EOS10D日記その42 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---
2011.7.9 CINE-UNILITE 1.9/150mm改造
ペンタックス67のヘリコイドチューブの内側を削ると、何とかCINE-UNILITE
1.9/150mmが組み込めることが判明。ただし、ビスと打つ余地はありません。やむをえず接着剤のみで接着。幸い内径がぴったり合っている上に、接着面が割と広いので、特に問題なさそうです。
ただ、レンズの塗装が接着剤の溶剤に溶けるようで、はみ出した接着剤で少し汚くなってしまったのが残念。まあ、接着剤不足でレンズが落下するよりはましでしょう。
改造費用はゼロ円。ただし、このヘリコイドがCINE-UNILITE専用となりましたので、、もう一個調達せねばなりません。
2011.7.7 CINE-UNILITE 1.9/150mm
WRAY LONDON No 71333 150mm CINE-UNILITE f:1.9
3年ほど前から探していたWRAYのUNILITE/CINE-UNILITEがやっと見つかりました。
http://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body21.htm#071008
http://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body25.htm#080619
http://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body26.htm#080911
WrayFlex用のUNILITE F2/50mmが有名ですが、それ以外では中将姫光学さんから借りているCINE-UNILITE F2/35mmしか見たことがありません。
CINE-UNILITE F1.9に関して、Vade mecumには25, 35, 50, 70, 100mmがあったと書いてあり、COXは25-120mmと書いていますが、今回のは150mmです。もしかしたら他の型のプロジェクタレンズに名前だけCINE-UNILITEと書いたのではないかと、恐る恐る入札ました。
届いてみると、特許番号が書いてあります。これはまぎれもなく1944のCINE-UNILITE
F1.9の英国における特許番号です。キングズレークの本に特許番号が書いてあるので助かります。分解するまでもなく、シネ・ユニライト型のレンズです。
無いと思っていた絞りがついていました。プロジェクタ用ではなく、幸運にも撮影用のレンズのようです。
20枚絞りですね。
マウント金具を思い切りねじると、分解できました。バックフォーカスは非常に短く、この金具が外せないとEOSでは無限が来ません。
後玉を分解することができました。一番後ろの両凸レンズがかなり黄色いです。
第三群が厚いメニスカス単レンズなのがCINE-UNILITE 1.9の特徴です。バックフォーカスが短く、既存のペンタ67ヘリコイドを使うことはできません。ペンタ67のヘリコイドを使って、専用のアダプタを製作すれば、なんとか無限が出そうです。
暫定マウントで試写してみたところ、すばらしくシャープな写りでした。
2011.6.30 イザナギノミコト桃を投げて雷を追い払う
最近、岩波文庫の日本書紀を読んでいます。古事記より説明が具体的で読みやすいのですが、その分、日誌に書くほどの派手なお話はなく、地味です。古事記のように意味不明の説話ではなく、「一書に曰く」(あるふみにいわく)。。。「一書に曰く」。。。「一に云わく」(あるにいわく)。。。と多数の文献からの引用形式をとります。素人にも分かりやすい分、インパクトに欠けるわけです。
イザナミノミコトが亡くなると、イザナギノミコオtは後を追って死後の世界まで追いかけます。一書に曰く、最初は普通に話していたイザナミノミコトですが、急に暗くなり何も見えなくなります。次に火をともして見たと時にはイザナミノミコトはふくれあがっており、入道雲のように大きくなっています。驚いて逃げ帰るイザナギノミコトを雷が追いかけます。道端にあった大きな桃の木から桃の実と取って雷に投げつけると、雷は退散します。此桃を用いて鬼を避く縁(ことのもと)なり。桃太郎のお話の元になったものと思われます。
2011.6.11 ksmt非業務日誌 (随時更新)
2003年7月に書き始めた10D日誌ですが、約8年が経過し、記事数1809に達しています。平均すると1.6日に一回更新していることになります。時々ではありますが、熱心な読者の方からの反響もあり、感謝しています。しかし、読者が増える気配もなく、更新のペースも落ちてきています。元々はCanon EOS 10Dに関する日誌だったので10D日誌と名付けたのですが、今では陳腐な名前ですね。それに、トップページから見つけにくいのも良くないと思い、名前を変えて、トップページから入りやすくしました。
新しい名前は、ksmt非業務日誌 (随時更新)。 まったく垢抜けない名前ですが、当面これで行きます。いい名前を思いついたら再度変更します。内容は10D日誌と全く同じで、単なるトップページにレイアウト変更です。
励ましの言葉などがありましたら、掲示板にお願いします。だいたい掲示板というのが古臭いのですが、まあこれで十分役に立っていますので、日誌とともにあと30年ぐらいは続けたいものです。
2011.6.10 Xenon f2/5cm + NEX-3
Xenon f2/5cmを買った時には、カメラマウントが不明でした。約40mmのスクリューマウントで、フランジバックが多分42mmくらいですので、その後の調べでPlaktiflex用だろうということになりました。Praktiflex用のM40x1マウントには、多数のレンズあったようです。
3. Die Wechseloptiken mit Praktiflex-M40x1-Anschluss (Auflagema? 44,0mm)
Berthiot Paris: Flor 3,5/4 cm, Flor 2,8/5 cm, Flor 1,5/5,5 cm, Flor 3,5/10
cm, Tele 4,5/14,5 cm
Laack, Rathenow:: Dialytar 3,5/5 cm
Ludwig, Weixdorf:, Victar 3,5/5 cm, Anastigmat Victar 2,9/5 cm, Victar
2,9/5 cm
Meyer Goerlitz: Helioplan 4,5/40 mm
Oude, Delft: Delfinon 2,8/5 cm
Schneider, Kreuznach:: Xenar 3,5/5 cm, Xenar 2,8/5 cm, Xenon 2/5 cm, Xenar
4,5/10,5 cm
Zeiss, Jena:: Tessar 3,5/5 cm, Tessar 2,8/5 cm, Biotar 2/5,8 cm, Triotar
4/8,5 cm, Triotar 4/13,5 cm, Tele Tessar 6,3/25 cm
"no-name“-Optiken:: Praktiflex Anastigmat 3,5/5 cm, Praktiflex Anastigmat
2,9/5 cm, Praktiflex Anastigmat 2,8/5 cm
Xenon f2/5cmはFlor 1.5/5.5cmに次ぐ明るさです。残念ながらEOSではレンズと衝突して無限遠が出ず、近接専用となっていました。NEX-3/EOSアダプタを製作した時、わざと2mmほどオーバーインフにしたのは、このレンズを使うためです。
このレンズは前群分離型のダブルガウスで、ズミクロン F2/90mmに似た設計です。シュナイダー社の年表を見ると、1940年頃の製造だと分かります。Praktiflexは1939年から1949年まで59,716台製造されたそうですので、このレンズの製造年代と一致します。
この生産台数ですと、マウントアダプタが市販されることはなさそうです。
2011.6.5 Hexar Ser.II F3.5/15cm
Rokuoh-sha Tokyo No. 3140 Hexar Ser. II 1:3.5 f=15cm
戦前のレンズですが、製造年ははっきり分かりません。六櫻社のレンズについては、以下のページfにまとまった資料があります。
R.KONISHI ROKUOH−SHA
六櫻社の鏡玉
毛利広雄氏研究によるレンズ
ヘキサーシリーズU
昭和12年から15年頃に製造されたものだと推測します。
ペンタ67のボディーキャップに取り付けられていました。今まで知らなかったのですが、ペンタ67のボディーキャップはロックが効くため、誤って脱落することがありません。加工が楽なのでいいですね。
ボディーキャップに穴をあけて、裏からフランジ金具で締めてあります、
なかなかクラシックな感じの真鍮鏡胴です。
前玉とはずすと、スクリューの部分は削った当時の美しさを保っています。
曇り玉だと書いてありましたが、アルコールfで拭くと、きれいになりました。
後玉は2枚貼り合わせです。真ん中の小さい点が貼り合わせ面からの反射です。
ペンタ67のヘリコイドにそのまま取り付けることができます。全く加工なしで無限遠が出ています。来週にでも試写したいと思います。
2011.5.28 EOS-Mアダプタ製作
EOS用のレンズをライカMマウントに変換するアダプタを製作しました。これとライカM-ソニーEマウントアダプタと組み合わせることにより、EOSのレンズをNEX-3で使うことができます。つまり、うちにあるレンズはほぼ全てNEX-3で使用できます。
EOSマウント側。市販の中間リングです。
Mマウント側。EOSの金具を取り外して、LMリングをボンドで接着しています。黒いフェルトで内貼りをし、補強兼反射防止。
ケンコーの12mmの中間リングを少し削り、適当な座金を介してLMリングを接着しています。いいかげんなものですが、内貼りの補強が強力で問題ありません。
Dallmeyer Speed Anastigmat 1.5/3"を取り付けたところ。このレンズはニコンFマウントなので、ニコンF−EOS−ライカM−ソニーEという4つのカメラマウントが3個もアダプタで接続されています。
EOSとライカMマウントのフランジバックの差は44-27.8=16.2mmです。しかしこのアダプタは13mmほどしかなく、かなりオーバーインフです。これによりEOSで無限遠の出せないレンズでも、NEX-3でなら無限が出る可能性が生まれます。もちろん広角レンズでは問題がありますが、私の使う75mm以上の望遠レンズでは繰り出し量が大きいため全く問題になりません。
このアダプタの特長は手持ちの部品を使うためタダであることです。これで同じレンズをEOSとNEX-3の2台のカメラで使うことができ、カメラの違いを理解するのに役立ちます。
2011.5.24 GUNDLACH ULTRASTIGMAT 1.9/50mm
ULTRASTIGMAT F:1.9 SER.I 50mm GUNDLACH-MANHATTAN OPT.CO. ROCHESTER.N.Y
「トリプレットをさらに明るくする良い方法は、前群の空気間隔のところに凸のメニスカス・エレメントを入れることである。最初にこの案を出したのはチャールズ・C・マイナー(Charles
C. Minor)というシカゴの光学者らしい。1916年、彼はこの形式の4枚玉レンズの特許を取り、ガンドラックが、プロ用シネカメラ向けに焦点距離40mm,
50mm, 75mm F1.9ウルトラスチグマット(Ultrastigmat)として、製造した。」(写真レンズの歴史 ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマから引用)
この三年後の1919年になって、エルネマンのベルテレがこの型を研究し、前玉を貼り合わせに替えることにより、エルノスターレンズを開発します。このレンズには
PAT. NOV. 30 1920 と刻印されていますので、ドイツに対抗する新特許なのかもしれません。エルノスターの製造が始まるのは1923年からですから、この特許を回避するため、何らかの変更が行われたかもしれません。エルノスターが一躍有名になったのに比べ、先に特許を取ったUltrastigmatはさっぱり有名にはなりませんでした。
2011.5.23 Askania-Kino-Anastigmat 1.8/50mm
Askania-Kino-Anastigmat 1:1.8 f=50 Nr. 509052 R
アスカニアの映画撮影用カメラのレンズであると思いますが、レンズ構成などの詳細は不明です。スペックからアストロのF1.8 Tacharではないかと想像できますが、定かではありません。
2011.5.22 WRAY CINE-UNILITE f.2 35mm
WRAY LONDON No231976 35mm CINE-UNILITE f.2
「レイ(Wray)に入社間もない1944年に、C.G.ワイン(C.G. Wynne)はダブルガウス型の後群の凹のダブレットを分割し、その凹エレメントにベンディングを加え、絞りに向かって凹の深いメニスカスにすることにより、分割した凸エレメントが不要になると考えた。この案を用いて彼は3本の優れたレンズを設計した。F2ユニライト(Unilite)、F1.9シネ・ユニライト(Cine
Unilite)、倍率1:4のF1 CRTレンズがそれである。」 (写真レンズの歴史 ルドルフ・キングズレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマから引用)
この型は、クセノターやビオメターの型と良く似ているのですが、明るいレンズを実現しており、独自のUnlite型と考えられます。残念ながらUniliteが有名になることはなく、WrayflexについていたUnilite
F2/50mm以外はほとんど見ることができません。CINE-UNILITE F2はこれ以外に見たことがない希少なものであり、テストが楽しみです。
2011.5.21 Sony NEX-3借用
以前からSony NEX-3を買おうかと思案していたのですが、中将姫光学さんのご厚意で借用することができましたので、しばらくテストします。同時に、以前から欲しかった3本の歴史的なレンズもマウントアダプタ付きで借用。
WRAY LONDON No231976 35mm CINE-UNILITE f.2 (Lower Left)
ULTRASTIGMAT F:1.9 SER.I 50mm GUNDLACH-MANHATTAN OPT.CO. ROCHESTER.N.Y (Lower
Right)
Askania-Kino-Anastigmat 1:1.8 f=50 Nr. 509052 R (Upper Right)
i以前から使ってみたかったけれども、ライカを持っていないので使えなかったレンズばかりです。
2011.5.14 ERNOSTAR 2/10cm 2本目
Ernemann Anastigmat "ERNOSTAR" 1:2 f=10cm 151058 D.R.P
先日バルサムを貼り直したエルノスター2/10cmは、購入時の輝きを取り戻しました。しかし、1.8/10.5cmに比べると少しコントラストが低い感じです。購入時から画面全体に薄いベイリンググレアが出ていたのですが、それは今でも同じで、多分この個体の第三群に中途半端にコーティングかかかっているせいだと思います。そこで、もう一本同じエルノスター2/10cmを入手し、試してみることにしました。
光学系はきれいで、あまり使われていない感じです。未改造で、単にエルマノックスから取り外しただけのようです。
刻印もきれいです。
後玉にもシリアルナンバーの刻印があります。
シリアルナンバーは26番しか違いませんので、同じロットだと思われます。これら以外のErnostar
2/10mmのシリアルナンバーもほとんど同じで、一時に集中して製造されたようです。
左が以前買ったニコンFマウントに改造済みのもの。金属部分が相当切り取られています。こうしないとニコンFカウントでは無限遠が出ません。右側は今回入手した未改造のもの。EOSマウント改造のため、ほんの少しだけ削りました。
右が今回作った金具。EOSマウントなので、少し余裕があります。
元は金属製のフードで、適当に切断して長さを調整しています。マウント金具を接着剤で貼り合わせ、内側に黒い布を貼って補強しています。ビスを打たない分、無限遠を出すのが楽になります。
内側にスペーサーとして革を貼り、レンズの外径とぴったり合わせています。誤ってレンズを斜めに取り付けることを防いでいます。
外にも化粧革を貼り、最後にビスを3本打って完成です。革貼りは手軽で楽しい作業です。
革は滑り止めの効果もあります。手が滑ってレンズを落下させる危険性が少し減るような気がします。
このヘリコイドは単純ですが、良く伸びます。最初は硬かったのですが、ミシン油で古いグリースを落とすと軽くなりました。
左は改造済みで買ったニコンFマウントにEOSアダプタを取り付けたところ。右は今回EOSマウントに改造したもの。
黄色と緑の革でキャップを作成。新旧のエルノスターはキャップの色で見分けます。棚にしまってあるレンズを取りだす時、一目瞭然です。バッグの中から取りだす時にも有効です。
レンズか伸びるので、マクロ撮影もできます。1/3倍くらいまではいけます。
ピクセル等倍で切りだし。なかなかシャープです。
2011.5.8 木津川から平城宮へ
藤原京や平城京の建設に際し、近江の田上山の檜が使われたそうです。田上山で伐採sあれた檜の大木は、大戸川で筏に組み、瀬田川、宇治川を下り、大池(小椋池)に至ります。さらに、木津川を遡り平城宮に運ばれたものと思われます。木津川と平城宮の間には県境があるため遠いと思っていたのですが、良く地図を見ると近い。距離わずか5kmほどで、高低差は40mほど。これを確かめるべく、近鉄の大和西大寺駅で自転車を借りて、まず平城宮跡に立ち寄り、「せんとくん」のショーを見学。その後、歌姫街道を北上しました。行きは一方的な下りですので、あっというまに木津川の支流である山松川に到着。確かに近いです。現在の歌姫街道には一カ所だけ急な傾斜の所があり、自転車を押して上がる必要がありましたが、材木を引き上げるのであれば、もう少し傾斜の緩やかなルートがあるはずです。平城京の位置は木津川の水運を利用するのに適していると言えます。
大和川は亀の瀬の地すべりがありますので水運には適さず、吉野川は藤原京からでさえあまりに遠く、唯一木津川だけが利用可能だったと思われます。瀬戸内海方面や北陸方面から運び込まれる物資の増大に対応した場所に平城宮が作られたのだと思います。水運の便が良くなったということは、瀬戸内海からの水軍の攻撃には弱くなったということです。中国や朝鮮の水軍が、平城宮からわずか5kmのところまで来られるのです。これはやはり唐や朝鮮半島との友好関係に自信があったとためだと考えられます。
大和西大寺駅で自転車を借りたのが午後2時で、午後6時までに返却する必要がありました。木津川まで行ってきますというと係員の肩に言うと、木津川はあまりに遠いのでやめた方が良い、と言われました。地元の人でも木津川は遠いと思っているようですので、我々が遠いと勘違いするのは当然のことだと思いました。
2011.5.7 バルサム貼り直し
3本ほどバルサム剥離しているレンズがあるので貼り直し。
武井薬局から通販でカナダバルサムを取り寄せ。昭和化学製で25グラム、1,050円也。それと近所の薬局で無水エタノール500ml,
1,300円くらいを購入。これは大きすぎて使いにくいし、多分税金のせいで値段が高いのですが、無水エタノールはこれしか売っていないのでやむを得ないです。後で小さなスプレーに入った消毒用アルコールで試してみたのですが、レンズ清掃用ならこれが使いやすいですね。ちなみに無水エタノールは99.5%くらい、消毒用アルコールは72.3%くらいで、エタノールの濃度が違うだけです。
バルサムは20度くらいだと水飴のような硬さです。
カナダバルサムをエタノールで5倍くらいに希釈すると使いやすいという説をWebで見たのですが、実際にはうまく溶けません。一日たっても白濁しており、これが使えるとはとても思えません。
そこで、普通にレンズとバルサムを温めて貼ることにしました。まあ、摂氏100度くらいに温まるものなら何でもいいのですが、今回はアイロンを使用。万力でアイロンを上下逆さまに固定して、その上にお菓子の缶を置いて完成。最初ホットプレートを使おうかと思ったのですが、後で家族から苦情が出そうなので、無難なアイロンにしました。缶の中にレンズを入れて、缶のふたをして、アイロンの温度を設定すれば、簡単に希望の温度が維持されます。
次に、バルサムが一部剥離したレンズを完全に分離します。Webでは有機溶媒に浸すとか、お湯で煮るとか、無理やり剥がしてはいけないとか書いてありますが、実際にやってみると、まったく剥がれる気配がありません。
最も簡単なのは、木槌で軽く叩くことです。レンズを木槌で叩いたのが元で剥離したわけですから、もう少し叩けば分離することは明らかです。剥離している部分と、まだ剥離していない部分の境目を木槌で叩くと、分離がどんどん広がり、あっというまに分離できました。
次に、分離したレンズから古いバルサムを取り除きます。以前ベンジンでバルサムが良く落ちたので、今回もベンジンを使いましたが、一部全く落ちない部分がありました。この部分は以前から分離しており変質しているためと思われます。アルコールで拭けば簡単に落ちました。どうやら同じバルサムでもベンジンに溶けやすい状態と、アルコールに溶けやすい状態があるようです。
さて、レンズが温まったので、バルサムを付けます。暖かいレンズに触れると溶けますので、簡単です。この際、必ず凹面に落として下さい。当たり前ですが、凸面だと流れます。
このバルサムの量は少し多すぎます。後でべたべたして大変ですが、まあ最初は多めの方がいいでしょう。
上に凸レンズを乗せると、ぱっと広がります。この後手でギュッと押せば完成。気泡を押し出す必要はありませんでした。100度くらいのレンズは素手で触っても特に問題ありません。きれいな手袋があればベストですが、なければ薄い布で良いようです。実際問題として、清潔なボロ布がベストだと思います。手袋だとはみ出したバルサムが着くと使いにくくなりますし、ティッシュだとバルサム糊でレンズに貼りついてしまいますので。
バルサムはなかなか固まりません。冷えてからも上下のレンズが自然にずれます。一日たってもまだずれます。貼り合わせ位置の修正時間はたっぷりあります。ずれるのをを防ぐために、金属枠に入れて冷却しました。
貼り合わせの終了したErnostar F2/100mm。張り合わせレンズを2枚とも前群において、レンズ全体を分解しなくても簡単にバルサムの貼り直しができるように設計されているのかもしれません。
試写した結果。このワトソン1.9/3inのバルサム剥離があるのですが、剥離した第三群を鏡筒から取り外すことができず、断念しました。戦後のレンズは厳しいですね。
ということで、連休の実験は無事終了しました。1,050円のバルサムが一瓶あれば、多分一生楽しめると思います。
ちなみに、もう一本貼り直したZeiss Orthometar 4.5/21cmですが、バルサム貼りはきれいに成功したものの、鏡筒に入りません。鏡筒の内径とレンズの外径に余裕がなく、一度抜いたら二度と入らないのです。これは困った。
2011.4.23 Turner-Reich 4x5 改造
Turner-Reich 4x5 を改造しました。
このレンズにはフランジ金具が付属しているので、改造は至って簡単です。改造というより、これに合うレンズボードを探すだけです。
適当な穴の開いた金具を見つけて、バックフォーカスが合うように筒を取り付ければOKです。
今回はペンタックス67マウントに改造しました。単にレンズボードの代用品の外周がペンタ67の中間リングとほぼ同じ太さだったからです。内面反射的には、筒は太ければ太いほど良いようです。
作った金具を横から見たところ。
下からレンズを差し込みます。
そして上からフランジ金具で止めます。これで完成。
Turner-Reich Pentax67 mount.
ヘリコイドを取り付けたところ。
EOSに取り付けたところ。所要時間約30分。(ほとんどがレンズボードの代用品を探す時間) 明日にでも試写したいと思います。
2011.4.20 Turner-Reich 4x5
Turner-Reich ANAST. F:6.8 SER.II 212374 GUNDLACH MANUFACTURING CORP. FAIRPORT
N.Y. 4X5
中将姫光学さんからTurner-Reich 4x5をお借りしました。4x5inchカメラ用の小さなレンズで、私の持っている8x10inch用に比べればうんと使いやすそうです。
BETAX No2シャッターに入っています。
手彫りの刻印のようで、7の字が面白い形をしています。
後玉は11"です。
やはり裏側も7の字が特徴的です。
レンズは金具からはずれず、5枚張り合わせのコバ面を確認することはできません。反射から見ると、5個弱い反射が見えるので、前群後群とも間違いなく5枚貼り合わせです。
この絞りプレートを見ると、前玉は14インチF16で単独使用可能。後玉は11インチF12.5で単独使用可能。前後あわせて6インチF6.8.Zeiss
Anastigmatlinse VII類とほぼ同じスペックですね。
あれー、そういえば、8x10インチ用にも同じようなプレートがついていました。
28" F16
21" F12.5
12" F6.8
と明記してあります。ということは明らかに28"の前玉だけで使えるということですね。
ということは、私の以前の記事http://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body42.htm#110306は間違いということです。そうか、私のチェック方法が間違っていたわけですね。今分かりました。
28インチ(700mm)という長い焦点距離だと、天井の低い位置(2.3mくらい)にある電球を床に写して調べるのは無理があるということのようです。700mmのレンズだと天井の電球は相当の近接撮影となり、レンズを相当前に繰り出さねば焦点が合いません。たとえば、レンズの先から1mの距離に焦点を合わせるには、X=f*f/(L-f)
という公式にあてはめると、
X = 700*700/(1000-700) = 490000/300 = 1633
ですから、無限遠撮影時より1633mmレンズを前に出さねばならないわけです。これに無限遠の焦点距離700mmを足すと、レンズは床から2333mmの位置になけらばなりません。このさらに1m先に焦点が合うわけですから、合計3333mm必要です。すなわち、電球と床の距離は少なくとも3333mmないと焦点は合わないわけです。これには気がつきませんでした。失礼しました。ということで、長い焦点距離のレンズには注意しましょう。
ついでに21インチ(533mm)のレンズで計算してみると、
X = 533 * 533 / (1000 - 533) = 608mm
となり、533+608+1000 = 2141mmで、うちの2.3mの天井の電球でぎりぎり間にあっていたわけです。まだまだ修行がたりませんね。
2011.4.17 樟葉
古事記には結構汚い話が出てきます。樟葉在住の方には失礼な話ですが、次のような逸話があります。
古事記 崇神天皇に関する記載
「爾其建波爾安王、雖射不得中。於是國夫玖命弾矢者、即射建波爾安王而死。故、其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、至久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌。故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。」
崇神天皇の時代、建波爾安王(崇神天皇の叔父さんにあたる)が反乱を起し、大阪から奈良に兵を進めます。國夫玖命(和珥氏の祖)が応戦し、木津川付近で戦闘となります。國夫玖命が建波爾安王に先に矢を放つよう促します。建波爾安王の矢ははずれ、國夫玖命の矢は当たります。建波爾安王は死に、反乱は鎮圧されます。逃げる反乱軍を追い、久須婆の渡しのにあたりに追い詰めます。反乱軍は恐怖のあまりクソをもらし、これがハカマにかかったことから、この地をクソバカマと言うようになります。これが訛って現在の樟葉という地名になったそうです。
もうちょっと上品な逸話だったら小学校で教えられたかもしれませんが、これではちょっと無理ですね。
2011.4.16 亀の瀬の地すべり
大和川は奈良盆地の雨水を大阪湾に排水する唯一の川です。亀の瀬付近では頻繁に地すべりが起こり、大和川を堰き止め、奈良盆地が冠水した記録があります。Kubotaの資料を見ると、明治以降でも亀の瀬付近で頻繁に地すべりが起こっているようです。
明治20年 鉄道直後に地すべりで廃線に
明治36年 大和川の河床隆起により上流44.9hが浸水
昭和7年 河床隆起36m
昭和26年 地すべり 昭和38年〜42年 48万立米排土工事
昭和42年 河床隆起1.4m
今の時代なら重機で河床を下げることができますが、それ以前は人力です。河床が36m隆起した場合の復旧作業は簡単なものではありません。古代にはもっと大きな地すべりも起こったことでしょう。せっかく開拓した奈良盆地の水田は水没し、水運は途絶え、大和朝廷は危機に陥ります。朝廷にとってこの地域は重要な意味を持ち、治水に膨大な労働力が必要だったと思われます。
地図ソフトウェアはカシミールの試用版を使わせていただきました。地図をクリックすると拡大します。
大和川の水運はあてにならないので、吉野川を使うために飛鳥に宮殿が設けられたのかもしれません。後により便利な木津川を使うため平城京が建設されたのでしょう。瀬戸内海方面から物資が入らなくなると、政権を維持することは難しかったと思われます。
大和朝廷の重要な任務が大和川の河川管理であると考えると、「天岩戸」や「やまたのおろち」などの神話の意味が分かるような気がします。
2011.4.12 海抜50m−100m
昨日の日誌で、古代においては海抜50mから100mあたりのゆるやかな斜面から米を中心とする農耕が始まったのではないかと気づきました。古代の温暖気においては海面がいまより高かったでしょうし、大阪地方などはまだ砂州が形成されていなかったと思います。京都地方は以前は海で、後に隆起したそうです。低湿地の場合、排水工事をしないと台風や大雨で簡単に水没してしまうので、水田には向かなかったと思われます。水不足の危険があっても、ある程度高台の傾斜地の方がよかったのでしょう。
そこで、瀬戸内海を囲む近畿、中国、四国地方で、農耕に適する海抜50mから100mのゆるやかな斜面を調べて、黄色く塗ってみました。奈良盆地が最大の面積を持つことは明らかです。他には吉野川流域、大阪南部、琵琶湖南東岸、琵琶湖北東岸、琵琶湖北西岸、三重県北部、京都盆地北部、亀岡、兵庫県南西部などです。これより少し低くなるのですが、伊勢付近と出雲地方もなども目につきます。いよいよ古事記の舞台が整ったという感じですね。
多分、これらの地方に、米と、鉄と、漢字が一緒に中国または朝鮮半島から入ってきたのだと思います。鉄(土木技術)と漢字(契約)なしに米が作れたとは思えなくなってきました。
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2011.4.11 大和三山が指すもの
葛城山の麓から大和三山のあたりは海抜60mから100mmくらいのなだらかな斜面が続きます。このあたりなら比較的小規模な土木工事で水田の開発ができたものと思われます。古奈良湖が増水したとしても、ここまで来ることはなさそうです。この地域が大和朝廷を支える食糧生産地だったことは間違いないと思います。
先日、葛城古道から大和三山がきれいに並んで見えたのですが、この地図を見ると明らかです。畝傍山を先頭とする大和三山は葛城山を指しており、その先の瀬戸内海と九州、さらにその先の中国を指し示しています。
地図ソフトウェアはカシミールの試用版を使わせていただきました。地図をクリックすると拡大します。
2011.4.10 奈良盆地海抜75m、60m、50m
欽明天皇(509-571)の歌碑が天の香具山の麓に立っています。
山常庭村山有等取興呂布 (大和には群山あれどとりよろふ)
天乃香具山謄立國見乎為者 (天の香具山登り立ち国見をすれば)
國原波煙立龍海原波加萬目立多都 (国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つ)
怜[小可]國曽蜻嶋八間跡能國者 (うまし国そ蜻蛉島大和の国は)
欽明天皇の和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと「日本書紀」)。どうやら欽明天皇は沼地の排水をして開拓をし庭を広げた人のようです。この歌は欽明天皇が推進する農地開発の進む奈良盆地の様子と、そこで採れる米がうまい、ということを言っていると考えられます。直感的に思い浮かぶのは次のような地図です。
地図ソフトウェアはカシミールの試用版を使わせていただきました。地図をクリックすると拡大します。
現代の地図で海抜75mm以下を水色で塗りつぶしました。奈良盆地は畝傍山と天の香具山を結ぶ線までが海です。農業ができそうば場所は葛城山麓、飛鳥、三輪山の麓あたりです。耳成山はまだ島です。温暖期に海面が上昇すると、こんな状況だったかもしれません。中国からやってくる船は、すばらしい入り江を見つけたと思ったことでしょう。まさに、海原は鴎立ち立つ、という感じですね。
海抜60m以下を緑で塗りつぶしてみました。こうなると、耳成山の先まで陸地化し、奈良盆地南部に広大な農地が出現します。たぶんこの頃に、米、鉄、漢字が同時に伝えられたような気がします。水田の開発には適度な斜面、種籾、高度な土木技術、統制された共同作業と利益分配の仕組み、などが必要です。つまり秋津州の土地、米、鉄、漢字がどうしても必要だったわけです。農地開発が進むと、国原は煙立ち立つ、という景色になります。ただ、こうなると当然外的の侵入を警戒しなくてはなりません。
海抜50m以下を黄色で塗りつぶしてみました。奈良盆地はほとんどが陸地化し、小さな湖(古奈良湖)になっています。奈良盆地北部の農地化も進んだものと思われます。斑鳩の里も陸地化し、法隆寺も建立できる状態になっています。藤原京は内陸化してしまい、船で瀬戸内海から物資を運びこむことは困難のようです。一方、京都はまだ海の中です。大阪湾から船で物資を運ぶには平城京の方がはるかに便利であることが分かります。
農地が拡大し生産力の上がった奈良盆地は、大陸や朝鮮半島の水軍の脅威にさらされていたと考えられます。このような地形を見れば、天智天皇が朝鮮半島からの追っ手を恐れて大津に遷都したのも理解できます。
2011.3.26 Plamar 4/205改造
薄いアルミのアングルを適当に切って金具を作り、ペンタ67の中間リングにPlanar
205mmのフランジ金具を固定。薄いアルミ板は柔らかく、ハサミでも切れますので作業は容易。あっという間に終わります。見た目は悪いですが、絶対に落下しませんし、無限調整は容易ですし、簡単に本来の5x7inchのカメラにも戻せますし、費用はほとんどタダで、実用的です。
ペンタ67の中間リングとフランジ金具を4個のL字金具で接続。真ん中に無限調整用のスペーサーが入っています。
上から見たところ。
ヘリコイドをEOSアダプタをつないだところ。カメラの近くにヘリコイドリングがあるので回しにくいです。ヘリコイドリングはできるだけ前にあった方が回しやすいですが、同じヘリコイドで100mmレンズにも対応するにはこちらの方が簡単です。
ネジ4本はめずらしいです。多分新しいせいだと思います。、昔のは5本が多いようです。
いいかげんな切り方ですが、問題はありません。
アルミ板を曲げるのは難しいので、L字アングルを切断して使っています。角の部分だけ金鋸で切って、後はハサミでちょきちょき切れます。1mくらいのアルミのアングルを一本買うと、多分一生かかっても使いきれません。
2011.3.23 行誡
葛城山に麓にある九品寺は聖武天皇の詔により行基が開山し、空海が中興したという、由緒正しい寺だそうです。裏山にある石仏でも有名です。境内には和歌が書かれた板がたくさんあり、そのうちの一首が印象に残りました。
「あれば又 無きを数えて 世の人の 足れりと思う 時やなからん」 行誡(ぎょうかい)作
この歌をWebで調べてみたのですが、全くヒットしませんでした。行誡(ぎょうかい)というのは、多分、福田行誡(1806−1888)のことではないかと思います。
非常に分かりやすい歌で、いかにも僧侶の歌という感じではありますが、強く印象に残りました。まるで私のことを言われているようです。しかし、単に人間は欲の深い生き物だ、と言っているだけのようで、あまり批判しているようには感じられません。欲が深と幸せになれない半面、欲が人類の進歩を支えていう面も認めているような感じがします。多分、明治維新の中で、西洋的物質文明を批判しつつ、他に進む道がないことも分かっていたのでしょう。
2011.3.22 Planar 4/205mm
Carl Zeiss Jena No 57693 Planar 1:4 F=205mm D.R.P. 92313 Serie Ia, No 12
1902年(明治35年)4月8日、10本のプラナー F4/205mmがツアイスのイエナ工場から出荷されました。これはそのうちの1本です。
フランジが木製のレンズボードにビス止めされています。これは後年作られた物のように見えます。
後ろから見たところ。
外観は少し錆が浮いていますが、ガラスは非常にきれいです。分解は非常に簡単です。
この頃のプラナーの説明は、寺崎六櫻社に詳しく出ています。1900年前後の古いプラナーは製造本数が割と少なく、作例を見ることはほとんどありません。F3.6/110mmが良く写ることは分かっているので、多分他の焦点距離のレンズも状態がよければ良く写ると思います。
2011.3.20 ターナーライヒ改造
Turner ReichをEOSに改造しました。このレンズVade Mecumによると21inch + 28inchで両方使うと12inchと書いてあります。多分これで間違いないと思いますが(1/(1/21
+ 1/28) = 12なので)、気になるのは前玉に焦点距離が書いていないこと。後玉には21"と明記してあるので、何か意味がありそうです。
電球と床の間にレンズを入れてみると、簡単に謎が解けました。21インチの後玉はシャープに結像しますが、28インチの前玉はぼんやりして焦点があいません。つまり、前玉単独では撮影できないということです。このレンズは21インチの後玉単体で使うか、前玉を追加して12インチで使うかのどちらかで、前玉だけで28インチとして使うことはできないようです。前玉は今でいうところのワイドコンバータ、あるいは補正レンズかもしれません。断定するには、他の個体でも確認する必要があります。
(2011.4.23訂正) 28インチ(700mm)の前玉は単体でピントが来ることが判明しました。天井の電球と床の間にレンズを入れて、床に電球の像がはっきり写るかどうかでピントを判定するのは、700mmのレンズでは不可能であることが判明しました。ひどい近接撮影になるためピントが合わないだけでした。詳細は2011.4.20をご覧ください。
Ernst Gundlachのターナーライヒの開発は次のような経過をたどったのだと思われます。
1834(天保5年) Ernst Gundlach 東プロイセンのビュリッツで生まれる
1859(安政5年) ウィーン、パリ、ロンドンなどの光学関係の会社で働いた後、ウェッツラーにあるベルトレの光学機器工場に就職。この工場は後にライツになる。
1864(文久3年) ベルリンで小さな顕微鏡のレンズを作る会社を設立
1872(明治4年) 工場を売却してアメリカに移民として渡る。ニュージャージーで顕微鏡のレンズを作る
1878(明治11年) ボシュロムに雇われ、顕微鏡工場の設立を手伝う。
1878(明治12年) ボシュロムを辞めて、自分の工場をロチェスターに作る。コネチカット州ハートフォードに工場移転。
1884(明治17年) ロチェスターに戻り、ガンドラック光学会社を設立。
1890(明治23年) レクチグラフィック・レンズの特許を取得。
1894(明治27年) ツアイスのルドルフが4枚貼り合わせのAnastigmatlinseを開発。
ここから先は、私の推測で、事実確認はできていません。
1895(明治28年) 会社を辞め、息子と別の会社を設立。5枚貼り合わせのシリーズIを開発。ツアイス同様、前玉のみ、後玉のみ、前後両方の3焦点レンズであった。しかし、失敗。ツアイスより枚数の多いレンズでアメリカ市場の受けを狙うなど、経営者としての努力の跡がうかがえる。しかし、5枚貼り合わせレンズの製造は難しく、不良品が続出。工場の床にはGundlach親方が叩き割ったレンズの破片が散乱した。
1896(明治29年) 新旧のガンドラック社が2社別々に存在。旧ガンドラック社の社長はターナー氏で技術担当役員がライヒ氏。
1898(明治31年) 自分の作った新ガンドラック社を辞めて、シカゴに移り、バイブ・カメラ会社に入る
1899(明治32年) ドイツに戻る
1905(明治38年) 新ガンドラック社がウォーレンサックに買収される。
1907(明治40年)頃 旧ガンドラック社のライヒ氏が5枚貼り合わせレンズを再設計して復活をもくろむ。アメリカ人は世界一枚数が多いのが好き。ガンドラック親方はドイツに帰ったし(ガンドラック親方の没年は不明だが、生きていても既に73才と高齢)、新ガンドラック社はウォーレンサックに買収されたし、今が5枚玉を復活させるチャンス。社長のターナー氏は最初嫌がるが、レンズの名前をターナー・ライヒにするという案にグッと来てしまい、了承。社長からの条件は次の通り。
1. 世界一貼り合わせ枚数が多いこと。
2. 貼り合わせ枚数が多くても製造歩留まりが良く、コストが安いこと。
3. 一般的なシャッターが使えること。
これは難しい。ライヒ氏は次のような妥協案を見出す。
a. 5枚貼り合わせだが、外側の大きな3枚は既存のレクチグラフィック・レンズを流用する。新式の色消しダブレットを内側に貼る。
b. 3焦点ではなく、2焦点にする。前玉単体での使用はあきらめる。 (前玉単体でも使えます)
c. シャッターをドイツから輸入すると高くつくので、国産のILEXのシャッターを使う。このため内側2枚のレンズの寸法を小さくする。
d. 各レンズのコバを厚くして、貼り合わせを簡単にする。
d. シリーズIIの断面図を宣伝に使うと安いレクチグラフィックを流用したことがバレるので、宣伝には昔のシリーズIの断面図を使う。
ライヒ氏とターナー氏のアイデアは見事に成功し、アメリカ国内市場で成功を収める。成功の主な原因は、多分8x10用のF6.8と明るいレンズをILEXのシャッターに入れた点。レンズシャッターに入る8x10用のレンズでは、これくらいのスペックが限界かもしれません。アメリカ人は金持ちだったので、高価な8x10の肖像写真が売れたのでしょう。
それはさておき、ターナライヒをEOS用に改造しました。
焦点距離12インチは8x10インチのカメラだと標準レンズの焦点距離ですが、35mmだと超望遠なのでこんな感じです。
何となくアメリカっぽいデザインにしてみました。
持ち運び時には、ヘリコイド、延長チューブ、レンズに分解できます。それぞれスクリューで接続します。
ヘリコイドの先端の金具に金属製のフードをビスで止めています。
レンズに付属していたフランジを延長チューブの先端にネジ止め。
中でナットで止めています。
レンズの外観はほとんど前後対称ですが、前述のように非対称のようです。
2011.3.6 Turner Reich ANAST F6.8 SER.II
Turner-Reich ANAST. F:6.8 SER.II 212130 GUNDLACH MANUFACTURING CORP. FAIRPORT N.Y. 8X10
1891年のツアイス アナスチグマット シリーズIとシリーズIIの後群が3枚貼り合わせ。1892年のフーフが設計した後にダゴールと呼ばれるレンズが前後とも3枚貼り合わせ。1894年にはツアイスのシリーズVIIが4枚貼り合わせ。そして、1895年、ガンドラックがが5枚貼り合わせのターナー・ライヒ・アナスチグマットを設計します。この5年間は競って張り合わせの枚数を増やす時代だったようです。ツアイスのシリーズIIとVIIとダゴールが売り上げを伸ばす一方、ガンドラックのターナー・ライヒはさっぱり売れなっかたようです。(Vade
Mecumではpoor salesと書いてあります)。1906年、ターナー・ライヒは再設計されシリーズIIとなり、このレンズはアメリカ国内で成功をおさめます。1920年の宣伝にも出ているようですので、割と長期間製造されたようです。
大きなシャッターです。
完璧とはいえませんが、なかなか丁寧な刻印です。
後玉は21インチということは、前玉は28インチで、両方で12インチのようです。
ILEXのシャッターの羽根が一枚欠けています。
キングズレークの「写真レンズの歴史」やVade Mecumに出ている構成図とは全然違います。構成図はシリーズIのもので、シリーズIIのものとは違うようです。構成図では真ん中(3枚目)のレンズのコバが非常に薄いはずですが、実際のレンズは5枚のコバの厚さがほぼ同じです。多分これにより製造が簡単になり、量産が可能になったのだと思われます。つまりシリーズIは売れなかったというより、作れなかったのだと想像します。
キングズレークやVade Mecumが構成図を間違えた理由は、多分ガンドラックが1907年に出した広告のせいだと思います。シリーズIIの広告になぜかシリーズIの構成図が出ており、これを誤って引用したものと思われます。
右側の三枚の直径を少し大きめに作ることにより、レンズ押さえ金具の製作を容易にしたと思われます。前玉と後玉はシャッターと絞りを挟んで相当近づけなければならないのですが、5枚が同じ直径だとシャッターを接触して、うまく金具が作れません。そこで、直径の大きな外側の3枚だけを金具で押さえて、内側の2枚は金具では押さえないという方針です。これは後玉ですが、右から2枚目と3枚目の貼り合わせが少し痛んでいます。
左が前玉で、右が後玉。後玉の周辺の張り合わせが2〜3ミリだけ傷んでいますが、これはましな方だそうです。右はその拡大図。
2011.3.5 Chevalier Photographe SINAR用改造
ジナーボード(ホースマン製)が入手できましたので、シュバリエのフォトグラフを装着しました。表にフランジをネジ止めするとぎりぎりのサイズですが、裏は割と余裕です。うちにはジナーのカメラがないので確認はできていませんが、多分使えると思います。ジナーシャッターが使えるかどうかは分かりません。
目的は、ジナーのカメラを借りて撮影することです。誰かが4x5か5x7のジナーで撮影する時に便乗しようという作戦。
3mmのネジを使ったら、頭が大きすぎてレンズにつっかえていますが、特に問題はなさそうです。気になるようであれば、2.5mmのネジに替えればOKです。
裏面。ネジが長すぎますが、問題があれば切ります。
ジナーボードは溝が一番外にあるのでビスを打つ時邪魔になりません。
2011.2.9 Chevalier Photographe CAMBO用改造 2
CAMBOのレンズボードの裏からフランジで締める方法は失敗に終わったので、またレンズボードの穴を広げて前からレンズボードをネジ止めする方法に変更。
しかし、CAMBOのロゴが1mmほど出っ張っていて、フランジがレンズボードにうまく密着しません。
このロゴマークはプラスチックなので、割と簡単に削れます。
ここだけ削る手段がないので、斜め直線で削りました。なかなか斬新なデザイン。
5個穴を開けたのですが、1個はボードの溝にかかっているのでビスが打てません。ビス4本でも十分強度があるので、よしとしました。
ついに完成。ジナーのボードの方が汎用性が高いのですが、安いジナーボードがまだ見つかりません。気長に探したいと思います。これで静物なら5x7インチまでデジカメのリアシフト+タイリングで撮影できるようになりました。人物はタイリングでは厳しいので、取り枠を買ってシートフィルムで撮らねばなりません。
リアを5x7インチの右下までシフトして後ろから見たところ。まあ5x7までなら何とか行けそうです。
2011.2.8 Chevalier Photographe CAMBO用改造 1
先に作例を出したので順序が逆になりましたが、作例を作るために行った改造を紹介します。余っていたCAMBOのレンズボードの穴を広げてChevalierを入れると、なかなか良いバランスです。ボードの裏からフランジで締めると、きれいに装着できました。
やはりバカれかいレンズにはバカでかいカメラが似合います。
裏から見るとこんな感じ。きれいです。
ところがカメラにうまく取り付けることができません。何かがつっかえているようです。
CAMBOの場合、レンズボードの溝とカメラの前枠の溝が噛み合う構造ですが、フランジが溝をふさいでいて噛み合わないのでした。これはまずいことになりました。別の方法を考えねばなりません。
2011.2.7 Chevalier Photographe 6x9cm判試写
Chevalier PhotographeをCambo 5x7のレンズボードに取り付け、自作のデジタルバックhttp://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body11.htm#060701を使って室内で試写してみました。適当な被写体がないので、レンズを適当に並べて静物写真としました。光源は蛍光灯。5x7でフルに撮影すると後でスティッチが大変になるので、今回は6x9cm判相当の画面サイズとしました。この装置はEOS
5Dをリアシフトで使い、後でスティッチする仕掛けですので、画面サイズが大きくなると後処理が大変なのです。6x9cmだと4列4段で16枚ほどですむのですが、5x7inchだと7列7段で49枚必要になりますので今回はやめました。
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Lens: Photographe a Verres Combines Invente par CHARLES CHEVALIER Ingenieur
ISO 1600 F=4.5, 1/30s Cambo 5x7inch camera, Canon EOS 5D with home made
rear shifter, 6x9cm film equivalent image size (stitched from 4x4=16 shot)
http://www.ksmt.com/eos10d/eos_nikki_body11.htm#060701
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Black and white image
右手前のレンズがシャープに写っているので、レンズの中心がちょっと右にあるようです。スティッチが雑なので継ぎ目が見えますが気にしないでください。予想よりシャープで、像面の曲がりも少ないようです。フランス国民産業振興協会がこのレンズとペッツバールの人物用レンズを長い時間かけて審査し、このレンズにプラチナメダルを贈り(なぜ金メダルでないのか分かりませんが、とにかく勝利です)、ペッツバールに銀メダル(僅差で敗退)を贈りました。1842年3月のことです。審査員の目は節穴かと思っていたのですが、そうでもなかったようです。中心のシャープさではペッツバールに及びませんが、絵画的な雰囲気とフィールドの平坦さでは勝るかもしれません。是非一度1850年頃のペッツバールレンズ(Voigtlanderだと製造番号4,000番くらい、Rossだと3,000番くらい)と比較してみたいものです。