Iの台帳が失われたのかもしれません。
2010.4.7 Carl Zeiss 1891
1890年にZeissから出荷されたAnastigmatは Series III F7.2 と Series II F6.3
の二種類だけでした。この点はキングズレークの記載とは異なります。
1891年になると、Series IV F12.5, Series V F18の出荷が始まります。1891年に出荷されたレンズのシリアルナンバーは、119番から1285番までの1167番進みました。このうち883本が台帳に記載。328本は台帳から欠落。(記載率75.7%) シリアルナンバー重複数6本(重複率0.5%)。
1891年のAnastigmatシリーズ別出荷本数は次の通り。
Series II F6.3 14本
Series III F7.2 296本
Series IV F12.5 357本
Series V F18 216本
Series III, IV, Vがレンズ4枚なのに対し、Series IIはレンズ5枚です。推測ですが、構造が簡単な(つまり安い)Series
IIIの方が良く売れたのだと思います。年間1167本出荷というのは、当時としてはなかなか良い成績で、ショットのガラスと大量に使うというZeissの目論見は見事に成功しました。数が多いのは150mm
- 300mmくらいですが、中には900mmとかもあります。以前から製造していた顕微鏡のレンズよりは、はるかに大量のガラスを消費する写真レンズ。Zeissは新市場への参入に成功したのでした。
2010.4.5 Carl Zeiss 1890
1886年、アッベとショットが設立したイエナの工場が順調に立ち上がり、バリウム・クラウンや硼酸塩フリントの生産を始めます。ところが、これらの新種ガラスの使い道は顕微鏡やロスのダブレットなどに限定されており、ガラスが余ってしまったのです。あわてたアッベとパウル・ルドルフは自分たちで写真用のレンズを設計することにしました。1890年12月3日、最初のアポクロマチック・トリプレット(Triplet
Series VI)が出荷されます。このレンズは軸外に強い非点収差が出たので市販されたか疑問との説と、結構よくできていて市販されたという説があります。ツアイスの台帳を見ると、合計43本のTriplet
Series VIが製造されています。シリアルナンバーでいうと、1-19, 21-32, 35,
44-48, 104-109。焦点距離は95mmから410mmまで。F値はすべて6.3。
シリアルナンバー20番が最初のアナスチグマット240mm F不明です。次が33番190mm
F7.2。1890年はシリアルナンバー118番まで製造されました。そのうち80本は台帳に記載され、38本は台帳に記載されていません。台帳に記載された80本のうち43本がアポクロマチック・トリプレット(Triplet
Series VI)で、37本がアナスチグマット。1890年はアポクロマチック・トリプレット(Triplet
Series VI)の方がアナスチグマットより生産量が多かったかもしれません。
2010.4.4 Stigmatic Series 1 焦点距離
Vade mecumにはスチグマチック シリーズ 1 には次のような焦点距離のレンズが記載されています。No.1は6インチだと思っていましたが、5.5インチだと記載されています。(大差はありません) いずれにしろ、No.1が最も短い焦点距離のようです。Stigmatic
Series II にはNo.1よりさらに焦点距離が短いNo.1A 4in, No.1AA 3.25inが記載されていますが、Series
1にはないようです。ちなみに、Stigmatic Series 0の焦点距離に関する記載はありません。
Stigmatic Series 1 F4
No.1 5.5in --- format: 4.25x3.25in
No.2 6.75in --- format: 5x4in
No.3 8.25in --- format: 6.5x7.75in
No.4 11in --- format: 8.5x6.5in
Stigmatic Series 1a F4.5
5in
6.5in
8in
2010.4.3 Stigmatic Series 0/1 解説
Vade mecumにStigmatic Series 0, Series 1 の解説 がありますので、要約します。
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Stigmatic Series 0 f3.5 Layout Da017 from 1895
スチグマチックが発表されたとき、それは奇抜で非常に大口径であった。数が少なく、すぐに暗いSeries
IIに置き換わった。1896年のR.P.Sのミーティングでダルマイヤー親方がStigmaticを紹介した。そこには設計者のアルディス氏も同席した。B.J.A
1925 p782にもまだ記載されているので、実際には結構長期間(30年ほど)販売されたと思われる。
Stigmatic Series 1 f4.0 3.25-18in from 1895 ot 1892 Da018
このレンズは長年製造されたが、あまり一般的ではない。最も焦点の長いレンズは1905年のリストにはなく、6-12インチのみが販売された。(Amateur
Photo 27/12/1895, p424) これは60度をカバーするシャープなポートレートレンズである。収束性のレンズは重バリウムクラウンであり、発散性のレンズは軽ケイ酸塩クラウンである。あるオークションにNo.63,708が出ていた。
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私はSeries 0は一度も見たことがなく、Series I ですら12インチを一本と、今回の6インチ一本の合計二本しか知りません。Series
1は1895年の雑誌に載っており、Series 0は1896年にダルマイヤー親方が発表した、ということはSeries
0の方が後に出たと考えられます。キングズレークの本とは順番が逆かもしれませんね。1890年代のF4クラスの大口径アナスチグマット開発競争について次のような仮説をたててみました。
1891年 ツアイスのルドルフがアナスチグマット I 類F4.5を開発 大口径アナスチグマットの先陣を切る
1893年 クックのデニス・テーラーがトリプレットF4???(注1)を開発 わずか3枚で大口径を実現 ただし狭角
1895年 クックのデニス・テーラーがトリプレットF4.5を開発 シャープで広角
1895年 ダルマイヤーのアルディスがスチグマチック I 類F4.0を開発 ツアイスとクックに追いつく
1896年 ダルマイヤーのアルディスがスチグマチック 0 類F3.5を開発 ツアイスとクックを追い抜く
1897年 ツアイスのルドルフがアナスチグマット Ia 類 F3.6 Planarを開発 非常にシャープだが長焦点だと重すぎ
1899年 ツアイスのルドルフがアナスチグマット Ib 類 F4.7 Unarを開発 非常にシャープでコンパクト
1902年にテッサーが出ると一気に様子が変わってしまいます。
注1: 最初に開発されたクックのトリップレットのF値がはっきりと分かりません。F4.5だと思っていたのですが、F4.0かもしれませんし(キングズレーク説)、F6.3かもしれません。トリプレットが出た時にテーラー・ホブソン社のシリアルナンバーが一旦リセットされたそうです。シリアルナンバーがNo..125のSeries
III F6.5があるそうですので、シリーズ番号と開発順は関係ないようです。F4.5,
F5.6, F6.3がほとんど同時に出たのかもしれません。
2010.4.1 Stigmatic Original F3.5
写真レンズの歴史(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)の図6.3
にスチグマチック四種の解説があります。
(a) 最初の型(Original) F3.5 3-1-2型
(b) Series I F4 2-2-2型 <----- これが今回入手したもの
(c) Series II F6 1-2-2型
(d) Series III F7.5 1-1-2型
Vade mecumを見ると、つぎのような詳細なシリーズが記載されています。
Series 0 F3.5 3-1-2型
Series I F4.0 2-2-2型
Series Ia F4.5 2-2-2型
Series II F6 1-2-2型
Series III, IIIa F7.5 1-1-2型
Series IV F6.3 Carfac
寺崎さんの小西本店の資料によりますと、スチグマチックは次の三種が記載されています。
Series I F4 3-1-2型 (キングズレークの最初の型と同じ)
Series II F6 1-2-2型
Series III F7.5 1-1-2型
これらの記載から総合すると、スチグマチックSeries Iには(a)型と(b)型が存在し、どちらもSeries
I F4という名前で売られていた、と推測します。3-1-2型(Series 0)がいったい何本くらいあるのかは不明です。この謎解きは楽しめそうです。
2010.3.27 Stigmatic Series I
J. H. Dallmeyer Stigmatic Series I No 1. No. 59591 (f4/150mm)
シリアルナンバーから1899年製造と判明。
スチグマチック シリーズI F4 の1番(150mm)です。写真レンズの歴史(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。
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1895年に、ダルメヤー社の秘書であったヒュー・L・アルディス(Hugh L. Aldis)がツアイスのアナスチグマットを復活させて新シリーズのレンズを作り、スチグマチック(Stigmatic)と名付けた。
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シリーズIでは球面収差補正用の張り合わせ面が前群から中央レンズに移り、明るさはF4に減じた。このシステムの正の部品はすべて同じバリウム・クラウンで作られ、ペッツバール和は焦点距離10の時に約0.03であった。このシリーズはダルメヤーにより10年以上も売られた。
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Stigmatic Series Iのレンズはなかなかめずらしいです。特に1番は焦点距離が最も短く(多分)、一眼レフでも使いやすいです。この個体は111年前のレンズとしては、非常にきれいだと思います。
ラックアンドピニオンの焦点合わせ機能が付いています。案外スムーズに動きます。
見事な手彫りの刻印
シリアルナンバーは59591。http://members.ozemail.com.au/~msafier/photos/dall_ross.html から1899年製造だと分かります。
本に出ている通りの3群6枚。フランジをペンタックス67の中間リングにネジ止めして、改造しました。サイズがぴったりなので、改造時間約10分。
ペンタックス67の中間リングに取り付けたところ。
EOSに取り付けたところ。かなり小さいのが分かります。焦点調節は主にペンタックス67のヘリコイドで行いますが、ラックアンドピニオンギアがあるので、無限遠の調整は適当でかまいません。
Vade mecumより引用。右が前です。
2010.3.26 WWP 310 Food
World Wide Panorama 310 Foodに出品しました。
http://www.ksmt.com/panorama/100322kamakura/100322kamakura.htm
日本からのWWPへの出品件数は最近5〜6件に減っていますので、奮って出品ましょう。締め切りは4月5日まで。
6件 WWP 1209 Best of 2009
5件 WWP 909 Performing Arts
5件 WWP 609 Time
8件 WWP 309 Diversity
11件 WWP 1208 Best of 2008
2010.3.22 双子
さっきテレビで双子の話題が出ていたので昔祖母が言っていたことを思い出しました。今は先に生まれた方が兄ですが、昔は後で生まれた方が兄だったそうです。なぜなら先に入ったから。
2010.3.21 マルコーニ(11) 短波
グリエルモが自宅で無線通信の実験に成功した時は波長30〜40m(10MHz程度)の短波を使っていたのですが、その後送信距離を伸ばすために波長の長い中波に変えたようです。ところが、中波だと日中は太陽の影響で通信ができず、夜だけしか通信できませんでした。1924年になって、再び短波に戻し、約4000キロ離れた地点と一日中受信できることを発見。これにより世界中どこでも24時間直接無線通信するという念願がかないました。
マルコーニによって開拓された無線通信は、すぐにラジオや無線電話に応用されます。日本もすぐに追いつき、1912年に逓信省電気試験所の鳥潟右一、横山栄太郎、北村政次郎が「TYK式無線電話機」の発明。一般にはこれが世界最初の無線電話だと言われているそうです。
2010.3.20 マルコーニ(10) 悲劇
1912年4月10日の朝、グリエルモ・マルコーニの妻ベアトリスはタイタニック号の出航を見送りました。タイタニックの処女航海に招待されていたのですが、幼いジュリオが熱を出したため、乗船できなかったのです。三日前に出航したルシタニア号に乗ってニューヨークに着いたグリエルモが下船したとき、海難事故の知らせが入ります。
(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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ニューヨーク・タイムズ紙の4月15日付朝刊では、「昨晩10時25分、ホワイト・スター社の大西洋横断船タイタニック号は氷山と衝突したためCQD(国際危険信号、SOSの前身)を最寄りのマルコーニ無線基地に発信した。同号は緊急救助を求めた」と報じた。同紙は、タイタニック号のエドワード・J・スミス船長に直ちに無線を送ったが、返答はなかった」
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タイタニック号衝突の第一報の後、あちこちの無線基地や多数の素人無線士たちが一斉に無線を送ったため、空中も大混線をきたします。ニューヨーク・イブニング・サン紙が全員救助と書くと、マルコーニ社の株価は55ポンドから225ポンドまで上がります。しかし、カルパティア号によって救助されたのは2200名のうちわずか700人。1500人が犠牲となる大惨事だと判明します。
タイタニック号の無線士ハロルド・ブライドは「氷山に衝突。直ちに救援求む。CQD、OM」さらに新たに使えるようになったSOSを打電します。午前2時ごろ沈没。カルパティア号は即座に進路を変更して救助に向かいますが、距離が遠く、事故現場に到着したのは夜明け前でした。
カリフォルニア号はタイタニック号の至近距離を航行していましたが、不幸にも船内で唯一人の無線士は夜勤を終えて、もう寝ていました。さらに、救助に向かったカルパティア号に搭載されていた無線装置の出力が低かったため、事故現場から地上基地まで送信することができず、新聞の誤報をまねくことになりました。
2010.3.16 マルコーニ(9) 全員救助
1909年1月23日、大西洋上において船舶の衝突事故が発生します。リパブリック号は船体と隔壁の損傷を受け、ゆっくりと沈みはじめます。リパブリック号の無線室は壊滅状態で電気系統も停止していましたが、幸いにも無線機器とオペレータのジョン・R・ビンズは無事で、緊急時用の蓄電池が使えたため、何とかシアスコンセット無線基地に救助を要請することができました。シアスコンセット無線基地からの転電で沈みつつあるリパブリック号の位置を知った近くの船が次々と救助に向かいました。リパブリック号は日が暮れた後沈没しましたが、その前に無事全員の救助に成功しました。
無線通信は海難事故の人命救助において大きな成果を上げます。
2010.3.13 マルコーニ(8) 安価
1901年12月12日、大西洋横断無線通信に成功します。これは、実用的価値が大きいだけでなく、地球の丸さが無線通信の妨げにならないことの証明でもありました。12月15日付けのニューヨーク・タイムズ紙のトップ記事になります。世界中から祝辞が届きます。一方、海底ケーブル会社との係争問題を抱えることになりました。海底ケーブル会社の株価が下落したためです。
無線通信は有線通信に比べて設備投資が格段に安価だったのです。マルコーニが電線を使わずに。二基の気球と六枚の大凧を操って無線通信をしたことは、まさに魔術でした。それに比べて海底ケーブルの敷設は大変お金のかかる事業でした。(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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敷設の大作業を自分の目で確かめるため、グレート・イースタン号に乗船したフィールド自身が書いている。「船内には、生き物は牛10頭、乳牛一頭、羊144頭、豚20頭、ガチョウ29羽、七面鳥14羽、ニワトリ500羽、さらに大量の食肉と1万8000個の卵が積み込まれた」。
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もちろんこれは作業者の食糧でして、本業のケーブルおよび敷設装置の重さと値段は大変なものです。マルコーニがアンテナを少し上げるのに使った凧と気球は軽くて安いものです。ケーブル通信会社は、どんな汚い手を使ってでも無線通信の実用化を阻止しようとします。
2010.3.12 マルコーニ(7) 兵役
グリエルモは祖国イタリアの兵役義務の問題に直面します。イタリアに戻り三年の兵役を果たすか、英国に帰化するか、どちらかを選ばねばなりません。グリエルモは愛国心と科学的野心の間で葛藤します。しかし、彼の研究は既に世界的に有名になっており、駐英イタリア大使のフェッツロー将軍が良い解決策を示してくれます。グリエルモをロンドン駐在イタリア大使館付海軍士官候補生に任命したのです。海軍士官学校への受験資格がないので無線の研究をしていたのに、結局士官候補生になったのは皮肉ですが、今でいうAO入試みたいなものですね。
イギリスに渡った一年後、グリエルモは重要人物として祖国イタリアに帰ります。海軍から無線通信のデモンストレーションを頼まれたのです。海軍省本部で箒の先に取り付けたアンテナ(他に適当な棒がなかったため)を、海軍省の高官に高く掲げてもらい、送信機は<イタリア万歳>と送信を始めます。新聞は「立ち会っていた人々の間から大きなどよめきが起こった」と書きました。翌朝、クイリナーレ宮殿において国王夫妻に拝謁。ウンベルト国王はグリエルモの手を握り、笑みを浮かべながら「本当に、おめでとう」と言われたそうです。
ロンドンに戻ったグリエルモは会社を設立し、経営者としても道を歩み始めます。最初は「ワイヤレス・テレグラム・アンド・シグナル・カンパニー」という名前でしたが、父親のアドバイスに沿ってすぐに「マルコーニ・ワイヤレス・アンド・シグナル・カンパニー」に社名変更します。
2010.3.11 マルコーニ(6) 30万リラ
ある日グリエルモのもとに、ミラノの銀行から発明の使用権として30万リラという大金が届きます。グリエルモの父親はこれを大いに誇りに思い、この金でイタリアのマルコーニ家の隣地を買い取るようにすすめます。しかし、グリエルモはこの申し出を断ります。30万リラは大金でしたが、グリエルモは自分の発明した無線電信には、それよりはるかに大きな価値があると確信していました。
1897年春、グリエルモは海上での通信の実験を行います。この実験の成果を自らの目で確かめようと、浜辺には多くの国の代表たちが集まっていました。4日目、13キロ離れたブリーン・ダウンとの通信に成功します。懐疑的だった科学者達も、これを見せられては納得せざるを得なくなりました。
2010.3.10 マルコーニ(5) コロンブスの卵
プリースの協力により、有能な助手達、ジョージ・ケンプ、アンドリュー・グレイ、そして政官界に知己が多く<官庁街の魔術師>と言われたR・N・ヴィヴィアンを得ます。通信の実験や営業の開始には多くの当時から許認可が必要だったようです。またプリースは1897年6月4日、無線通信に関する講演を行い、マルコーニの発明を紹介します。
「父マルコーニ」(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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たしかに何か新しい電磁線を発見したわけではありません。また、彼の記録機はブランリーのコヒーラを基にしたものです。卵が立つことを教えてくれたコロンブスは卵も発明したのでしょうか? マルコーニはこれまでのものよりずっと感度の高い新しい機器を造り出し、今まで送れなかった場所にも届く新電信システムを考え出したのです。
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無線通信の可能性と有用性を理解していた人が少数いたようですし、実際マルコーニに近い結果を出していた人もいたようですが、実用化までには遠い道のりがあったようです。公開実験によって世界中に熱狂を巻き起こし、英国・イタリア・米国などの政府・軍・王室を巻き込み、強い信念を持って無線通信事業を進めることは、マルコーニ以外にはできなかったようです。
イギリス郵政省のバックアップと陸海軍関係者の立ち会いのもと、14キロ離れたところへの無線通信が成功すると、マルコーニの生活は一変します。新聞が報道し、世界中から手紙が届き(主にはマルコーニの代理人になってひと儲けしたいというもの)、有名人となり、以前にも増して忙しい生活になります。
2010.3.9 マルコーニ(4) ロンドン
無線通信の実験の成功を見た父親は、ついにグリエルモの発明を世に出してやろうと思います。この時イタリアは艦隊を編成中でしたので、海軍省に話を持ち込めば強力が得られた可能性が高いのですが、そんなことは誰も知りません。思いついたのはイタリアの郵政省にアイデアを持ち込むこと。しかし、郵政省は検討もせずに拒絶します。そこで、グリエルモは母アニーの故郷であるイギリスに渡ることを決意します。海運大国イギリス。当時すでに地上では有線の電報・電話のサービスが始まっていましたが、航行中の船舶は通信手段を全く持っていませんでした。
「父マルコーニ」(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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アニー・マルコーニにとっては30数年前、愛する男性と結婚するために家族の反対を押し切ってドーヴァー海峡を渡った時と同様、息子と二人しての海峡横断も不安に満ちたものであったに違いない。絵空事に終わるかも知れないこととひきかえに平穏な生活を投げ出して、いま彼女は再び無謀とも思える一歩を踏み出したのだ。
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ロンドンの税関では持ち込んだ通信装置を壊されてしまいます。しかし、従姉妹のヘンリーの協力で通信装置を修理し、特許を提出し(グリエルモは多少イタリアなまりはあったようですが、普通に英語を話したり書いたりできたようです)、後に英国郵政省の技師長となるウィリアム・ヘンリー・プリースの協力を得て、予想外に順調な滑り出しです。プリースは海上での人命救助に無線通信が使えると考えていました。
2010.3.8 マルコーニ(3) 銃声
当時、あらゆる性質の波は、波長が短ければ直進し、長ければ障害物を迂回するだろうと考えられていました。グリエルモ・マルコーニもこの考えに従い、波長を徐々に長くして、30メートルから40メートルの長い波長を使って遠くまで飛ばそうとしました。今で言う短波ですね。そして1894年(多分)、ついに1Kmの無線通信に成功し、進んできた道が正しいことを確信します。さらに送信機に改良を加え、遠くの丘まで届くようになります。実験に協力してくれた兄のアルフォンソは受信できると、白いハンカチを振ってグリエルモに知らせました。そして、いよいよ丘の向こうとの通信に挑みます。もうハンカチで知らせることはできません。「父マルコーニ」(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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そこで、彼はハンカチの代わりに猟銃を持ち出し、農作業小屋のわきの細い小道を上っていった。時は既に9月末、ブドウ畑は熟した実がたわわに実り、あたりの空気はすでにワインの香りをかもし出していた。丘の尾根を歩いて超えるには20分ほど必要だった。アルフォンソを先頭にして、農夫のミニャーニとアンテナをもった大工のヴォルネッリが続いた。ようやくグリエルモの視界から、地平線の彼方へと三人の小さな行列の姿が消えた。「数分間、私はモールス用キーボードを操作して、送信を開始した。遠くで、一発の銃声が谷間にこだました」
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20歳の青年グリエルモ・マルコーニが無線通信に成功。これを知らせるのに、銃声という古典的な無線通信を使いました。
2010.3.7 マルコーニ(2) アース
当時、グリエルモ・マルコーニは電源としてライデン瓶くらいしか使えなかったようでして、モールス信号機を動かすのに十分な電流を得ることができませんでした。「父マルコーニ」(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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「私の手元にある材料で発生させられる電流は弱すぎて、モールス機器を動かすには不十分だった。すぐにリレーによって電流を強めることを考えはしたが、実現できたのはもっと後になってからだった。当面、特に研究の必要があると思われたのは、研究室という限られた空間からできるだけ遠方の屋外へ送り出すときの電波の状態についてだった。そして、電波の遠隔送信については絶対の自信があった。リーギ先生に相談しに行ったこともあるが、先生は、私の計画の実現の可能性についてはかなり疑問を抱いていた。アースというものに気がつかなければ、まさに先生の疑問は正しかったのである。」
アース。これこそがその後の開発の道を開くための決定的な鍵だった。
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アースが生んだ正義のマルコーニだったわけですね。
2010.3.6 マルコーニ(1) 信じられない
まともに学校に通わなかったために、ボローニャ大学(ダンテ、ガリレオ、コペルニクスも学んだ)に入れなかったグリエルモ・マルコーニ(1874-1937)は、しかたなく聴講生としてリーギ教授の講義に出席することにしました。住まいが近所だったのと、母親のアニーが教授に頼んだおかげで、リーギ教授の研究室で作業することが認められましたが、特に教授に目をかけたもらったわけではありません。1894年頃(20歳)、グリエルモは自宅の屋根裏で無線通信の実験に没頭します。残念ながら父親からの応援はなく、母親が余分に買ってくれた靴を売り払って電線やバッテリーを買う費用を工面していました。既にウィリアム・クルックス卿が無線通信を予言し、ヘルツが電磁波について測定したにもかかわらず、無線通信の研究をしている人はまだ誰もいません。グリエルモは信じられない思いでした。
「父マルコーニ」(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ著、御舩佳子訳、東京電機大学出版局)から引用します。
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「私にとって一番やっかいだったのは、着想はとても初歩的で、単純で理論的であったのに、誰もそのこを考えつかなかったという事実を信じられないことにあったんだ。実際、オリヴァー・ロッジは正解にもう一息のところまで行ったんだがな。アイディアは非常に現実的なものだったんで、ほかの人たちにとって理論が現実離れしてみえるとは思ってもみなかった」 と父は述懐している。
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グリエルモは屋根裏部屋の中で無線通信に成功し、次に一階との間で、そして庭との間での無線通信によるモールス信号の送受信に成功します。しかし、後にグリエルモ・マルコーニの協力者となるフレミング卿ですら、まだ無線通信ができるとは思っていなかったようです。15年も前にフレミングの法則を発見しているにもかかわらず。
2010.3.5 請求書
アメリカのWeb制作会社から突然emailが入ってきて、World Wide Panorama 1209 の写真を商業的に使用したいのでライセンス可否と値段を知りたいとのこと。日本では一度(2006年2月5日)売れたことがありますが、外国に売るのは初めて。もちろん喜んで売りますが、いったい値段をいくらにすれば良いのか分かりません。今回はある会社のWebの表紙に静止画(QTVRではありません)を使うだけなので安くてもいいような気もします。しかし、相手は大きな会社のようですし、納期の関係で急いで契約したいようですので、多少高くても払ってくれそうな気もします。しばらく考えた結果、安い価格を回答。すると、すぐにOKの返事が来ました。ちょっと安すぎたかも。
で、問題はここからです。すぐに請求書を作って、その中に使用許諾条件と支払条件を書いて送らねばなりません。仕事で時々アメリカの会社に請求書を送るので、その書式を流用すれば良いのですが、商品名と使用許諾条件を何と書くかが問題です。さんざん悩んだ末に、商品名欄に次のように記載することにしました。
Non-exclusive license for commercial use of digital picture data titled "Yokohama Sunset"
(Copyright reserved by Rikuichi Kishimoto)
(さらに、この下に写真のサムネイルを貼りつけて写真を特定)
小額なので支払条件は簡単です。振り込み口座と振り込み期日(月末)を指定するだけ。誠に簡単な請求書ではありますが、作るのに2時間くらいかかってしまいました。請求書作成費用をもらわないと割に合いませんね。これで今後海外に写真の使用権を販売する準備が整ったわけですが、売れる見通しはありません。
ということで、もし海外に写真を初めて販売するのだが英文の請求書の作り方が分からない、という方がおられましたら、今回作った請求書をサンプルとして差し上げますのでご連絡ください。
2010.3.4 オイラー(8) その先へ
「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)の最後に、次のように書かれています。
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レオンハルト・オイラーは、発明家・探検者・芸術家であった。そののち2世紀以上鳴り響く熱狂とともに、彼は見知らぬ領域へ思い切って進んだ
--- 物質の世界という外部に向かったのではなく、かつてバートランド・ラッセルが「純粋な思考がその自然な家として住むことができる」と述べたその領域の内部へと向かったのである。他の偉大な探検家のように、時々彼は誤った方向転換をし、重要な標識を見逃したのである。それにも拘わらず、ガリレオという古代のハープ奏者と同様に、オイラーは私たちの最高の賞賛に値する。薄暗がりの中で骨を折り、彼の持つ無比の想像力のみに頼って研究しながら、彼は数学の辺境の地やその先へと旅したのである。
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オイラーに関して分かりやすいエピソードを探したのですが、どうしても難しい数式が出てしまいます。ですので、オイラーの話はこれくらいにしておきたいと思います。とにかく、オイラーは偉い人らしく、当時のヨーロッパでは大変な有名人だったようです。ただ、ガリレオやニュートンほど派手な逸話がないので、日本では知名度が低く、ちょっと損をしているなぁと思いました。
それに、この頃(日本で言うと江戸時代中期)のヨーロッパが国際的だったことが良く分かります。ロシアのアカデミーは西ヨーロッパから招かれた研究者が多かったようですし、ドイツのアカデミーもなぜかフランス語を公用語としていたようです。国際紛争も起こりましたが、どちらかというとヨーロッパ圏内の内戦のように感じられます。EU的な考え方は昔からあったようです。
2010.3.3 テスラ
去年アメリカの友達のところにテスラ・ロードスター(Tesla Roadstar)が納車されたという噂を聞きました。予約してから2年ほど待ったそうです。0-60mph(0-96km/h)が3.9秒というフェラーリなみに速いスポーツタイプの電気自動車です。最高速度は抑えられているようですが、加速はすごそうです。
テスラというのは発明家・電気技師のニコラ・テスラ(交流発電および交流送電で有名。磁束密度の単位)にちなんで名づけられたのだそうです。ただ、テスラ・モータースの創業者の出身地がニコラ・テスラと同じセルビアというわけではないようです。
今まで知らなかったのですが、ニコラ・テスラの発明は大したものですね。そして、エジソンも感心するほどの努力家だったそうです。母国セルビアでは紙幣ディナールの肖像として使われているそうです。ただ、かなりの頑固者だったようでして、一般の知名度の点では同時代のエジソンやマルコーニに比べると少し損をした感じですね。
2010.3.2 オイラー(7) 組合せ論
1から3までのトランプの札が机の上に置かれています。これをシャッフルしてもう一度置き直します。全てのトランプが元の位置と異なる確率は? 123と並んでいた札を並べ直すと、一枚でも元と同じ位置に札がある組み合わせは、123,
132, 213, 321の四通り。全部異なる位置になる組み合わせは、231, 312の二通り。ですから、確立は0.3333ですね。トランプを6枚にすると0.3680,
12枚にすると0.3678で、それ以上枚数を増やしてもほとんど変わりません。
この問題は、1708年にピエール・レーモン・ド・モンモールが確率を求め、組み合わせ論における歴史的栄誉を手にしました。その後、1718年にアブラハム・ド・モアブルもこの問題の解法を独立に発表しています。モンモールの発表から70年後の1779年になって、オイラーがこの問題に関する論文を書きます。サンクト・ペテルブルグのアカデミーからこの論文が出版されたのは、オイラーの死後25年もたった1811年のことでした。モンモールから遅れること103年。
それにもかかわらず、この確率の問題はオイラーの仕事だったと世間では考えられているそうです。それは、この確率が1/eであり、オイラーが1751年の論文で説明したexの級数展開と同じ形が使われていることなど、いくつかの理由があるからだそうです。「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)では、理由のひとつについて次のように書かれています。
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というのも、一方でオイラーによって初めて得られた結果であるのに、他の人が初めて考察した結果であると認識されているものが、あまりにもたくさんある。たとえば、フーリエ級数、ベッセル関数、ヴェン図といったものである。これらはすべて誤った名前をつけられていて、むしろ「オイラー級数」、「オイラー関数」、「オイラー図」などど呼ぶのがふさわしい。したがって、もし最初に指摘したような現実に対する「報復」が許されるなら、一致の問題をオイラーの考察として取り扱っても、さほどの戸惑いはあるまい。
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2002.3.1オイラー(6) 虚数の虚数乗
虚数 i の i 乗、すなわちii (ちょっと読みにくいですが√-1√-1)、虚数の虚数乗は実数であるe-π/2だそうです。(一般的にはii=e-π/2 * e±2πk, kは整数、すなわち無限個の実数になる。k=0の時に、ii=e-π/2となる)
これを発見したオイラー自身も驚いたようでして、「なんと注目すべきことなのだろう。なぜなら結果は実数であり、しかも無限個の異なる実数を含んでいるのだ」と言ったそうです。オイラーは虚数を数学の舞台上で一人前の役者として扱い、その根、対数、正弦、余弦などを得る方法を示しました。「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)には、次のように書かれています。
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そのたいまつは、偉大な成功者のグループに継承されていった。19世紀はガウス、コーシー(1789-1857)、リーマン、ワイエルシュトラス(1815-1897)などが登場し、彼らは辺境を驚くべき形で進歩させたのである。実際、オイラーこそがそのしっかりした土台を作ったのである。
他の偉大な開拓者のように、彼も未知の荒野を目指したのである。
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対数、虚数、三角関数、微分、積分、組み合わせなど、ばらばらだった数学の要素がオイラーによって関連付けられ、ひとつの体系に仕上がる様子が見えます。
1271年頃中央アジア経由で陸路でモンゴル帝国の上都に到達したマルコ・ポーロ、1492年頃大西洋を横断してアメリカ大陸に到着したコロンブス、1498年頃喜望峰回りでインドのカリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマ、1520年頃マゼラン海峡を発見して太平洋を横断してフィリピンに渡り、ついに世界一周を成し遂げたマゼラン(マゼラン自身はフィリピンで戦死)。 探検好きのヨーロッパ人にとって、オイラーはマゼランにたとえるべき冒険家だったのかもしれません。
しかし、アメリカ大陸に到達したのは氷河期にアラスカから来たアジア人が最初です。10世紀頃にはバイキングも頻繁にアメリカ大陸に来ていたようです。東アジアでは倭寇が活躍していますし、ペルシャ帝国は中央アジア・北アフリカ・東ヨーロッパにまたがる大帝国でしたし、モンゴル帝国も北アジアから東ヨーロッパまでの広大な地域を支配していたようです。なので、マルコ・ポーロやコロンブスやマゼランは、非ヨーロッパ人から見れば大したことない、とも言えます。多分彼らが優れていたのは、文字による記録を書き、それを出版したことだと思います。逆にいえば、ヨーロッパには新しい本を求める読者がたくさんいたということですね。オイラーについても同じことが言えそうです。
2010.2.28 オイラー(5) 虚数
1545年、イタリアのジロラモ・カルダーノ(1501-1576)が三次方程式の一般的な解法を発表します。しかし、x3=6x+4 という簡単な式の根にも√-1という虚数が出てきて、皆を当惑させました。微分積分学を樹立したライプニッツ(1646-1716)でさえ√-1のことを、「存在する面と存在しない面を持ち表す両生類の動物」と呼び、虚数を重視しませんでした。一方オイラーは、「事実、私たちがこれらの想像的な数を利用したりすることに何の障害もない」と、虚数を積極的に使う姿勢を見せました。
どこかの本で読んだ覚えがあるのですが、小学校1年で習う数字の「3」ですら実在はしないのだそうです。「3」はあくまでも概念であり、言葉であり、記号なのです。「愛」とか「誠」とかいうのと同じです。ですので、「愛」も「誠」も「3」も虚数√-1すなわち「i」も、概念上の存在という意味で同質なのだそうです。
オイラーは虚数の研究を進め、ド・モアブルの定理 [ (cosθ + isinθ)n = cosnθ + isinnθ ] から三角関数の級数展開を導きます。
cos x = 1 - x2/1・2 + x4/1・2・3・4 + x6/1・2・3・4・5・6 + ・・・・
sin x = x - x3/1・2・3 + x5/1・2・3・4・5 + ・・・・
さらに、オイラーの公式と呼ばれる並外れて綺麗な関係式を導きます。異なるアプローチによる三種類の証明を提示したため、どんな懐疑論者も反論できなかったそうです。
eix = cos x + i sin x
eiπ + 1 = 0 (xがπの時の特殊型)
この特殊型には、数学でスーパースターというべき重要な数がすべて単純な式の中に含まれるという点が、美しいのだそうです。
0 : 加法の単位元
1 : 乗法の単位元
π: 円周率
e : 自然対数の基底
i : 虚数単位
ひょっとしたら、これらの式が美しいと思えるか否かが、数学好きと数学嫌いの分かれ目かもしれませんね。ニュートンによると、これらの式を初めて見たときに理解できない人は、数学者には向かないのだそうです。もちろん私は数学者向きではありません。
2010.2.27 オイラー(4) 対数
ヘンリー・ブリッグズ(1561-1631)は非常に面倒な計算をして対数表を作り上げました。一個の対数を求めるのに、平方根を求める計算を何と24回も行ったそうです。まったく気の毒なほど大変な計算ですが、ブリッグズの死後にメルカトルとニュートンがそれぞれ級数展開を用いて対数の計算をする簡便な方法を考案しましたので、なおさら気の毒になります。そしていよいよオイラーの登場です。オイラーはメルカトルとニュートンの方法を改良しました。オイラーの考案した級数は収束が速いので、わずか15回程度の四則演算(ちゃんと確認していませんが多分、足し算5回、掛け算2回、割り算8回くらい)で6桁の対数が求められるようになりました。
その後、級数展開はオイラーが微分解析の重要な公式を導くのに重要な役割を果たのしたそうです。
ここまでは、「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)を参考にしました。
ブリッグズが苦労して計算した対数表はコンピュータは実用化されるまでの長い間大活躍をしました。レンズの設計にも欠かせないものだったそうです。写真レンズの歴史(ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマ)から引用します。フォクトレンダー、ゲルツ、アイレックス、コダックなどで多くの名レンズを設計したウイリー・シャーデ氏(1889-1973)に関する記載です。
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ウィリー・E・シャーデは昔風の人間で、引退するまで6桁の対数表で仕事をしていた。助手が自分の考えで計算機を使うことに別に反対はしなかったが、シャーデは毎年、ブレミカーの対数表を1冊、だめにしたそうだ。
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著者のキングズレーク氏もコダックの設計部門でしたから、シャーデ氏と同僚だったと思います。ですから、この記載は間違いないと思います。
2010.2.26 オイラー(3) 失明
1766年、59歳の時、オイラーはエカテリーナ2世により復興されたサンクト・ペテルブルグ・アカデミーに戻り、一生この地に留まります。ベルリンに移った後も辞めたはずのサンクト・ペテルブルグ・アカデミーに論文を送り続け、俸給を受け取っていたそうですので、現在で言うところの出向解除(あるいはレンタル移籍解除)のようなものかもしれませんね。サンクト・ペテルブルグ・アカデミーはロシアにありますが、当時の会員は主に外国から招聘された外国人だったそうです。
オイラーは31歳で右目を失明。左目も徐々に悪くなり、64歳頃には全盲になり、さらに66歳で妻カタリーナを亡くします。普通ならば活動を停止するところですが、オイラーは違いました。目が見えた時よりさらに論文の数を増やしたのです。もちろん自分で読み書きはできませんので、口述筆記でありながら、1週間のほぼ1本の割合で論文を書いたそうです。
オイラーは1783年、サンクト・ペテルブルグで76歳の生涯を閉じます。オイラーはたくさんの論文を書いていたので、サンクト・ペテルブルグ・アカデミーはオイラーの死後、48年間にわたり残された論文を出版し続けたそうです。
オイラーの略歴はこれで終わりです。オイラーはロシアとプロイセンのアカデミーで、細かい問題はたくさんありましたが、恵まれた環境で主に数学の研究に没頭することができ、膨大な量の論文を書いたそうです。当時ヨーロッパのセレブリティーだったオイラーは、フリードリッヒ大王から直接招聘されたり、軽蔑されたりします。当時の数学者の知名度は今より高かったのかもしれませんね。
「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)から引用します。
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彼の称賛の中には、次のようなものもある。マルキ・デ・コンドルセは、何でも将来数学を追求する者は「オイラーという数学者によって道案内される」と述べ、いくつかの弁解のあとに「すべての数学者…は彼の弟子である」と述べた。
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2010.2.25 オイラー(2) ベルリン
エカテリーナ1世の死により、ロシアの政治的混乱が始まり、オイラーはロシアのアカデミーにいづらくなります。そんな時、プロイセン王国のフリードリッヒ大王から復興されたベルリンアカデミーの一員となるよう依頼され、喜んで受け入れます。この時オイラー33歳。オイラーはベルリンで、「無限解析入門」、「微分学教程」などの本を書き、「オイラーの公式」の発見などの業績をあげます。さらに、アンハルト・デザウ王女に対する初等科学の教育などを行い、この時の200通にもおよぶ手紙をまとめた本が後に出版され、世界中で多くの人に読まれます。その名も、「自然哲学におけるさまざまな問題に関するドイツ王女へのオイラーの手紙」。この本の中で、光、音、重力、論理、言語、磁力、天文、熱帯地方の山の山頂はなぜ寒いのか、昇る時の月はなぜ大きく見えるのか、なぜ空は青いのか、人間と動物の電動化、などについて論じています。
しかし、ベルリンにおいてすべてがうまくいっていた訳ではありませんでした。フリードリッヒ大王のオイラーに対する不可解な軽蔑、アカデミーのもうひとりの大スターだったヴォルテールとの関係が冷めてしまったこと、などにより状況が悪くなってしまします。
「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)を参考にさせて頂きました。
2010.2.24 オイラー(1) バーゼル問題
「オイラー入門」 (W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)を読んだところ、なかなかお面白かったので紹介します。
オイラーは1707年にスイスのバーゼルで生まれ、14歳でバーゼル大学に入学し、そこでヨハン・ベルヌーイ教授に出会います。ライプニッツは既に亡く、年老いたニュートンも数学から離れていましたので、この時点ではベルヌーイが最高の数学者だったのだそうです。ベルヌーイは尊大で気難しい性格だったようですが、オイラーは毎週土曜日の午後に自由にベルヌーイを訪れることが許され、個別指導を受けることができました。数年すると、早くもオイラーがベルヌーイを追い越してしまったようです。
ヨハン・ベルヌーイの息子ダニエル・ベルヌーイがロシアのサンクト・ペテルブルグのアカデミーの数学教授になります。ダニエルに誘われたオイラーは同アカデミーの教授になります。この時オイラー20歳。さっそくアカデミーで業績を上げはじめます。まず「バーゼル問題」を解きます。この時28歳。
「バーゼル問題」: 1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + 1/25 +・・・+ 1/k2 +・・・(平方数の逆数を足し合わせた値はいくらかという問題)
オイラーはこの級数の和がπ2/6(六分のパイ二乗)になることを示します。この美しく、しかも直感では得ることができない結果は人々を驚かせ、オイラーは一躍有名になります。この後オイラーは目を見張る速さで研究を進め、次から次へと論文を書きます。オイラーの論文はアカデミーが出版する紀要に掲載され、時には紀要の半分を占めることもあったそうです。
2010.2.23 写真フィルム(9) フィルムの難しさ
デジタルだと露出やISO感度やピントを変えて何百枚撮影してもタダですし、RAWで撮影して後で現像パラメータを変えても良いわけですから、テスト撮影が十分できます。それに比べてフィルムは値段が高いので、アマチュアが十分なテストを行うことはできません。それに35mmロールフィルムは途中で交換しずらいので、同一撮影条件でフィルムだけ変えて撮影し比較することが難しいです。
同じ現像処理が使える数種類のフィルムをひとコマずつ繋げたテスト用の35mmフィルムなんてものがあればいいのですが、そんなものは聞いたこともありません。同じフィルムでも乳剤番号が違うと発色が違うという話も昔よく聞きましたが、乳剤番号の違うフィルムをひとコマずつ繋げたテスト用の35mmフィルムなんてのも面白いかもしれません。
そんなことをしなくても、APSのMRC機能を使うか、ブローニーでフィルムマガジンを使うか、大判のシートフィルムを使えば良いではないか、という意見もあります。一番安いAPSをちょっと調べてみたのですが、残念ながらフジフィルム、コダックとも一種類しかフィルムを販売していないので、比べるべきものが既にありません。フィルムを理解するのは、なかなか厳しいですね。
2010.2.22 写真フィルム(8) 印画紙のコントラスト
銀塩ウェットプロセス★モノクロ写真 の 特性曲線 〜 表現のための感剤選び を見ていたら、白黒ネガから印画紙に焼き付ける時の考え方が書いてありました。シャドー部とハイライト部の濃度差に合わせて引き伸ばし時のフィルターを変えるのだそうです。フィルター00番が一番大きな濃度差を扱えるよですが、00判で濃度差1.8ですので、ネガフィルムの特性曲線が濃度差2.0のあたりまでしかプロットされていないのは当然と言えます。それ以上プロットしてもプリントと関係ないのだと思われます。
その点リバーサル・フィルムは引き伸ばし機のフィルターとは無関係ですから、濃度3.5までプロットしても良いわけですね。スライドを透過光でみるとシャドーの諧調が良く見えるので、この範囲までプロットする必要があります。でも、注意しないといけないのは、スライドで見えているシャドーの諧調が、プリント時には消えて真っ黒になってしまう可能性があるということです。これはデジタルでも同じですね。パソコンでは良く見えていたシャドーのディーテルが、印刷では真っ黒、という経験があります。
私は自分で引き伸ばしプリントをしたことがないのでフィルターの件は知りませんし、印画紙も触ったことがありません。このあたりの知識不足がバレてしてしまいましたね。でも、Webで丁寧な説明が見つけられたので、助かりました。
2010.2.21 写真フィルム(7) デジタルとの比較
フィルムとデジタルカメラの撮像素子との特性曲線の直接的な比較を探したら見つかりました。
デジタル一眼レフカメラを用いた夜空の明るさ調査(デジカメ星空診断)という資料を見ると、次のようなグラフが見つかりましたので引用させて頂きます。従来はリバーサルフィルムを使って夜空の明るさを測っておられたそうですが、それをデジタルに置き換える時の資料です。縦軸には電荷量を取っているようですので、昨日のグラフとは上下反転しています。
これを見ると、デジカメの撮像素子の特性は、メーカーが違ってもほとんど同じ、リバーサルフィルムよりγ値が低い、特に暗いところでの感度が良い、特性が直線的、などの特長があるようです。デジカメでは10EV以上のラチチュードがあるようです。フィルムより相当広いですね。暗いところで感度が圧倒的に良いので、フィルムより早いシャッター速度にして条件を合わせておられるようです。
暗いところでも直線的ということは、ISO感度が上げられるということですね。最近のISO
100-6400なんていうカメラだと、6絞りですね。これにリバーサルと同じ6絞りを加えて合計12絞り。いやぁ、便利になったものです。
2010.2.20 写真フィルム(6) フィルム露光の理論
昨日の疑問ですが、道楽雑記にフィルム露光の理論という記事があり、答えがほとんど書いてありましたので引用(赤字部分)させて頂きます。
問1: リバーサルフィルムとネガフィルムの露光範囲は同じか?
答1: ネガとポジのフィルムの感度の規定方法は異なっているが、実際の露光域はほぼ一致しているといえるが、厳密にはネガフィルムの方が広いことが分かる。
感想: やっぱりそうだったんですね。安心しました。
問2: なぜネガの特性曲線の傾きがゆるくて、リバーサルの傾きが急なのか?
答2: デジタルカメラの出力は、写真フィルムのネガフィルムの考え方と同様、撮影する方の
γ を小さく抑えて、扱える露光域を広げておき、ディスプレーやプリンターに出力する際の
γ 変換によって、本来の γ=1 に戻すというやり方(図7青色破線)を継承していることが分かる。
感想: なるほど。リバーサルはそのまま見なければならないので、γ=1.5という急な傾きにする必要があるのですね。ネガやデジタルは別にそんな無理をしなくても良いようです。
問3: フィルムの方がデジタルより露光域が広い?
答3: またその露光域も、ほぼ写真フィルムと同等の範囲を扱えるといえる。
感想: なるほど、やっぱりそうでしたか。図6と図7を比べると、暗い方はデジタルの方がかなり広いようです。
問4: デジタルの方がフィルムより白トビしやすい?
答4: しかし、最大露光量以上の部分、あるいは最小露光量以下の部分で丸みを帯びながらも延びを示しているフィルムの特性曲線と違って、ディジタルカメラの撮像素子の出力では、原理的には、特に明るい方でデジタル変換値に最大値が存在するため、明確な折れ曲がりを生じてしまうことになる。これがデジタルカメラの露光域は狭いという人たちがいる原因なのだろうか?
感想: 全く同感です。まあ、これは好みの問題だと思います。私はスパッと白トビした方が好きです。ハイライトの白トビを恐れて主題を暗めに写すのは本末転倒だと思います。どうしてもハイライトの諧調が欲しい場合には、思い切って軟調に現像するか、または露出を変えて複数枚撮影して合成しています。
2010.2.19 写真フィルム(5) ネガのコントラスト
ネガ・フィルムの特性曲線を比較してみました。Fuji Pro160NC(硬調)、Fuji
Pro160NS(軟調)、Fujicolor 100(一般用)、KODAK EKTAR 100の四種類です。驚くべきことに、グラフの右側が飽和することなく、直線のままプロットが中止されています。これは多分濃度2.0のあたりは既にフィルムは真っ黒で光は透過しませんのでプリント上では白トビになりますが、フィルムの濃度自体はもっと濃くできます、ということだと推測します。もしそうでないのなら、もう少し右の方までプロットされるでしょうか? でも、ポジでは濃度3.5くらいまでプロットされていましたが、あれはいったいどういう意味だったのでしょうか? あるいはリバーサルとネガの濃度の基準が違うのでしょうか?
さらに、R、G、Bの特性が大きく違っているのが目立ちます。青は全く露光していない状態でも、かなり濃い色のようです。ネガ・フィルムが元々アンバーに着色されているせいかもしれません。フィルムの濃度をフルに使っていないようで、もったいないような気もします。
赤のPro160NSは、青の160NCよりも角度が緩やかですので、コントラストが低いことが確認できます。EKTARは青はコントラストが高めですが、赤は低めのようです。フジカラー100はかなりコントラストが高いようです。やはり一般的にはコントラストが高い方が売れるのだと思われます。
ネガ・フィルムの特性曲線の傾きが緩やかなので、リバーサル・フィルムより軟調と言えそうです。しかし、ネガ・フィルムの表現できる濃度差(縦軸)はわずか1.5ほどしかなく、3.0ほどあるリバーサル・フィルムの半分ほどしかありません。これは一体そどういう意味なのか? 約2.0 logH(ルクス秒)、または約7絞りでフィルムの濃度差を使いきるという意味では、ネガ・フィルムとリバーサル・フィルムのコントラストあるいはラチチュードは同じである、と言えるかもしれません。紙にプリントした時、リバーサルでもネガでも同じように露光量0.0で真っ白、露光量-2.0で真っ黒なわけでしょうか?
ということで、特性曲線を見る限りにおいてはネガフィルムの方がリバーサルより軟調なのかはっきりしません。写真をプリントする装置の特性により、ネガフィルムの露出不足を救いやすいのかもしれません。グラフの左下の-2.0
- -3.0のところの特性が細かく記載されていることから推測すると、フィルムの薄い色の微妙な違いをプリント時に拾うのが簡単なのだと思います。一方、グラフの右上の濃度が濃いところは、濃度差があってもプリント時に拾いづらいのかもしれません。
多分、フィルム自体のコントラストやラチチュードを議論しても意味がなく、プリントまで含めたシステム全体としてはネガの方が露出の失敗を救いやすい、ということのようです。でもなんかすっきりしませんね。
ひょっとしたら、昔のネガフィルムはもっと軟調で、自動露出カメラの普及につれてどんどん硬調になったのかもしれません。あるいは、私の特性曲線の見方が悪いのかもしれません。
いずれにしろ、今までの私の認識とは違うようで、分からないだらけです。もしご存じの方がおられましたら---掲示板---に書き込みをお願いします。
2010.2.18 写真フィルム(4) コントラスト比較
Velvia 100F、ASTIA 100F、エクタクローム e100vsの特性曲線を比較してみました。Photoshopで強引に3枚の特性曲線を重ねて、やっと少し様子がわかってきました。
まず、横軸ですが、log H(ルクス秒)では分かりにくいので、EVの目盛を書きこんでみました。1EV(1絞り)は0.3log
H(ルクス秒)に相当するそうです。赤が軟調のアスティア、青が硬調のベルビア、緑がエクタクローム。エクタクロームは青色の濃度が少し薄いようですが、赤と青はほぼベルビアを同じ特性のようです。
軟調のアスティア(赤)は全体に傾きが緩やかです。これは光の量が変わっても、画像の濃さがあまり変わらないということですから、コントラストが低いと言えます。硬調のベルビアは傾きが急です。これはコントラストが高いと言えます。
まず、右下の-1EVあたり、すなわちハイライトを見てみますと、同じフィルムの濃さに達するには、アスティアの方がベルビアより0.5EVほど多くの光が必要のようです。このあたりに人の顔を持ってくると、美しい肌色が再現されるということですね。
次に、真ん中あたり、すなわち-2EVから-5EVのあたりをみると、どのフィルムもほとんど同じ特性のようです。このあたりが適正露出ということでしょ。逆に言うと、このあたりしか使わない分には、どのフィルムでも関係ないということですね。
最後に左上の-6EVのあたり、すなわちシャドーを見ると、ハイライトと同じように、アスティアの方が0.5EV分ほど色が薄くなっています。これは、アスティアの方がシャドーのディーテルが写せると言えますし、ベルビアの方が黒が締まるとも言えます。
まとめると、アスティアはベルビアよりハイライトで0.5EVくらい軟調、シャドーでも0.5EVくらい軟調、中間のコントラストはほぼ同じ。案外違いが少ないものだなぁと思いました。
2010.2.17 写真フィルム(3) データシート
あまり気が進みませんが、フィルムのデータシートを見てみましょう。コントラストに関するデータは特性曲線だと思われます。
例として、フジフィルムのアスティア100Fのデータシートを見てみましょう。
http://fujifilm.jp/support/pdf/filmandcamera/datasheet/ff_astia100f_001.pdf
ググってみると、フィルム特性曲線というページが見つかりましたので、これを参考にさせて頂きました。
横軸がフィルムに当たった光の量で、縦軸がフィルムに記録される画像の濃さです。光がたくさん当たるほど(グラフの右に行くほど)画像が薄くなることが分かります。リバーサルフィルムですので当然ですね。
ハイライトが基準なので、横軸が0.0のところが真っ白なのだそうです。真っ白でも像の濃さがゼロではないのは、フィルムベースに少し色がついているとおいことだと思われます。一方、横軸が-2.5あたりが真っ黒。黒い方は色によってばらつきがあるようですが、色がばらついても人間には見えないということだと思われますので、実質的には横軸が-2.0くらいのところで真っ黒になっていると思われます。人間には暗いところの色は見えないということですね。
これはいったい、コントラストが高いのか低いのか、白とびや黒つぶれはどうなのか、はたまたデジタルカメラの撮像素子と比べてどうなのか、引き続き調べてみたいと思います。
2010.2.16 写真フィルム(2) ネガ
超軟調のリバーサルフィルムを探したのですが、それってひょっとしてネガフィルムのことじゃないかと思い、ちょっと調べてみました。
Fujifilm NATURA1600 一般撮影用高画質超微粒子
Fujifilm SUPERIA Venus 800 一般撮影用高感度微粒子
Fujifilm PREMIUM 400 一般撮影用高感度微粒子
Fujifilm SUPERIA X-TRA400 一般撮影用高感度微粒子
Fujifilm FUJICOLOR 100 一般撮影用微粒子
Fujifilm REALA ACE 100 一般撮影用高画質超微粒子 ソフトで豊かな諧調
Fujifilm PRO160NC ハイコントラスト
Fujifilm PRO160NS 柔らかい(NSと同等)
Fujifilm PRO400 通常ISO400のカラーネガフィルムより柔らかい
Fujifilm PRO800 粒状性を感じさせないなめらかな質感描写
KODAK EKTAR 100 世界最高の粒状性
KODAK ポートラ160NC/400NC 自然な肌色
KODAK ポートラ160VC/400VC より鮮やかな色彩
KODAK ポートラ800 厳しい照明条件下に最適
リバーサルよりさらに文学的な表現ですね。ネガフィルムの場合はプリント時点で自在にコントラストや彩度の調整ができますので、文学的な表現で何ら問題ないと思います。デジカメでいうところのRAWデータみたいなものですね。粒状性と感度以外は最終的なプリントにあまり影響がなさそうで、選びがいがありません。まあ一応、REALA
ACE 100, PRO160NS, ポートラ160NCなどが軟調ということは分かります。しかし、どのフィルムがどのくらい軟調なのか、データシートを見ても、よく分かりません。
2010.2.15 写真フィルム(1) リバーサル
普段はデジカメしか使わないのですが、フィルムも気になるので、少し調べてみました。二年ほど前に久しぶりにリバーサルフィルムを使ったのですが、とりあえずなじみのあるRDP
III(PROVIA 100F)を買いました。撮影結果を見ると、RDP IIIはコントラストが高すぎて、私には合わないかなぁと思いました。露出はだいたい合っているのに、色飽和が発生しているようにも見えました。特に新緑の色が変なのですが、これがフィルムのせいなのか、露出のせいなのか、現像のせいなのか、はたまたデジタル化(このときはデジカメで複写)した時の光源の問題なのか、はっきりしませんでした。
デジカメではJPEGで撮影しているのですが、カメラ内の現像パラメータのコントラストを最低に設定しています。こうすることによって明るめに撮影しても色飽和を防ぐことができます。特に、人の顔、紫色や黄色の花、新緑などで色飽和に苦しまなくてもよくなります。キヤノン標準の設定は、どうやらRDP
IIIと同じくらいのコントラストに設定されているようで、私は好きになれません。コントラスト最低(超軟調)のリバーサルフィルム、または現像方法、またはデジタル化の方法を見つけたいわけです。
まず、市販されているリバーサルフィルムの種類を見てみましょう。
フジ プロビア400X 色表現性:イメージカラー 彩度:高 諧調:標準
フジ ベルビア100F 色再現性:リアルカラー 彩度:超高 諧調:硬調
フジ ベルビア100 色再現性:イメージカラー 彩度:超極 諧調:硬調
フジ プロビア100F 色再現性:ナチュラルカラー 彩度:高 諧調:標準
フジ アスティア100F 色再現性:リアルカラー 彩度:標準 諧調:軟調
フジ トレビ100C 色再現性:ナチュラルカラー 彩度:高 諧調:標準
フジ センシア100III 色再現性:リアルカラー 彩度:標準 諧調:軟調
コダック エクタクローム E100VS カラーバランス:ニュートラル 彩度:大変高い 諧調:ビビッド?
コダック エクタクローム E200 カラーバランス:良好 彩度:中庸 諧調:つながりのよい美しい?
コダック エリートクローム 100 自然な発色と正確な描写力
コダック エリートクローム エクストラカラー 100 最高の色飽和度。めりはりの利いたあざやかな色再現
コダック エリートクローム 200 ひと絞り分のゆとり
なかなか文学的な表現ですね。フィルムは化学薬品ですし生ものでございますので、数値での比較はご遠慮願います、ということですね。デジタルと同じように考えてはいけません。いずれにしろ超軟調フィルムというのは存在せず、軟調のアスティアかセンシアを使うのがよさそうです。
2010.2.14 地中海と瀬戸内海
「古代大和朝廷」(宮崎市定著、筑摩叢書)を読んでいたら、青銅器や鉄器はエジプトやメソポタミアあたりから東へ東へと伝わり、最終的に東のターミナルである大阪湾に到着したのではないか、と書いてありました。
「古代大和朝廷」(宮崎市定著、筑摩叢書)から引用します。
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そして日本の地図を開いて見るとき、近畿地方は世界における西アジアのメソポタミア・シリア地方に相当する。もしも物資や智識の集積が行われるとすれば、それは近畿地方をおいて他にない。事実そういうことが起こっていたときに、大陸から金属器文化が渡ってきたので、そのまま近畿地方が外来文化輸入のターミナル基地に選ばれたのである。大和朝廷は近畿で地歩を固めると、すぐ各方面に向けて四道将軍を派遣した。四道へ将軍を派遣できるような位置は、日本中、どこを探しても近畿より他にない。だから日本の歴史は、大陸からの影響で展開したにも拘わらず、大陸に近い九州をさしおいて、大和平野を中心として始められたのである。
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そう言われると、瀬戸内海は地中海に似ており、難波の港はフェニキアに似ているような気もします。でも、地中海は日本海と東シナ海を合わせたくらいの大きさがあり、思ったより巨大です。瀬戸内海はボスポラス海峡とダーダネルス海峡の間にあるアルマラ海くらいの大きさですね。
造船に使える良質の吉野杉はレバノン杉に似ているそうです。そう言われる、吉野がレバノンに、難波がベイルートに、奈良がダマスカスに、上海がアテネに、ローマが西安に、ソウルがイスタンブールに、キプロス島が淡路島に、鎌倉がバグダッドに見えてきました。
2010.2.13 ニエプス兄弟(18) 契約
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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彼らは提携の暫定的な契約に署名する。契約書は一六の条項から成り立っているが、次のように明記されている。<<ニエプス氏は暗箱で形成される像を瞬間的に再生する方法を発見した。ダゲール氏はその価値を高く評価し、改良に寄与するために協力し、この仕事から可能な限りの利益を引き出すために提携することをニエプス氏に申し出た。>> 十二月にシャロンで署名された契約書は1830年5月13日、シャロンで登記される。
提携期間として10年が規定された。曖昧さのない契約書である。最重要の発明者はニエプス氏なのだ。法律に守られて、彼は自分の発明の説明をレジオンドヌール受勲者ジャック=ルイ=マンデ・ダゲールに渡すことができる。
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ついに契約ができます。ニセフォール・ニエプスが写真の発明者で、ダゲールがこれを改良し商品化するという内容です。ニセフォールは息子に資産管理をまかせて、再びシャロンで写真の研究に専念します。パリのダゲールとは暗号を使った手紙で情報交換をします。しかし、1833年7月5日の午後にニセフォール・ニエプスは自宅で倒れ、妻アニェスに見守られながら夕刻7時に息を引き取ります。享年68歳。フランス学士院でダゲレオタイプが発表される5年半ほど前のことでした。
この本を読んでニエプス兄弟が身近に感じられました。ニセフォール・ニエプスの写真に対する情熱が、うまくダゲールに引き継がれたのは幸運であったと感じました。ここから先は、一般の写真の本に描かれていますので、ニエプス兄弟シリーズはひとまずこれにて終了とさせて頂きます。
2010.2.12 ニエプス兄弟(17) 兄発狂
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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「何か月も前から僕は医者に門前払いをくわしている。だが、君のために今日は迎え入れることにしよう。僕が狂人ではないからだよ。君に書いたように、ピレオロフォールにはいささかの重要性もない。僕はもっとすぐれたものを発見した」 彼は秘密を打ち明けるために声を落とす。 「永久機関を再び構想している。驚異的なことじゃないかね? 僕は燃料というものをなくしてしまうんだ・・・・・」
ニセフォールが遮る。
「兄さんはまさかその常軌を逸した考えを繰り返してはいないだろうね? 十五歳のころはいいさ、だが・・・・・」
「常軌を逸した? それほどじゃないさ。ここ英国では、ユートピアさえ奨励されている。永久機関を始動させる者は二万五〇〇〇リーブルを獲得する。二万五〇〇〇リーブルだ。この僕にはわかっているんだ・・・・・僕は世界中を驚嘆させるのさ」
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兄クロードが英国で取りつかれていた重い病は、どうやら永久機関だったようです。1828年2月、ニセフォール夫妻が荒れ狂う真冬の英仏海峡を渡りパリまで戻ったところで、兄クロードの訃報が届きます。
2010.2.11 ニエプス兄弟(16) 共同開発
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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「暗箱で受け取った像を描く代わりに、固定することが可能であれば、時間の節約や、過ちのなさなど、その利点はおわかりいただけましょう」
ニセフォールは彼の<眺め>のことを考える。
「私はその問題の解決法を手中にしていると思います」
「夫は手にしておりますわ、ダゲールさん、手中にしておりますとも」 夫が誇らしいアニェスはこの心からの声を抑えることができなかった。ニセフォールは付け加える。
「幸いなことに。と申しますのは、私は残念ながら、素描が得意ではありませんから」
「それでは、あなたは真実、可能なことだとお考えになるのですか? われわれはまたお会いしなければなりませんな。私の実験室をどうぞお訪ねください。お互いの考えを突きあわせることができましょう。共同で立派な仕事ができるかもしれませんな」 そしてニセフォールが返答する前に、ダゲールが言葉を継いだ。
「とにかく、夜食にご招待いたします。どうかご承知ください。私にとりまして光栄なことです。われわれはお話することがたくさんありますから」
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この時点(1827年)でニエプスが写真の撮影に成功してからすでに11年がたっていますが、ダゲールはまだ成功しておらず、かなりの技術力の差があったようです。ダゲールはニエプスの秘密が知りたくてしょうがありません。パノラマ館に使う大きな絵や、芝居の舞台の大きな描き割りの絵を描くのが大変なのです。最初は乗り気ではなかったニエプスですが、ダゲールの勢いに押されて、結局共同開発に同意することになります。
2010.2.10 ニエプス兄弟(15) パノラマ館
シャロンからロンドンに行くためには、まずパリに出て旅券を取らなければなりません。旅券の発行に思いのほか時間がかかり、ニエプス夫妻はしばらくパリに止まることになりました。ニセフォールはあまり気が進みませんでしたが、以前から手紙のやりとりがあったダゲールに会うことにしました。ダゲールにヘリオグラフィーの秘密を聞かれるのがいやだったのですが、シュバリエの店で名乗ってしまった以上しかたがありません。ダゲールはニエプスから写真の秘密を聞き出すにはまず親しくならなければと考え、自分のパノラマ館やジオラマ館を案内し、カフェ・ド・パリでの夕食に招待します。
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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だが、ジオラマ館はさらに二人を驚嘆させることになる。ニセフォールは息子に書くことを忘れない。<<ここで目にしたものの中でジオラマ館ほど私を驚かせ、また、喜ばせたものはない。ダゲール氏に案内してもらった。館内に展示されている見事な絵を気のすむまでゆっくり眺めることができた。ブトン氏の手になるローマのサン=ピエトロ大聖堂の内部は確かに称賛に値するものだし、完全な錯覚を生みだ出す。だが、ダゲール氏の描いた二つの眺めに勝るものはないよ。一つは月明りの夜、火に包まれたエジンバラの眺めであり、もう一方はスイスの村の眺めだった。>>
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ダゲールのパノラマ館がいったいどのようなものだったのか、やっと分かりました。要するに大きな絵であるわけですが、展示方法を工夫して、あたかもサン=ピエトロ大聖堂の中や、スイスの村の中にいるような錯覚を起こさせるものでした。別の言い方をすれば、背景画や大道具でリアルに再現したオペラの舞台に観客を上げる興業かもしれません。当時は交通機関が馬車か川船しかありませんので、普通の人はローマやスイスに行くことはできませんでした。また写真も映画もない時代ですから、遠くに行った気分になるためには、お金を払って大きな絵を見る以外に方法はありませんでした。
2010.2.9 ニエプス兄弟(14) イジドール結婚
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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1825年1月22日、イジドール・ニエプスはウジェニー・ド・シャンマルタンと結婚。つまるところ、てきぱきと運ばれた一件であったが、きわめて幸せなことに、それは恋愛結婚でもあった。ウジェニーは美しい。イジドールは魅力的である-----共通の趣味、音楽愛好家としてぴったり息が合った。両方の家族は若い夫婦を手本として、仲良く暮らすことを決意した・・・・・・。
友人や知人や、ニエプス兄弟の才能に疑いを抱き始めている人々にとって、ド・シャンマルタン家の名は保証であり、新たな輝きをもたらすものであった。名誉と財産。ウジェニーの持参金は八万フランである、そして、ニセフォールが手紙で伝えた通り、一人娘のため、さらに相当の遺産相続の見込みがあった。
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フランス政府が写真の特許をダゲールから買い上げ、ダゲールに支払った年金の合計金額が八万四千フランですから、ウジェニーの持参金がいかに膨大だったかが分かります。今のお金でだいたい8,000万円くらいだったと推測します。しかし、兄クロードがロンドンの造船所建設に投じた金額は、とてもこんなものでは済まなかったようです。ド・シャンマルタン夫妻や親戚や支持者や債権者たちはこぞってクロードを探し出すようせきたてます。こうして、ニセフォールはアニェスとともにロンドンに向かいます。
2010.2.8 ニエプス兄弟(13) 永久機関
1817年3月27日、アンドリエル船長が指揮する蒸気船エリーズ号がイギリスのロンドン橋を出発して、英国王立海軍の妨害を振り切り、嵐を乗り切り、故障を修理し、17時間後にフランスに到達します。セーヌ川をさかのぼり、コンコルド橋に到着した時、21発の祝砲が響き渡り、ルイ十八世が拍手喝采を送ります。これを見た兄クロード・ニエプスは、イギリスに行くことを決意します。産業革命が進み、スチーブンソンの蒸気機関車が走る英国であれば、内燃機関の研究が進むと考えたためです。
そして1824年、イギリスの兄クロードから、ニセフォールに重要な知らせが届きます。「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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クロードはついに大ニュースを伝える。きわめて重要な知らせであった。彼はまさしく永久機関の謎を解いた。兄弟がサン=ルーで解明しようと努めた問題が解決された、という。クロードは断言する、実験で実証されたと。彼は永久機関を応用する-----その往復運動はピレオロフォールの動力源となろう-----燃料で頭を悩ます必要はもうないのだ。
喜び、驚嘆してニセフォールは祝福する。そして<<兄さんに雄鶏を>>と書き送る。彼はしばしばある種のユーモアを発揮するが、この場合<雄鶏>はこのときまで実現不可能とされてきたかの永久機関の仕組みを発見する者に英国政府が約束したすばらしい褒章であった。
安堵して、ニセフォールは新たな資金探しに奔走した。永久機関は経済的であるという利点があるが、クロードがその応用を立証するには、財政的支援が必要であった。抵当貸付という保証のもとに、コスト親子は再度、気前のよさを見せる!
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当時、奇妙な発明を夢見る人々は皆狂人扱いだったようですので、兄クロードもそのひとりだったと言えます。幸運に恵まれた人だけが、狂人から発明王に昇格し、後世に名を残すことになります。
2010.2.7 ニエプス兄弟(12) 化学物質
19世紀初頭、フランスの上流社会では、科学が最新の娯楽としてもてはやされたようです。コークス製鉄法の開発、石炭化学の進展などにより、利用できる化学物質が一気に増えた時代でもあります。
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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塩素ガス、炭酸ガス、水素、等々、彼は試せるものは一つ残らず試してみる。支持体としては紙(1816年)、石、ガラス(1817年)、錫(1826年)、銀張り(1829年)。彼は支持体の表面に多様な物質、光に敏感であることがわかっているあらゆる物質で覆ってみる、そしてついに・・・・・<ユダヤ地方の瀝青>に到着する。
思いがけないことであった。1816年に彼はアン県のセセルで土瀝青の源を発見した。彼が原動機のために探していたものを・・・・・写真のために見出した。瀝青は日光にさらされると白くなる性質を持っている。ニセフォールはこの特性を利用して陽画を手に入れる。ついに暗箱のすりガラス上に観察される像が印画の上に固定される。実物を正確な遠近法で、唯一の真の姿で忠実に再現している像である。
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化学物質の種類が爆発的に増えたとはいえ、だれでも入手できたわけではありません。ニエプスには有利な条件が揃っていたようです。
・幼い頃に読んだ空想科学小説に触発された写真の発明に対する情熱
・兄クロードとの内燃機関開発における実践的な化学の知識
・実験に必要な機材を買える財力、あるいは資産管理能力の欠如
・最先端の化学物質を保有しているフランス軍とのコネクション
・カルノー大臣などフランス政府とのコネクション
2010.2.6 ニエプス兄弟(11) 絞り
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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五月二十八日付、<<穴をあけたボール紙の円盤を用いてレンズの直径を小さくするという非常に単純な方法を使います。箱の内部が暗くなれば、画像はいっそう鮮明になりますから(.....)>>
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1816年5月28日、ニセフォール・ニエプスは兄クロードにこのような手紙を出しています。絞りは、写真発明の時点で既に使われていたようです。露光時間は快晴の日中で8時間ですから、シャッターは全く必要ありません。ちなみに、この時は顕微鏡のレンズを使っていたようです。
2010.2.5 ニエプス兄弟(10) ヘリオグラフィー
1816年5月、ニセフォール・ニエプス51歳の時、ついにヘリオグラフィーの実験に成功し、写真の発明を成し遂げました。「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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彼はついに成功した。辛抱強く、目的に到達した。そしてこの成功は片時たりとも忘れたことのない兄から離れたことでなしとげられた。ほとんど震えながら、彼は出現した像を見つめる。
映像の狩人の先駆者となった彼は吸い取り紙の上に陰画を注意深く載せた。机に向かって、彼は中断していた手紙を再び書き始める。今や確実な結果を手にしている。彼は時をおかず、喜びを伝えようと思う。
1816年5月29日付け
<<愛する兄さん、僕の目的は達成されたと思います。つまり視野に入るものを瞬間的に再現することです。兄さんが僕の研究の進展をたどることができるよう二枚の印画を同封しましょう。僕が仕事をしている部屋の窓からとったものです。鳩小屋、鳥小屋、それから不鮮明ではあるものの、もうすぐ白い実をつける大きなバター梨の木に見覚えがあるでしょう。(・・・・・)この方法は芸術に有用であり、大いに活用できることを確信しています。
八時間露光して、僕の最初の<網膜>をついに手に入れたのです。この種の再現は魔法にも似ています>>
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ニセフォール・ニエプスがパリの兄クロードに送った手紙が残っているため、写真発明の詳細な経過が分かるそうです。
2010.2.4 ニエプス兄弟(9) 借金
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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ニエプス家の経済的状況は次第に厳しくなっていく。弟が兄たちのために惜しまなかった助言や管理能力が二人には恐ろしいほど欠如している。彼らは身を守る術を知らないままに、占領の不幸に見舞われる。三人の男の子、イジドールと異父兄弟のアントワーヌとヴィクトルのための経費。彼らの俸給はその出費を賄うのに十分ではない。さらに、家畜を大量に殺す恐ろしい動物伝染病の上に、収穫を全滅させる天候の不順や凍結、洪水がある。1814年、ニセフォールは最初の借金を余儀なくされた。
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アントワーヌとヴィクトルは妻アニェスの連れ子。ナポレオンが戦争に敗れると不動産が敵軍(多分オーストリアかプロシア軍)に徴用されて収入が減ったにもかかわらず、兄クロードや息子イジドールは浪費をやめないのでした。ニセフォールはパリに行ってしまった兄クロードの資産の管理や、借金の手配などに追われながらも、写真の研究を続けます。
2010.2.3 ニエプス兄弟(8) 内燃機関ピレオロフォール
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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驚嘆すべきことに、船は断続音と発している原動機---次第に規則的になっていく音をたてて稼働しているピレオロフォールで少しずつ加速されて、遠ざかっていく。大きな爆発音が引きつけた物見高い見物人の間に驚愕が広がる。両岸に大勢押しかけて、この船が流れに逆らって上流サン=ヴァンサン門の方に航行するのを目撃する。
イジドールは、二つの水車の間にある橋弧の下を巧みに進み、やがて半回転し、加速された速度で出発地点に戻ってくる大きなおもちゃに拍手喝采する。
歓喜があふれる。実験は誰の目にも明らかだ。ニエプス兄弟は成功した。人々は拍手を送り、二人を抱擁し、祝福する。
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ピレオロフォールはヒカゲノカズラという植物から抽出した粉末火薬を燃料として用います。この火薬は劇場で雷などの効果を出すためにしようされていたようです。粉末火薬と空気を混ぜてバーナーの炎で点火し、ピストンを動かしたようですので、まさに内燃機関ですね。推進力は、ピストンで圧縮した空気で筒に入った水を押し出すパルス・ジェット方式。外輪船よりは効率がよさそうです。兄クロードはこの船を作るために、海軍で造船を学びました。ニセフォールは軍隊をやめた後も、コネをつかって軍の物資である化学薬品を分けてもらっていたようです。
実験成功の後、すぐに特許資料を作成し、パリに向かいます。1806年11月9日、内務大臣カルノー氏にあてた書簡を添えてピレオロフォールの特許を提出。同年12月15日、フランス学士院で内務大臣カルノーがピレオロフォールの報告書を朗読。(カルノー大臣は1807年に政界を一旦引退しますので、その直前です) 翌年1月15日、工芸諮問局は特許を許可します。いよいよ、ピレオロフォールを実用化する段階に入りますが、うまく進みません。
2010.2.2 ニエプス兄弟(7) ブルゴーニュ
「写真の発明者 ニエプスとその時代」(オデット・ジョワイユー著、持田明子訳、パピルス)から引用します。
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出産を控えて過ごした最後の数週間は再会した夫婦にとって満ち足りたものであった。ニセフォールは領地や耕地、小作地を妻に案内することに専念した。二人連れだって小作人を訪ねたり、葡萄農夫たちが赤々と輝く景色の中で忙しく葡萄を摘んでいる畑を散策した。葡萄畑の丘の下をソーヌ河が広大な流域に広がるようにゆったりと流れている。アニェスにとっては、なじみのある地中海の青色をしていない水。紺碧の中にくっきりと浮かぶアルプス山脈の切り立った斜面とはまるで異なった丘。だが、アニェスはブルゴーニュを愛情の目で見つめる。そして美しいと思う。
イジドールは八歳になった。両親は、サン=ロックの教会の墓地に眠っている亡きアジェノール坊やのために、イジドールに倍の愛情を注ぐ。
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この頃のニエプスはまだ裕福で、お金の心配をする必要はなかったようです。ブルゴーニュの美しい環境の中で兄クロードと一緒に内燃機関<ピレオロフォール>の開発に力を注ぎます。しかし、二男アジェノールの死後に生まれた三男アメデオも亡くし、さらには弁護士である弟ベルナールも亡くします。資産を管理していた弟ベルナールが亡くなったことにより、兄クロードとニセフォールは技術開発にのために過大な資金を投入することになります。
2010.2.1 近江(9) 千日回峰行
比叡山延暦寺では「千日回峰行」という荒行が行われているそうです。一日30kmから84km山中を歩きます。それを8年かけて千日行います。途中七百日が終わったところで、「堂入り」というすさまじい修行に突入します。九日間にわたる断食、断水、不眠、不臥という命がけの荒行です。
「百寺巡礼 第四巻 滋賀・東海」(五木寛之著、講談社)から引用します。
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まず、千日回峰行の目的についてうかがった。基本的には比叡山三塔、すなわち東塔、西塔、横川の三つの地区をお参りし、その足で尾根道伝いに山をおりて、日吉大社にお参りするという。反対側には八王子山という山があり、日吉大社の奥の院になっている。その八王子のほうにもおりていってお参りし、されに下におりて東本宮、西本宮というすべての社殿をお参りしてから山上に帰る。
驚いたことに、神様をお参りするのも目的だというのだ。日吉大社は比叡山の氏神である。これは、神仏習合を考える上ではたいへん興味深い。
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日吉大社を訪れたとき、比叡山と関係があるようなことが書いてあったのを覚えています。お坊さんが修行のために神社にお参りするというのは、至って普通のことのようです。