EOS10D日記その43 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---
2011.12.15 Thambar作例検索
Thambarは最も有名なポートレートレンズですから、美しいモデルさんとか、紅顔の美少年とか、透き通るような肌の少女とかの作例があるはずです。しかし、Webでの検索は想像以上に困難でした。いくつか作例が見つかりましたので、リンクします。
http://zunow.blog51.fc2.com/blog-category-157.html 中将姫光学(このレンズのオーナー。いつもレンズをお借りしてます)
http://overgaard.dk/leica-leitz-90mm-Thambar-f-22.html Thorsten Overgaard氏
http://scottts.exblog.jp/i8/ shot & shot by scottts氏
http://blende1.exblog.jp/tags/Thambar+90%2F2.2/ 視覚の記憶・死角の記録 by blende1氏
勝手にリンクして申し訳ありませんが、どうかお許し下さい。Thambarを一眼レフに取り付けてストロボを焚いた作例は見つかりませんでした。もう少し探してみます。
2011.11.2 Angenieux Type 75改造
Angenieux Type 75を分解したところ、ペッツバール型でした。その後、EOSマウントに改造。
とても簡単に分解できます。プロジェクター用のレンズですので、絞りはありません。
一番後ろ(写真では右)が凹レンズです。右の2枚の周囲はぴったりとくっついています。曲率が違うので、中央にはわずかな隙間があります。
ペンタックス67の中間リング接着して改造完了。
これをペンタックス67のヘリコイドに取り付けて撮影します。
レンズの最後部はEOSマウントに接していますが、これでもわずかに無限が出ておらず、5mくらいまでしかピントが合いません。無限を出すには後2mmほどレンズを下げなくてはなりません。これはかなりの大改造になるので、とりあえずは、これで使ってみたいと思います。
2011.11.1 Angenieux Type 75
P ANGENIEUX PARIS St - HEAND AX TYPE 75 F 105-110 No 442160
ANGENIEUX TYPE 75は多分映写機用のレンズで、105mmから110mmまで5mmだけ焦点距離は変えられるようです。多分映写機が位置を動かさずに、映写する映画の際すを微調整するための機能だと思います。後玉をまわして焦点距離を調整します。
後玉をねじ込んだ状態では、105の手前に白い線があります。
後玉を回して後退させると、110の手前に白い線が動きます。
レンズ側面の刻印。
バックフォーカスは短く、EOSに改造して無限遠いがぎりぎり出るか出ないかくらいです。NEX-3ようになら余裕で改造できます。
2011.10.30 XPRES 2IN F1.9
ROSS LONDON PATENT 2INn XPRES F1.9 No 195531
これも入手困難なROSS XPRES 2IN F1.9。中将姫光学さんから借用。XPRES F1.9に関し、1938年のロスの広告には1IN, 1.4IN, 2IN, 3INがあると書いてあります。Vade Mecumには1INと1.5INの写真が掲載されています。
1IN No. 135, 93x (Vade Mecum)
1.5In No. 136,882 (Vade Mecum)
2IN No. 195,531 (今回借用したレンズ)
3IN No. 132,046 (以前から持っているレンズ)
ライカMマウントに改造されています。このレンズは元々映画用だったようで、スチルカメラ用のレンズは製造されなかったのではないか、とVade
Mecumには書いてあります。
2011.10.29 Thambar
Thanbar f=9cm 1:22 Nr 226180 Ernst Leitz Wetzlar
1938年製のタンバールを中将姫光学さんから借用。人気が高いレンズで値段も高く入手困難ですので助かります。
刻印は近代的で読みやすいです。
外観は古典的です。当面はNEX-3でテストしますが、タンバールは一眼レフにも取り付けられますので、後でやってみたいと思います。。
赤い刻印はセンターフィルター使用時のもの。センターフィルターを付けた場合、F6.3くらいまではソフト効果があるということだと思います。
一応F9-25まで指標があります。ここまで絞るとシャープだと思われます。シャープな写真にはセンターフィルターは不要のようで、赤字の指標はありません。
2011.9.20 旧約聖書を知っていますか
「旧約聖書を知っていますか」(阿刀田高著、新潮文庫)を読んでみたところ、とても面白かったです。西洋人の名前はだいたい聖書の登場人物からとっていますので、各登場人物が何をした人か知っているだけでも役に立ちます。途中から名前の変わる人がいたり、同じ名前の人が何人もいたりしますので、一回読んだだけでは良く分かりませんが、もう一度読み返せば覚えられると思います。
他に面白かったのは、つぎのくだり。
「ヨブ記におけるサタンは、後世によくあるような、神と対立する悪魔ではなく、神の部下の一人、天使の一人を考えた方がふさわしい。だたし捻(ひね)くれた性格の天使で、人間の欠点や罪を見つけ出し、神の報告するのが彼の任務である、と、そう考えてよいだろう。」
旧約聖書はどことなく古事記や日本書紀に似ています。古事記も楽しく解説してくれないかなぁと思ったら、やっぱりありました。阿刀田高の楽しい古事記です。早速注文しました。
2011.9.19 Ermanox 858/3カメラ
Ernostar 125mmが装着されたErmanox 858/3カメラの写真が見つかりました。Pacific Rim Cameraのページを見ると858/3カメラのフォーマットは6.5x9cmのようです。
クラップカメラですので、ボタンを押すと決まった距離だけ蛇腹が伸びます。蛇腹にはピント合わせ機能はなく、レンズのヘリコイドを右側の小さなノブで操作します。レンズを支える4本の金具は貧弱で、すぐに壊れそうです。想像ですが、回転式のヘリコイドを力任せにねじると金具が壊れるので、小さなノブにしたのではないかと思います。右手のノブで蛇腹カメラは焦点距離を合わせる一般の蛇腹カメラと同じ操作にして使いやすくする効果も期待できます。また、レンズが重いので、カメラに三脚を取り付けると、金具の強度不足でレンズが少し下を向きます。それを避けるためにレンズの底面につっかえ棒を取り付けました。フォーカシングをしてもこのつっかえ棒が移動しないため、都合がいいです。
カメラ開発の経過の推測を整理すると、
1. 6.5x9cmの高級大型エルノスター開発開始。携帯性を考えてカメラとレンズを4本の金具で支える沈胴クラップ方式を採用。
2. 4.5x6cmのErmanoxカメラと同じ回転ヘリコイドを採用した試作機が完成。テスト開始。
3. レンズが重く繰り出し量も多いので4本の金具が耐えられず、レンズが少し下を向く問題が発覚。
4. レンズの底部につっかえ棒を入れてレンズを支えることに決定。そうすると回転式ヘリコイドは回せない。
5. 右側に設けた小さなノブでピント合わせするよう変更。量産にこぎつける。他の蛇腹カメラと同じ操作性になり好評。金具に無理なひねり力がかからなくなり4本の軽量金具でも支えられる。抜群の高級感。
すばらしいアイデアで、操作性、携帯性、画質、高級感とも最高で、売り上げが伸びる予定でした。しかし冷静に考えると、明るいレンズを生かして暗い室内で軽快にスナップ撮影するというエルマノックス本来の特長は、すっかり消えています。
そして、時代は乾板から35mmロールフィルムへと移ります。たぶん最も大きなの変化は、引き伸ばし機という便利な機械の普及です。大きなプリントを得るために大きな乾板を使う必要がなくなったのです。その代わり、精密なピント合わせ、精密なフィルム送り機構などがカメラに求められます。手工業的な蛇腹カメラから、1925年のライカA型、1932年のコンタックスI型などの精密機械に変わる条件が整ったのです。
2011.9.15 Ernostar 125mm改造
エルノスター 125mmをM42マウントに改造。M52-M42ヘリコイドを使います。
52mmスクリューのフードを短く切断して、このような部品を作ります。後は組み立てるだけです。
左が中国製のM52(レンズ側)、M42(カメラ側)のヘリコイド。このヘリコイドは香港のCheckieさんにお土産として頂戴したもの。大変な優れ物で愛用しています。eBayでもM52
to M42 lens Focusing Helicoid Adapter 17mm - 31mmなどの名前で売られています。真ん中の部品でレンズとヘリコイドを繋ぎます。
ビスを3本打って、M42-EOSアダプタを取り付ければ改造終了。前後に二個のヘリコイドを持ち、自由度が高いです。
EOSに取り付けたところ。
レンズのい下に付き出た角の意味が分かりました。カメラを平面上に置いた時、頭が下がらないようにするためのもののようです。カメラ展示時に美しく見せるのが主な役割だと思います。
エルノスター 1.8/105mmとの長さの比較。
エルノスター 1.8/105mmと1.8/125mmの前玉の大きさの比較。125mmの前玉の直径は約68mm。今週末にテストしてみたいと思います。
2011.9.14 Ernostar 125mm分解
前玉は簡単に外せますが、後玉は外せません。ラックアンドピニオン風のヘリコイドは一旦分解すると組み立てられそうにないので、分解を中止。
一番右の第一群が大きいです。
最も興味のある3枚貼り合わせの第二群。光の反射から1群3枚であることが分かります。
第二群は厚いです。
後玉は2群2枚。
フードが何度もねじ込まれたようで、ネジ山が擦り切れています。
目測式の焦点距離合わせのようで、右のノブを回すと、中央の窓で焦点距離が出ます。一杯に縮めても50と表示されるので、無限が狂っていると思われます。これは組み立てに苦労した証拠で、分解しない方がよさそうです。一眼レフやRFの場合には急いで焦点距離合わせを行いますが、目測式の場合にはゆっくりでかまいません。まず目測または単独距離計または巻尺で距離を測り、もし50ならゆっくりと50の目盛に合わせてからシャッターを切ります。スタジオで肖像写真を撮る場合には、床に線でも引いておけば簡単に距離が分かりますので、確実にピントが合わせられます。
このノブによるピント合わせは時間がかかり過ぎてデジタル一眼レフ向きではないので、手前にもう一個ヘリコイドを入れて、ダブルヘリコイドに改造したいと思います。バックフォーカスはわずか65mmほどしかありませんので、EOSに改造する場合でも21mmしか余裕がありません。21mm以下の厚さのヘリコイドを探さねばなりません。もし中判645に改造する場合、マミヤ645なら可能性がありますが、ペンタックス645は理だと思われます。
2011.9.12 Ernostar 125mm
Ernemann Anastigmat "ERNOSTAR" 1:1,8 f=12,5cm 204237 D.R.P
12.5cnのErnostarは8.5cmや10cmや10.5cmに比べると玉数が少ないようです。今回幸運にも入手できました。
右の小さなつまみが焦点調節です。これでヘリコイドをまわすと、窓にj距離が表示されます。大昔のラックアンドピニノンに慣れた写真家には喜ばれたかもしれませんが、素早いピント合わせを行うことはできません。カメラとの間にもう一個ヘリコイドを入れてダブルヘリコイドとしたいところですが、バックフォーカスが短いので難しいです。ペンタックス67のヘリコイドチューブを一個専用で使えば可能だと思いますが、せっかくですのでオリジナルのヘリコイドを生かしたいと思います。
レンズ構成は本に出ているのと同じErnostar F1.8型です。1-3-1-1の4群6枚。
前玉に比べれば後玉は小さいですが、それでも十分大きく、ペンタクス67のヘリコイドにぎりぎり入るくらいです。
2011.9.9 放長綫、釣大魚
放長銭、釣大魚(ファンチャンシェン、ディヤオダーイー) 長い糸を垂らして大きな魚を釣ることから、ゆっくり構えて大きな利益を得ることのたとえ。綫は線と同じような意味です。目前の小さな利益に惑わされて、将来の大きな利益を失うのが普通ですから、なかなか実践が困難なことわざであります。目前の小さな利益を取らないうちに大きな損失を出してしまい、結局元も子もなくすのもまた普通です。過去に成功して余裕のある人が使う時に説得力を持つ言葉のような気がします。
日本語でこれに近いことわざを思いつきません。多少意味が違ってもいいなら、「慌てる乞食は貰いが少ない」、「果報は寝て待て」、「石の上にも三年」、などがあります。22才の別れの、「私には鏡に映ったあなたの姿を見つけられずに、私の目の前にあった幸せにすがりついてしまった」 という歌詞を思い出しました。鏡に映っていたのに見つけられなかった人が後年大金持ちになれば、このことわざ通りです。でも、うかつにもすがりついた人が大金持ちになって幸せに暮らしているかもしれません。
2011.9.8 姜還是老的辣
姜還是老的辣(ジャンハイシーラオダラー) または姜是老的辣 (ジャンシーラオダラー) 生姜は古い方が辛い。亀の甲より年の功。長年の経験が役に立つことのたとえ。あまり自分では言いたくないことわざですが(まだ若いと思っているため)、人から言われるのはそんなに悪くないかも。いや、またに役に立つが普段はあまり役に立たない、という言われているようで、あまり気分の良いものではありませんね。
2011.9.7 走后門
走后門(ゾーホーメン) 裏口から入る。裏取引する。裏で工作する。昔、裏口入学というのがありましたが、あのイメージですね。ケ小平も堅持四項基本原則の中で、党に背く行為のひとつとして走后門をあげていますが、これは賄賂などの不正のことだと思われます。
。
ただし、作例を見ると、裏のコネがあるから安く買えたよ、みたいなのがあって、人脈を自慢する時にも使えるようです。
2011.9.6 吃不了兜着走
吃不了兜着走(チーブリャオドージャゾウ) 「食べ残したら包んで持ち帰る」 から転じて、事が起きたら全責任を負わされる羽目になる、という意味で使われるようです。上司が部下に対して、あるいはお客さんが業者に対して、プロジェクトの途中で逃げ出さないよう、軽く脅しをかけているような感じです。
アメリカの中華料理店は料理の量が多く、食べきれません。食べ残しはパックのようなものに入れて持ち帰るよう勧められます。食べ物を大切にすると言う点で素晴らしい習慣だと思っていたのですが、この用法を見ると、必ずしも歓迎されないようです。まあ、おいしい料理なら残さないでしょうから、不味くて量が多い店だと思って下さい。
2011.9.5 厚臉皮
厚臉皮(ホーレンピー) 面の皮が厚い。恥知らずで図々しい。臉は顔のこと。臉も顔も面もカオという意味がありますが、体の部分の名称としては主に臉が使われます。顔は色という意味fで使われる場合が多いようです。日本語でも顔料という言葉が使われています。
臉にも顔にも面にもメンツ(面子)の意味があり、臉皮、面子、臉面、顔面、面目、体面、などメンツを表す言葉がたくさんあります。面子と重んじる事、または見栄っ張りのことを、「愛面子」と言います。漢字を見ただけで意味が分かりますから、私は漢字文化圏に住んでいるんだなぁと思います。
反対語としては、厚臉薄というのがあり、恥ずかしがり、内気な、という意味だそうです。
2011.9.4 硬着頭皮
硬着頭皮(インジャトーピー) いやだが思い切って。いやいやながら。例えば、苦い薬は大嫌いだが、覚悟を決めて飲み込むしかない。鼻をつまんで、エイヤー、と飲み込んだ。余りの苦しさに頭皮が硬くなってしまった。ハゲたらどうしよう。みたいな感じですね。いやーな感じが出ていると思います。
「着」にはいくつかの用法があり、中国語では良く使われるようです。状態を表したり、動名詞を作ったり、英語の-ingと似ていると思いました。
日本語でも結構いろいろな意味があります。到着、服を着る、着服、密着、敗着(囲碁で負けを決定的にした手)、着工、着実、着任、着目、愛着。
2011.9.3 Ernostar
Kino PlasmatやSuper-Sixは高騰してしまいましたが、Ernostarは数年前から値段が変わりません。主に中判用のレンズであるため焦点距離が長く、オリジナルのライカマウントレンズが存在しないためだと思います。また、バックフォーカスが短く、ニコンF改造が難しいことも幸いしています。さらに、Ermanoxカメラに固定装着されているエルノスターレンズを取り出して改造するのに抵抗を感じるとういうのも大きな理由だと思います。
Ernostarレンズには次のような焦点距離のものがあります。
F2.0 35mm(movie, Vade Mecum)
F2.0 50?mm(Bonette, Vade Mecum ?が付いているので、確認が取れていない模様))
F2.0 50mm(movie, Vade Mecum)
F2.0 100mm(4.5x6cm, 1924 Ermanox, ksmt.com ksmt.com)
F2.0 140mm(6.5x8cm, 1925 Ermanox)
F1.8 50mm(Vade Mecum)
F1.8 85mm(4.5x6cm, 1925 Ermanox, ksmt.com)
F1.8 105mm(Vade Mecum, ksmt.com)
F1.8 125mm(6.5x9cm, 1925/26, Ermanox)
F1.8 165mm(9x12cm, 1925/26, Ermanox)
F1.3 (Vade Mecu,, Bobette II in B.J.A. 1927, p700 as an option, 雑誌に掲載されたものの、実際に販売されたかは不明)
F1.9 50mm(movie, 1929, Vade Mecum, ツアイスと合併後、ゾナーが出たため販売されたか不明)
F2.7 75mm(4.5x6cm Press Camera, 1924, Vade Mecum)
F2.7 150mm(Press Camera, ksmt.com)
F2.0/140mmなんてのがあるとは知りませんでした。当面は高騰しないと思いますので、落ち着いて掘り出し物を探したいものです。
20118.31 雪中送炭
雪中送炭(シエジョンソンタン)。援助を受けた側が感謝の気持ちを述べる時に使うことが多いようです。「雪の中で凍えていた時に炭を送ってくれてありがとう。おかげで何とか生き延びられました。」みたいな感じですね。中国の北の方の冬は寒いでしょうから、ありがたい感じが出ていることわざだと思います。
百度百科によると、在下雪天給人送炭取暖。比喩在別人急需時以物質上或精神上的幇助、鼓励。(雪の降る日に暖を取るための炭を人に送ること。誰かが至急必要とする時、物質的または精神的援助・激励を与えることの比喩)
日本でこれに相当することわざはないようでして、「干天の慈雨」がわりと近いようです。
2011.8.29 藤原京の建設
大君は神にし坐せば赤駒の葡匐(はらば)ふ田井を都となしつ (巻19−4260)
大君は神にし坐せば水鳥の多集(すだ)く水沼を都となしつ (巻19−4261)
万葉集で藤原京(当時は新益京(あらましのみやこ)と呼んだ)の建設の様子を詠んだのではないかとされる歌です。大君とは天武天皇のことです。山間部の飛鳥から、平野部の大和三山周辺に都を移したのですが、当時はまだ馬が這い、水鳥が集まる沼地で、土地改良が難航したようです。
畝傍山から見下ろす藤原宮はあまりに低く、湿地であったことが想像できます。多分低地の農地開発が進み、開墾の最前線が飛鳥から離れてしまったので、近くに都を移したのだと思います。確かに畝傍山からは大和盆地の情勢を一望のもとに掌握することができ、開墾の指揮を執るには最適だと思います。
不思議なのは、大和の古道が藤原京より以前に整備されていたことです。藤原京より100年以上前に、聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ太子道を馬で通ったらしいのですが、藤原京よりもっと低い所を通っているし、大和川を越えています。まあ、晴れの日はいいとしても、雨が降ったら大変なことになります。いったい何年にどこまで湿地の農地化がされ、河川の堤防が整備され、橋がかけられ、道路が整備されたのか、興味は尽きません。
2011.8.23 身在福中不知福
身在福中不知福(シェンザイフージョンブーチーフー) 福中の人は福を知らない。意味は非常に良く分かりますが、これに相当する日本語のことわざを知りません。もし一生幸せのままで、幸せの意味など知らないまま死ねれば、それにこしたことはないと思います。もし不幸になったら、幸せの意味が分かったと喜べば良いのかもしれません。
2011.8.22 塞翁失馬
塞翁失馬、安知非福(サイワンシーマー、アンジーフェイフー) 人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬,人生は何が幸せで何が災いになるかわからない。災い転じて福となす。たいがいの人は成功より失敗の方が多いわけでして、こうでも思わないとやってられないですね。
2011.8.21 江山易改、本性難移
江山易改、本性難移(ジャンシャンイーガイ、ベンシンナンイー) 川や山を変えるのは簡単だが、人間の本性を変えるのは難しい。三つ子の魂百まで。東日本大震災をテレビで見ていて頭に浮かんだ諺です。なかなか味わい深い。
2011.8.20 恩将仇報
恩将仇報(アンジャンチョウバオ)。恩を仇で返す。日本語と同じなので覚えやすいです。でも、中国語が有る程度聞き取れるようなるるまでは、しばらく使う機会はなさそうです。
2011.8.19 拉后腿
拉后腿(ラーホートゥイ) 足を引っ張る。goo辞書には中国語の音声がでているので便利ですね。「どうして社内旅行に行かないの?」 「しかたないわ。家の中に足を引っ張る人がいるんだから」 という文例が「ネイティブが良く使う中国語表現」(于美香+于羽著、語研)に出ていました。拉は引っ張ること。拉致は引っ張っていくこと。胡弓やバイオリンなど弓でひく楽器を演奏することも拉と言います。拉麺は手で引っ張った麺のこと。
日本語でも同じですが、人のことを言うときにはあまり良い意味ではないので、注意し使いましょう。明らかに自分のせいで試合に負けたとき、足を引っ張っちゃってごめんね、みたいな使い方が無難かもしれません。
2011.8.18 快刀斬乱麻
日本語では「快刀乱麻を断つ」または「快刀乱麻」。意味は同じ。快刀斬乱麻(カイダオジャンランマー)、乱麻を斬るですから、こちらの方が意味が分かりやすいですね。 読み方もほとんど同じで、覚えやすいです。
2011.8.17 楽浪の(さざなみの)
「楽浪の」(さざなみの)というのは、琵琶湖南西岸の地名「大津」「志賀」「比良」「近江」などにかかる枕詞です。
(略)楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言えども 春草の(略) (人麻呂 万葉集)
天智天皇が築いた大津の宮は朽ち果て、草が茂ってどこが宮殿だったかさえ分からなくなります。
滋賀県には「さざなみ」と名づけられるものが多いのですが、「楽浪の」という字を当てるとは知りませんでした。楽浪郡は朝鮮半島の北部にあり、漢によって作られた地方行政機関で、東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たしたそうです。中国大陸からの渡来人も楽浪郡を経由した人が多かったと思われます。近江には楽浪郡からの渡来人が多く住んでいたのでしょうが、中国からの侵略を恐れて建設した大津の宮の枕詞が、敵の出先機関である「楽浪」というのは、奇妙な感じがします。
2011.8.16 壹伎史韓国
壹伎史韓国(いきのふびとからくに)は河内の豪族で、壬申の乱において近江軍を率いて、高安城を攻めます。吉野軍の大伴吹負(おおとものふけひ)が派遣した坂本臣財(さかもとのおみたから)に奪われた高安錠を奪還するためです。高安城は天智天皇が外国から大和を守るために築いた城ですので、ここを渡すわけにはいきません。近江軍の韓国が勝利し、大伴吹負は一旦東へ敗走します。大和では近江軍の優勢になります。東国から置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)が千余騎を率いて応援に駆けつけ、吉野軍は逆転勝利を収めます。
壹伎史韓国という名前が気になります。壹伎史は伊吉連を同じで、姓氏録には「伊吉連 長安の人、劉家楊雍より出づ」とあり、元は長安からの渡来人のようです。史(ふびと)は文書記録を司る職掌。壬申の乱では近江軍について敗れますが、天武12年に連となり、復活したようです。
2011.8.15 吉野軍の主要人物
村国連男依(むらくにのむらじをより) 美濃国各務郡村国郷の豪族。美濃で軍を編成。不破の関を固めるなど、壬申の乱における功績が大きい
和珥部臣君手(わにべのおむきみて) 尾張国葉栗郡の豪族と思われる。数万の兵を率いて、不破の関から近江に攻め入る
身毛君広(むげつきみひろ) 美濃国武義郡の豪族。影行天皇の子孫。不破の関、美濃方面を押さえる。
多臣品治(おおのほむぢ) 安八磨郡(岐阜県大垣市付近)の湯沐令(ゆのうながし、大海人の直轄領の官僚) 伊賀方面の戦闘で活躍
高市皇子(たけちのみこ) 大海人の第一皇子。壬申の乱当時19歳。吉野軍の総帥として奮戦。
大津皇子(おおつのみこ) 壬申の乱当時10歳くらい。鈴鹿の関で父大海人と合流に成功。天武天皇没後、謀反が発覚し処刑される。
大分君恵尺(おほきだのきみゑさか) 豊後国大分郡出身の豪族。東国へ行くための駅鈴(通行証)を留守司高坂王から得るよう依頼される。
大伴連友国(おほとものむらじともくに) 大海人とともに吉野から東国へ向かう。後に大伴氏が全面的に吉野軍に加わる。
大伴馬来田(おおとものまくた) 孝徳朝の右大臣・大伴長徳の弟。長徳没後、冷遇されたいた。大伴氏が吉野方につくことを決断。
佐伯連大目(さへきのむらじおほめ) 佐伯氏は大伴氏の分家
県犬飼連大伴(あがたいぬかいのおおとも) 大海人は徒歩で吉野を発ったが、途中で県犬飼連大伴の手配した馬「鞍馬」に乗ることができた。
草壁皇子(くさかべのみこ) 天武の後継者として皇太子となるが、天皇になることなく28歳で没。
忍壁皇子(おさかべのみこ) 文武天皇3年(700年)6月大宝律令選定を指揮し、翌年完成。
大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)、二十人あまりの皇子や舎人、10人あまりの女性・子どもと一緒に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に向かいます。最初から大海人に同行し壬申の乱で手柄を上げた人は、天武天皇の時代、英雄として語り継がれたはずです。ということは、必ずや古事記の説話に登場するのではないかと思ったわけです。
2011.8.14 朴井連雄君
朴井連雄君、天皇(実際にはまだ天皇になっていない大海人)に奏して曰く、「臣、私事有るを以て、独り美濃に至る。時に朝庭、美濃・尾張、両国司に宣して曰く、『山稜造らむが為に、予め人夫を差し定めよ』とのたまふ。則ち人別に兵を執らしむ。臣以為、山稜を為るには非じ。必ず事有らむと・若し、早に避りたまわずは、当に危きこと有らむか」と申す。(「壬申紀を読む」(西郷信綱著、平凡社選書)の中で日本書紀から引用されている個所を引用)
朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)は物部氏の一族。大海人皇子の舎人(とねり。警備、雑用などを行う側近)。美濃に行った時、大友皇子から美濃・尾張の国司に対して天智天皇の墓を作る人夫の要請があったとの情報を得ます。真の目的は、大海人討伐軍ではないかと思った朴井連雄君は吉野の大海人に通報します。
物部氏jはもとは悪霊を退治する役だったようですが、その後軍事や刑罰を司る職掌だったそうです。朴井連雄君は吉野軍の親衛隊長のような立場だったと思われます。
2011.8.13 吉野亡命
671年10月17日、いよいよ病が重くなった天智天皇は弟の大海人(東宮)を宮殿に呼び、次の天皇になるよう依頼します。これを陰謀だと感じた大海人は、丁重に断り、出家して武器を捨て吉野に亡命します。有間皇子と古人大兄皇子が天智天皇(中大兄皇子)の陰謀により殺されているようですから、疑いたくなる気持ちも分かります。
671年12月天智天皇が崩御すると、天皇は一旦空位になったようです。天智天皇の遺体は殯宮と呼ばれる埋葬までの一時的な宮殿に置かれます。墓(陵)が出来て、そこに埋葬されるまでの間、次の天皇は正式には決まらなかったようです。ただし、これには色々な解釈があり、明治政府は大友皇子が弘文天皇として即位したとの見解のようです。この頃は不安定な時代で、天皇崩御後、正式な即位ではないがそれに準ずる「称制」と呼ばれる事例が二度だけあったそうです。(暫定的な天皇のため、元号を変えなかった) 一度目は斉明天皇崩御後の天智天皇、二度目は天武天皇崩御後の持統天皇。
2011.8.12 天武天皇の後宮
天武天皇の後宮を「壬申紀を読む」(西郷信綱著、平凡社選書)から引用し、()内に注釈をつけました。草壁皇子と大津皇子は、母も妻も天智天皇の娘という特殊な家庭です。額田姫王との間にできた十市皇女は天智天皇の子の大友皇子に嫁ぎ、泊瀬部皇女も同じく天智天皇の子の川嶋皇子に嫁ぎます。大友皇子は近江軍、川嶋皇子は吉野軍に分かれて壬申の乱を戦うことになります。天智天皇は生きている間は何重にも張りめぐらされた政略結婚のおかげで一族内の平和が保たれていたようです。しかし、天智天皇が亡くなると一気に険悪な雰囲気になり、壬申の乱へ突入したものと思われます。
有名な額田姫王は宮人ですから、自由恋愛の対象だったそうです。宮人の場合、子どもが生まれた場合だけ、歴史に名を残しました。公的な妻である皇后や妃や夫人は、兄や藤原氏や蘇我氏との政略結婚であるわけですから、選ぶ権利はなさそうで、あまり熱心だったとは思えません。美人揃いで自由恋愛可能な額田姫王などの宮人に心を奪われるのは当然のような気がします。
万葉集より引用:
○ 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
○ 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
なお、新田部皇子、新田部皇女、という同じ名前が出てくるのは、当時皇子や皇女の乳母の家の名を付けたからだと思います。つまり、新田部家が乳母の皇子と皇女ということですね。大海人皇子は大海人家が乳母の皇子という意味だそうです。
格 | 名前 | 父 | 所生(子供) |
皇后 | 莵野皇女(持統) | 天智天皇 | 草壁皇子(妃は天智の娘の阿陪皇女(後の元明天皇) |
妃 | 大田皇女 | 天智天皇 | 大来皇女 大津皇子(妃は天智の娘の山辺皇女) |
妃 | 大江皇女 | 天智天皇 | 長皇子 弓削皇子 |
妃 | 新田部皇女 | 天智天皇 | 舎人皇子 |
夫人 | 氷上娘 | 藤原鎌足(大臣) | 但馬皇女 |
夫人 | 五百重娘 | 藤原鎌足 | 新田部皇子 |
夫人 | 太ぬの娘 | 蘇我赤兄(大臣) | 穂積皇子 紀皇女 田形皇女 |
宮人 | 額田姫王 | 鏡王 | 十市皇女(天智の子の大友皇子の妃) |
宮人 | 尼子娘 | 胸形君徳善 | 高市皇子(妃は天智の娘の御名部皇女) |
宮人 | かじ媛娘 | 宍人臣大麻呂 | 忍壁皇子 磯城皇子 泊瀬部皇女(天智の子の川嶋皇子の妃) 託基皇女 |
2011.8.11 天智天皇の後宮
天智天皇の後宮を「壬申紀を読む」(西郷信綱著、平凡社選書)から引用し、()内に注釈をつけました。この表を見ると、9人の妻との間に生まれた10人に娘のうち、四人が弟の天武天皇に嫁いでいます。また三人は天武天皇の息子に嫁いでいます。一方、二人の息子の妻はどちらも天武天皇の娘です。当時は天皇の娘は嫁ぎ先がなかったようで、かなり無理のある家庭です。この評価妻の格(家柄)の順に並んでいます。高い格の家柄でないと、皇后や嬪(ヒン、ひめ)にはなれません。政略結婚的な性格が強く、恋愛の対象にはなり難かったのかもしれません。
宮人とは地方の豪族が派遣した美女軍団です。今っで言うと、神社でお札とかお守りを売っている巫女さんのようなものかもしれません。比較的自由に恋愛できたようです。地方豪族と天皇家の関係強化という側面もあったようで、皇子が産まれて出世すれば豪族の家柄も上がり、天皇への援軍にも力が入ったことでしょう。
格 | 名前 | 父 | 所生(子供) |
皇后 | 倭姫王(姪) | 古人大兄皇子(異母兄) | なし |
嬪 | 遠智娘 | 蘇我山田石川麻呂(大臣) | 大田皇女(天武の妃) 莵野皇女(天武の皇后、後の持統天皇) 建皇子(早世) |
嬪 | 姪娘 | 蘇我山田石川麻呂(大臣) | 御名部皇女(高市皇子の妃) 安陪皇女(草壁皇子の妃、後の元明天皇) |
嬪 | 橘娘 | 阿倍倉梯麻呂(大臣) | 飛鳥皇女 新田部皇女(天武の妃) |
嬪 | 常陸娘 | 蘇我赤兄(大臣) | 山辺皇女(大津皇子の妃) |
宮人 | 色夫古娘 | 忍海造小龍 | 川嶋皇子(第二?皇子、妻は天武の娘の泊瀬部皇女) 大江皇女(天武の妃) 泉皇女 |
宮人 | 黒媛娘 | 栗隈首徳万 | 水主皇女 |
宮人 | 伊羅都娘 | 越道君 | 施基皇子 |
宮人 | 伊賀采女宅子娘 | (伊賀臣) | 大友皇子(第一皇子、妃は天武の娘の十市皇女) |
2011.8.8 高枕无憂
憂いなく、枕を高くして寝る。意味は日本語と同じですが、中国式の方が意味が分かりやすいです。発音はガオチェンウーユー。「无」は「無」と同じ。ひらがなの「ん」の元になった漢字です。この漢字は日本では使いませんが、中国語では頻繁に使います。
2011.8.7 画蛇添足
日本では蛇足と言います。これは省略形のようですね。中国では丁寧に画蛇添足(ファーシエティエンズー)と言うそうです。意味は全く同じです。余計なことをして失敗しないように注意しましょう。
2011.8.6 物部氏・石上氏
物部氏は継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱を鎮圧します。欽明天皇の時代になると物部氏は蘇我氏と対立し、物部守屋が蘇我馬子に敗れて死ぬ(587年)と、物部氏は滅びたと思っていたのですが、そんなこともないようです。物部守屋から85年ほど後の672年頃、物部首日向(もののべのおびとひむか)は壬申の乱で大友皇子率いる近江方に付き、奈良へ向かいます。しかし、大海人皇子率いる吉野方に捕えられ、吉野方に寝返ったようです。大海人皇子が天武天皇になると、けっこう出世し、683年頃、物部から布留に改名します。
686年頃にはさらに石上氏(いそのかみうじ)に改名します。708年には石川麻呂が左大臣になり、その子である乙麻呂(〜750)は中納言、孫の宅嗣(〜781)は大納言になります。宅嗣が死んだ後は、中央貴族としては衰退したそうです。
少なくとも奈良時代までは有力な貴族であったようでした。古事記・日本書紀編纂の時代に相当の力を持っていたことが確認できて安心しました。古事記の中の説話で物部氏が活躍しているように感じたのは、気のせいではなかったようです。
2011.8.5 大伴氏
壬申の乱において、大伴氏一族は大海人皇子(天武天皇)率いる吉野方で功績を上げます。
大伴友国 大海人皇子が挙兵を決意して吉野を発ったとき、友国は皇子に従った
大伴馬来田 孝徳朝の右大臣・大伴長徳の弟。長徳没後、冷遇されたいた。大伴氏が吉野方につくことを決断。
大伴吹負 馬来田の弟。大和方面の将軍として華々しい活躍をした
大伴安麻呂 長徳の子。吹負が大和で勝利したことを、美濃にいる大海人皇子に知らせる。
大伴旅人は安麻呂の子、大伴家持は安麻呂の孫。
白村江の戦いに敗れた天智天皇の人気は急落し、近江宮への遷都も不評だったようです。天智天皇が亡くなると近江朝廷はもはや機能せず、人気急上昇中の大海人皇子に破れます。しばらく冷遇されていた大伴氏はいち早く大海人皇子の軍に加わり、大きな成功をおさめます。どうやら民主党圧勝のときと同じような状況で、大海人皇子(天武天皇)がわずかな人数で吉野を出ると、あっというまに近江朝廷を上回る勢力になります。いち早く大海人皇子側についた大伴氏は見事に復活を果たしました。
”壬申紀を読む”(西郷信綱著、平凡社選書)を参考にさせて頂きました。
2011.8.3 虎頭蛇尾
中国でも日本と同じように龍頭蛇尾とも言いますが、虎頭蛇尾とも言うようです。日本と同じで、最初は威勢が良いが尻すぼみという意味です。確かに龍より虎の方が頭でっかちな感じが出ていますね。もちろん龍と蛇も両方爬虫類(龍は爬虫類ではないかもしれませんが、まあ同種であることは間違いありません)なので、大きな蛇が小さな蛇になったという意味では、龍の方が理屈が通るような気もします。
この諺は単純明快なので、今後とも意味が変わることはなさそうです。
2011.7.31 好事多磨
好事魔多し。中国でも日本と同じ意味です。ただし、字が違います。日本では魔ですが、中国では磨です。好事多磨難とも言うそうですので、省略形ですね。磨難を調べると、魔難とも書き、苦難という意味だそうです。磨難でも魔難でも苦難でも意味は同じということのようです。
昔中国から輸入されたまま全く意味が変わっていないようです。私は本などで読んだことはありますが、日常会話では聞いたことも使ったこともありません。中国語のテキストの文例は苦労して作られていますが、やっぱり不自然でした。知識人のみが使う諺なので、時間が経っても意味が変わらなかったのかもしれません。
2011.7.30 漢王朝劉一族と邪馬台国
「私は、漢王朝霊帝の曾孫安智王、安智王の子都賀王の末裔です。霊帝の孫石明王と、その子安智王、安智王の子都賀王など一族郎党が、いまだ見ぬ倭国へ旅立ったのは、264年5月朔日(ついたち)のことでした。投馬国(つしまこく)(現在の岡山県倉敷市あたり)に着いたのは、祖国を出て128日の船旅の後の264年9月5日でした。さらに11年後の275年、一族は男女2040人を率いて、邪馬台国に居住しました。現在の奈良県高市郡明日香村檜前(ひのくま)一帯がその地です。」
(中略)
「応神天皇の御代(台与の時代)に、漢皇族安智王は日本に帰化し、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖となった。」
”漢王朝劉一族と邪馬台国”(波多江英紀著、文芸社)から引用
三世紀、漢王朝の皇族が、朝鮮半島、岡山県を経て飛鳥にたどりつくまでの経過が詳しく述べられています。詳細が正しいかは分かりませんが、私が書きたいなぁと思っていお話のに近く、興味深く読みました。大いに参考になりました。
2011.7.29 太子道
「河内と大和の間の。大和川の根っこを抑える斑鳩は、太子にとって自由な場所であり、経済的にも軍事的にも要衝の地域でした。太子が目を付けたのも当然です。『日本書紀』を見ると、600年頃にはもうそこに居たとあります。二十五、六歳から宮の建築を始めて、600年には遷ったと私は考えています。そして斑鳩から馬に乗って飛鳥に通った。騎馬太子と呼ばれているように、太子道と呼ばれる道があったと言われています。ここで問題なのは、摂政皇太子であったなら飛鳥に通う必要はないので、群臣が斑鳩宮に来ないといけないということです。ところが、馬に乗って飛鳥に通ったというのは、太子は執政官の摂政ではあったけれど、前にも述べたように、大王的な権力はなかったことになります。このあたりは非常に複雑で、おそらく太子、推古天皇、馬子、この三人がそれぞれに握っていたんでしょう。」 (「日出づる処の天子」は陰謀か、黒岩重吾著、集英社新書から引用)
太子道(筋違道)を見ると、太子道が直線から北西にずれているとの疑問が出ています。私は600年当時はまだ法隆寺の南には小さな古奈良湖または沼があったと考えています。これを右から迂回するにも、左から迂回するにも、大和川の橋を渡らねばなりません。当時立派な橋がかかっていたとは思えず、全行程を馬で移動したと考えるのは、かなり無理があると思います。私なら法隆寺の前に広がる古奈良湖に船を浮かべ、東に向かって漕ぎ出します。初瀬川か飛鳥川を少し遡って、そこで馬に乗り換えるのが自然のような気がします。
もし本当に600年当時、既に河川と橋が整備され、太子道を馬だけで飛鳥まで通勤できたとすると、驚異的です。大和川とそれにかかる橋の管理は重機がある現代ですら大変なわけですから、600年当時、どうやっていたのか、興味がわきます。平城京の建設や大仏の造営などより、よほど難しかったと思います。
2011.7.28 天平六年の大地震
天平六年四月七日、大地震が発生します。大和朝廷はただちに全国の被害調査を行います。その結果、被害は奈良を中心とした近畿地方に限定されており、ここを集中的に救済すれば良いことが判明します。大阪と奈良の県境にある生駒断層が動いた直下型地震で、阪神淡路大震災と同程度の揺れがあり、平城京のある奈良盆地一帯は大きな被害を受けました。四月二十一日、聖武天皇は近畿地方の百姓に被害と要望事項を聞くための調査団を送ります。この調査報告をふまえて、五月二十八日、太政官が具体的な救済策を聖武天皇に奉上しました。
1. 納税期限の延期、納税の免除
2. 地震以前から干ばつに苦しんでいた地域の農民に、朝廷の保管する種籾の無利息貸与
3. 種籾の私的な高利貸し付けの禁止。子の負債を親から取りたてることを禁止。親の負債を子からの取りたてることを禁止。
私財を投jじて困窮する農民を救済する篤志家も現われます。このような人には、天皇から官位が与えられています。
このような救済策にもかかわらず、飢饉は人々の心の荒廃をもたらし、犯罪が激増します。聖武天皇は大規模な恩赦を行い、生きるために盗みをはたらいた者に、自力更生の機会を与えます。干ばつや地震が起こったのは自分の政治が悪いからであり、百姓に罪はないとの通達を全国に送ります。その中に、「責めはわれ一人に在り」、と書かれており、民衆の評判が良かったそうです。
自民党や民主党の先生方も、きっと聖武天皇の地震対策を参考にして、阪神淡路大震災や東日本大震災に対応しておられるのだと思います。
”聖武天皇 責めはわれ一人にあり” 森本公誠著、講談社を読んだ感想文です。(分厚い本なので、半分くらいまでしか読んでいませんが)
2011.7.27 Zunow 1.1/50mm
Zunow 1:1.1 f=5cm Zunow Opt. Japan No 5655
Zunowを2本も持っているZunowさんからZunow 1.1/50mmをお借りしました。ライカを持っていない私には無縁のレンズでしたが、NEX-3(これもZunowさんからの借り物)で使えるようになりました。
NEX-3とのバランスもなかなか良く、精密なピンと合わせができます。
きれいな外観です。
このレンズは後期型で、後玉が平らなので扱いやすいです。
MLリングとマウントアダプタを介して、手軽にNEX-3で使うことができます。楽しみです。
2011.7..19 車到山前必有路
「車到山前必有路」 (チャーダオシャンチェンビーヨールー)
進んで行けば道は開けてくるという意味。または、行き詰った時、かえって道が開けるという意味の中国のことわざ。
「ネイティブがよく使う中国語表現」(語研)を以前から読んでいるのですが、あまり覚えられず、行き詰ってしまいました。日誌に書けば覚えられるのではないうかと思い立ったわけです。まったくダメかもしれないが、やるだけやってみよう。そうすれば必ず道は開ける。つまり、「車到山前必有路」ですね。