EOS10D日記その44 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---


2012.3.27 古事記仮説 応神天皇

神功皇后の胎内から帝位を約束されたホムダワケ=応神天皇。応神天皇は男11人、女15人の子沢山。有力な後継者は、オオヤマモリ、オオサザキ、ウジノワキイラツコ。天皇が宇治の木幡村へ行った時、美しい娘に出会い、ぞっこん惚れ込みます。それが、丸邇のヒフレノオホミの娘のミヤヌシヤカハエヒメ。丸邇一族には美人が多かったようで、しばしば皇室に嫁入りさせます。ミヤヌシヤカハエヒメが産んだのがウジノワキイラツコ。応神天皇はウジノワキイラツコを次期天皇に指名します。やはり美人の母を持つ息子が有利なようです。

応神天皇が亡くなると、後継者争いが起きます。オオヤマモリが軍を起し、ウジノワキイラツコを攻めます。オオサザキが事前にこの情報を掴み、ウジノワキイラツコに知らせます。結局ウジノワキイラツコが勝利し、オオヤマモリは宇治川で溺れ死にます。残ったウジノワキイラツコとオオサザキは互いに譲り合って天皇が決まりませんが、そのうちウジノワキイラツコが亡くなり、結局オオサザキが仁徳天皇になります。

応神天皇は実在した最古の天皇だという説が有力だそうです。このあたりになると、仮説を立てるような話はなくなりますが、前に立てた仮説にかかわる記載もありますので、読み進めて行きたいと思います。

応神天皇の時代、新羅人が渡ってきたこと、百済の国王が使者を日本に送り牡馬一頭、牝馬一頭、太刀、大鏡を献上したこと、和邇吉師(ワニキシ)が論語十巻、千文字一巻を持って来日したこと、鍛冶の卓素、機織りの西素の来日、酒造りの仁番(ニホ、またの名をススコリ)が来日し、酒を醸し天皇に献上したこと、などが記載されています。朝鮮半島から色々な物が伝わったようです。応神天皇は酒を飲んでいたようです。


2012.3.26 古事記仮説 オキナガタラシヒメ

オキナガタラシヒメ=神功皇后の系譜が残っていないと書きましたが、古事記の応神天皇(オキナガタラシヒメの息子)の所にオキナガタラシヒメの先祖が明確に書いてあります。

昔、新羅の王子アメノヒホコがいました。新羅に阿具沼の畔で賤しい女が昼寝をしていると、太陽が虹のように輝いて妊娠し、赤い玉を産んだ。これを見ていた賤しい男がその赤い玉をもらい受け腰に付けていた。この人は山の谷間の田を耕す農民で、仲間の弁当を牛の背に乗せて運んでいるところだった。これを見たアメノヒホコが言いがかりをつけて牢屋に入れてしまう。困った農民が赤い玉を差し出すと釈放された。アメノヒホコがこの玉を持って帰って枕元に置くと、美しい乙女になる。この乙女を正妻として迎えると、乙女は御馳走を作って夫に尽くす。アメノヒホコが偉そうに乙女を罵ると、乙女は小舟に乗って祖先の地である日本に逃げ帰り、難波に着いた。乙女の名はアカルヒメ。

アメノヒホコは乙女を追って難波に入ろうとしたが、神はこれを許さず、但馬の国にとどまった。ここでマエツミを妻に迎え、タジマモロスクが生まれる。その子がタジマヒネ、その子がタジマヒラナキ、その子がタジマモリ、その子がタジマヒタカ。タジマヒタカの子が葛城のタカヌカヒメ。その子がオキナガタラシヒメ=神功皇后。すなわち、新羅の王子アメノヒホコの7代後の子孫がオキナガタラシヒメ=神功皇后ということになります。

赤い玉から生まれたアカルヒメはアメノヒホコが来日するきっかけを作っただけで、オキナガタラシヒメ=神功皇后の先祖ではなかったのです。

神功皇后の祖先は新羅の王子ということですから、新羅を攻めたというより、里帰りだったのかもしれません。皇后にまで出世し、お腹の中には次期天皇が入っているわけですから、堂々たる凱旋です。

ゆっくりと新羅の観光地を回り、大陸の最先端の文化を堪能し、先祖の墓参りをし、買い物を楽しんだのだと思います。大小の魚が船を担いだという記述からはめでたいイメージを持ってしまいます。


2012.3.25 古事記仮説 神功皇后

ヤマトタケルの子タラシナカツヒコが仲哀天皇となり、その皇后がオキナガタラシヒメ=神功皇后。オキナガタラシヒメの父はオキナガノスクネ=息長宿禰王=第9代開化天皇玄孫。息長氏は滋賀県坂田郡を本拠にした豪族らしいのですが、系譜が残っておらず、謎の氏族だそうです。

神功皇后は仲哀天皇のお供で筑紫の香椎の宮にいました。天皇が琴を弾いて、神功皇后が神がかりをすると、神が新羅を攻めよと言っているらしいのです。仲哀天皇は偽りの神であると言い、琴を弾くのをやめます。これが神の怒りに触れ、仲哀天皇崩御。これは大変なことなので、お祓いをして、再び神功皇后が神がかりををして後継者について神の意志を聞きます。すると、神功皇后の腹の中にいる男の子が天皇になると言います。これは天照大神の御心だと。

神功皇后は軍を整え海に出ると、大小の魚が船を担いで新羅の国の真ん中まで運んでくれます。驚いた新羅の王は、あっさりと神功皇后に従います。さらに百済国も屯家とします。新羅で子供が生まれそうになったので、急いで筑紫に帰り、福岡県粕屋郡で出産。佐賀県東松浦郡でアユ釣りをします。筑紫から帰る途中、兵庫県付近の瀬戸内海での海戦で勝利、山城での陸戦で勝利、逢坂山と琵琶湖での戦いにも勝利します。

戦いの後、近江、若狭を経て、越前の敦賀に仮の宮殿を建てて禊をします。朝鮮出兵は一見成功したようですが、禊をするということは、あまり良くなかったのかもしれません。少なくとも国内が乱れたことは確かのようです。

ヤマトタケルの話が妙にリアリティーのある悲劇だったのに対し、神功皇后のお話は、皇后に乗り移った神が天皇を殺すとか、魚が船を運ぶなどの奇妙な記載があり、あまりリアリティーがありません。天武天皇の母である斉明天皇と兄である天智天皇の白村江の戦いをモチーフにお話を書いたら、同じ時代の生臭い出来事なので各方面からクレームがついて、書き直しているうちに妙なお話になった、ということかもしれません。


2012.3.24 古事記仮説 倭建命4

ヤマトタケルをWikipediaで調べると、悲劇ばかりではないようです。

・ 『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇(または倭健天皇命)であり、天皇と呼ばれている。

・ 妃は垂仁天皇の皇女フタヂノイリビメ。おばさんであり、助けてくれたヤマトヒメの兄弟。

・ フタヂノイリビメとの間に生まれたタラシナカツヒコが仲哀天皇となるので、苦労は報われている。仲哀天皇は下関の豊浦と福岡の香椎でに宮殿を置いており、西日本に勢力があったのかも。ちなみに、ヤマトタケルの異母弟の成務天皇は近江の志賀に宮殿を置いた。

・ 妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江一の宮建部神宮で祭神がヤマトタケルであること…などから近江=滋賀県がヤマトタケルとつながりの深いことがわかる。(地元なものでして)

・ 岩波文庫の古事記原文で、父景行天皇の記事は1ページ弱。異母弟の成務天皇3行、息子の仲哀天皇は4行。それに対して、天皇でないヤマトタケルは7ページ。

ヤマトタケルの話もまた、天武天皇が勝利した壬申の乱を連想せずにはいられません。
・ しっかりした弟が、ふがいない兄に代わってがんばった
・ 大和から伊勢を経て東国へ行き、関ヶ原のあたりから奈良を目指すのが壬申の乱の時の天武天皇の経路と似ている
・ 壬申の乱で天武側についた尾張をはじめとする東国に気を使っているように思える
・ 兄弟の天皇が大津に都を置いている
・ 息子仲哀天皇の皇后オキナガタラシヒメ=神功皇后が新羅討伐を行う。新羅討伐に消極的だった息子仲哀天皇は不審な死をとげる。天武天皇の母である斉明天皇が百済に援軍を出したのと似ている。

調べだすときりがありません。なかなか面白いお話です。


2012.3.23 古事記仮説 倭建命3

伊勢を出発したヤマトタケルは尾張でミヤズヒメと婚約しますが、すぐに東国に行かなければならないため、帰ってくるまで結婚はおあずけとなります。このあたりもすぐに子供ができる天皇とは違います。相武(さがむ)の国造の罠にはまり、野原で四方から火をかけられます。草薙の剣で草を刈り払い、袋の中の火打石で向火を焚いて窮地を脱します。ここが焼津。次に三浦半島の走水から浦賀水道を船で渡って房総半島へ向かおうとしたが、あいにくの嵐。そこで愛妻のオトタチバナヒメが入水し生贄となって嵐をおさめます。尾張のミズヤヒメとの婚約を解消したわけではありませんので、オトタチバナヒメは第二夫人だと思われます。焼津で知り合ったようです。付き合いだしてすぐに生贄になるわけですから、これも悲しいですね。ヤマトタケルは千葉方面を平定し、神奈川県の足柄、茨城の新治、筑波、信濃を経て、尾張のミヤズヒメの元に戻ります。その後、草薙の剣を持たずに伊吹山に入りますが、山の神の怒りに触れ、大氷雨に遇い気を失います。滋賀県の醒が井で意識を取り戻しますが、以前のような元気はありません。岐阜県養老、三重県の三重、桑名、鈴鹿を経て天皇の元へ帰ろうとしますが、力尽きて亡くなります。ヤマトタケルの魂は白鳥になって飛んで行った、というお話。

お涙ちょうだいの悲劇ですので、ここは泣かねばなりません。ヤマトタケルは、兄を殺したり、女装してハニートラップを仕掛けたり、友達を裏切って殺したり、婚約したのに結婚できずに戦争に旅立ったり、愛人を生贄にして海を渡ったりして、天皇からの援軍なしで苦労して九州から千葉・茨城までを平定したのに。先妻の子という理由で天皇からは愛されず、もちろん天皇にはなれず、伊吹山の大氷雨に打たれ、故郷の奈良を目前にして死んでしまった。古事記の作者が一生懸命に悲劇のエピソードを考えている姿が目に浮かびます。現在でもこれ以上の悲劇はなかなか考えられません。


2012.3.22 古事記仮説 倭建命2

ヤマトタケルは次に出雲に向かいます。イズモタケルを討つためです。まず、イズモタケルと友達になります。次に櫟の木で木刀を作ります。川で仲良く水浴びをするのですが、服を脱いだ時、一緒にこの木刀を置きます。先に川からあがったヤマトタケルは、「刀を交換しようぜ」と言ってイズモタケルの刀を取ります。後から川からあがったイズモタケルに「一勝負しようぜ」と言ってチャンバラを始めますが、イズモタケルの木刀は抜けない。こうしてヤマトタケルを斬り殺してしまいます。

熊襲と出雲を平定して奈良県磯城郡の天皇の元に帰ると、さっそく天皇から東の方十二道(伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)の平定を命じられます。東方に向かう途中で伊勢神宮に参拝し、叔母のヤマトヒメ(少女に化ける時着物を貸してくれた人)に愚痴をこぼして泣きます。

「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り參上り来し間、未だ幾時もあらねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平けに遣はすらむ。これによりて思へば、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり」

ヤマトヒメはヤマトタケルに草薙の剣と、小さな袋を渡してくれます。これが後にヤマトタケルを助けます。

古事記に明確な悲劇が登場します。ヤマトタケルは悲劇の三男坊なのです。


2012.3.21 古事記仮説 倭建命1

昨日の仮説のうち、2番目の倭建命=防衛大臣説を採用して倭建命=ヤマトタケルを読んでみたいと思います。

景行天皇は美濃国造の祖先である大根王の娘であるエヒメとオトヒメが容姿麗美と聞き、この二人を召し上げようと、最初の皇后の次男である大碓命=オホウスを派遣します。オホウスは天皇の指示を無視して、容姿麗美な二人の娘を自分の妻とし、替え玉を天皇に送ります。天皇は替え玉であることを知り、憤慨したようです(はっきりとは書かれていませんが)。

景行天皇は朝夕の食事を家族と一緒に食べていたようです。ところが、二男の大碓=オホウスは父親である景行天皇に反抗していて食事に姿を見せない。父が恋敵であったわけですから、しかたないですね。そこで三男の小碓=ヲウス=ヤマトヲグナ=後のヤマトタケル=倭建命に兄を食事に連れてくるよう命じます。五日たっても二男のオホウスが食事に姿を見せないので、三男のヲウスに聞いたところ、朝トイレで待ち伏せして、つかみ潰して、手足をもいで、菰に包んで捨てたと言います。何も殺さなくてもと思いますが、多分天皇が怒って三男に次男を処刑させたのだと思います。後継者争いにおける兄弟殺しは普通ですが、ヤマトタケルの場合、兄を殺してもやはり天皇に愛されず、全国の賊を平定しても後継者とはなれなかったところが悲しいようです。

景行天皇は荒々しい性格の三男ヲウスに熊襲(熊本、鹿児島)にいるクマソタケル兄弟を征伐するよう命令します。ヲウスはまだ美少年だったようで、叔母ヤマトヒメの衣装を借りて美少女に化け、敵の宴会に潜入します。宴会が盛り上がってくると、酔ったクマソタケル兄弟が美少女ヲウスを見つけ、近う寄れ、苦しゅうない。まんまと敵の懐に飛び込んだヲウスは隠し持った短剣でクマソタケル弟の胸を刺す。逃げるクマソタケル弟を追い、さらに尻から刺し通す(痛そう)。刺されたままクマソタケル弟が美少女の名を尋ねると、景行天皇の息子ヤマトヲグナ、天皇の命令により成敗に参った。クマソタケル弟は天皇の命令と聞いてギブアップ。自分のタケルという名を贈るので、ヤマトヲグナからヤマトタケルになってくれと言い残して死ぬ。女装したオカマにだまされたあげく、剣で尻を刺されて死ぬ間際に自分の名を贈るというのはどうかと思いますが、まあそう書いてあります。

(ksmt.com仮説)
景行天皇は全国にはびこる半朝廷勢力に悩まされていた。祖父の崇神天皇が一旦討伐を行ったが、その効果は既に薄れてしまった。再度討伐軍を編成せねばならない。討伐軍の指揮官に先妻の三男のヲウスを指名したいが、軍から信任を得るためには厳しい昇格試験を実施しなければならない。

一次試験: 先妻の次男であり同母兄であるオホウスの処刑。私が好きな容姿麗美のエヒメとオトヒメ姉妹を寝とったばかりか、替え玉を送ってきたのは許せない。後妻のヤサカノイリヒメの子どもがかわいいので、先妻の子供f同士が殺し合っても別にかまわない。

二次試験: クマソタケル兄弟と剣道の試合。クマソタケル兄弟の尻を刺したら勝ち。女装など、あらゆる手段を使っても良い。

一次、二次の両試験を見事にパスしたヲウス=ヤナトヲグナは、防衛大臣に就任。試験管であるクマソタケル弟はお尻を押さえながら、ヲウスに第二代ヤマトタケルの称号を授けた。


2012.3.20 古事記仮説 景行天皇

第12代景行天皇には子どもが80人いたそうです。その中で注目すべきは、三男の倭建命の曾孫スメイロオホナカツキコの娘であるカグロヒメを娶って大枝王を産ませていることです。さすが長寿の天皇だけあって、100歳を超えてもなお精力絶倫だったようです。(5代後の娘に娶っているわけですから、多分100歳くらいだと思います。これは古事記の編集ミスとの説もありますが、なにしろ同じページ(岩波文庫)に記されたことなので、誰でも簡単に気付きます。従って意図的に書かれたものと考えるのが自然だと思います。

(ksmt.com仮説)
1. 景行天皇が100歳を超えても元気だったことを示す逸話
2. 倭建命(ヤマトタケル)は人命ではなく役職名。後の征夷大将軍とか、防衛大臣のような役職。ヤマトタケルは複数いて、景行天皇は100年ほど前に活躍した征夷大将軍の娘を娶った。これとは別に、自分の三男を征夷大将軍に任命した。
3. そろそろ読者が古事記に飽きてきたところなので、わざと間違いを入れて刺激を与えた。

若帶日子命[わかたらしひこのみこと]と倭建命、亦五百木之入日子命と此の三王[みはしら]は、太子[ひつぎのみこ]の名を負ひたまひ(古事記景行天皇条全訳註より引用) 皇太子が三人もいたのは異例のことだそうです。太子は次期天皇兼行政責任者のような立場ですから一人であるのが普通です。諸国が乱れて行政が困難になったため、トロイカ体制をとったのかもしれません。

ワカタラシヒコは成務天皇となります。小碓=ヲウス=ヤマトヲグナ=後のヤマトタケル=倭建命は東西の荒ぶる神、また伏はぬ人等を平けたまひき、つまり全国の反乱軍を平定してまわりますが大きな功績をあげますが、故郷のヤマトと、愛してくれない父を思いながら帰路で死にます。

景行天皇の最初の皇后であるハリマノイナビノオホイラツメから生まれたのが小碓=倭建命。二番目の皇后ヤサカノイリヒメから生まれたのがワカタラシヒコ=成務天皇。景行天皇は後妻の子をかわいがり、先妻の子につらい仕打ちをした。ヤマトタケルがかわいそう。というふうに読めます。


2012.3.19 古事記仮説 丸邇臣

稲羽の素兎や山彦海彦に登場する鮫(わに)が櫟本の丸邇氏のことではないかと思うのですが、丸邇氏は崇神天皇の所で登場します。

崇神天皇は伯父のオオビコを高志の道(北陸地方)、その子タケヌナカワワケを東の方十二道(伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)の平定に送ります。また、異母弟の日子坐王(ヒコイマス)を丹波に送り、クガミミノミカサを討ちます。日本書紀には吉備津彦を西道に遣わしたとあるそうです。つまり、賊(朝廷に従わないもの)の討伐を日本全国で行ったわけです。

オオビコの異母兄タケハニヤスが山城で反乱軍を起したとの情報が入り、オオビコはヒコクニブクとともに討伐軍を山城に進めます。木津川まで来るとタケハニヤス軍が待ち構えていました。ヒコクニブクがタケハニヤスに先に矢を放つように(開戦のしるし)促すとタケハニヤスが矢を射ますが、どこにも当たりません。お返しにヒコクニブク矢を放つと、タケハニヤスに見事命中します。これで勝敗が決し、タケハニヤス軍は背走します。オオビコ・ヒコクニブク軍は簡単に勝利をおさめます。

ヒコクニブクが丸邇臣の祖となったのだそうです。ヒコクニブクは弓の名人だったのでしょう。一本矢を放っただけで、第8代孝元天皇の子(崇神天皇の伯父さん)の反乱軍に勝利してしまいます。丸邇臣の軍事的な功績が大きかったので、古事記の説話に何度も登場したのだと思います。丸邇臣の本拠は天理市付近ですから、飛鳥、橿原、三輪あたりの奈良盆地南部にある首都を北方(京都、近江、北陸方面)の反乱軍から防衛するには、丸邇臣の協力が必要だったのだと思います。


2012.3.18 古事記仮説 崇神天皇

第10代崇神天皇の時代、伝染病が大流行して人民が死に絶えそうになった。ある夜、大物主が崇神天皇の夢の中に現われ、オオタタネコを探して大国主を祀れば平安が訪れるだろうと告げる。オオタタネコを探したところ、八尾市のあたりで発見。天皇が名を尋ねると、「大物主とイクタマヨリビメの子がクシミカタ、その子がイイカタスミ、その子がタケミカヅチ、その子が僕、オオタタネコである」と答える。崇神天皇はオオタタネコを神主に任命し、大物主を三輪山の大神神社に祭った。

イクタマヨリビメは容姿端正(かたちうるわ)しくありき。夜毎に立派な身なりの男がイクタマヨリビメの寝室にあらわれ、イクタマヨリビメは妊娠する。両親が怪しんで、針に長い麻糸を通しておいて、夜に男が訪ねてきたら着物の裾に差すようにと指示。朝になって確認すると、糸は戸の鍵穴から外へ出て、部屋の中にはわずか三輪の糸が残るばかり。男は鍵穴を抜けて出て行ったのである。どうりで両親が夜の侵入者に気付かないはず。糸は山の神社へと続いていたため、男が神であると判明。この後、この地を三輪と呼ぶようになった。

(ksmt.com仮説)
まあ、これは神主さんのウンチク用のエピソードですね。氏子さんに三輪山や大神(おおみわ)神社の由来を聞かれたら、このように答えましょうという回答例。これを聞いた氏子さんは大いに感心し、物知りな神主さんを尊敬することでしょう。

現在では義務教育で地理や歴史や国語を習うし、テレビとかラジオとか新聞とかのメディアもあるので、日本が主要都市の場所や気候や特産品や、その土地ゆかりの有名人を知っています。でも、飛鳥時代にはそのような情報はなく、自分または知人が徒歩または船で行ける所の情報しか得られなかったと思います。朝廷の公務員が何も知らないと困りますので、古事記や日本書紀を使って日本各地の地名や、ゆかりの人物を学習し、地方への赴任に備えたのかもしれません。「博識」というのは行政を行う上で大いに役立ったことでしょう。


2012.3.17 古事記仮説 綏靖天皇

大物主命の娘であるヒメタタライスケヨリヒメ(省略してイスケヨリヒメ)は神武天皇の皇后となり、ヒコヤイの命、カムヤイミミの命、カムヌナカワミミの命の三男神を産みます。神武天皇が亡くなると、日向で生まれた神武の子であるタギシミミが義母であるイスケヨリヒメを娶って、三人の義弟を殺そうとします。イスケヨリヒメからこれを聞いたカムヤイミミとカムヌナカワミミは逆に義兄のタギシミミを殺害します。最初兄のカムヤイミミが殺害を試みますが、体が震えて殺せそうにないので、弟のカムヌナカワミミが殺害を実行します。この事件の後、殺せなかったことを恥じた兄カムヤイミミが身を引き、弟のカムヌナカワミミが第二代綏靖天皇を即位します。

大国主は末弟ですし、山彦は弟ですし、カムヌナカワミミも末弟。古事記は全般において弟の方が兄より優遇されています。一般に言われるように、古事記の作者が発注者である天武天皇に気を使って弟優位の神話を造ったのだと思います。

義理の母を妻にして、妻の実子=義弟を殺害しようと試みたが、妻に裏切られ、逆に義弟に殺された、というのは古事記の世界では普通です。これも読者を飽きさせないためのサービスなのだと思います。


2012.3.16 古事記仮説 大物主

神武天皇は東征の前に日向でアヒラヒメを妻とし、タギシミミとキスミミという二人の子供をもうけました。奈良の橿原の宮で天下を治めるようになり、皇后を迎える必要がでてきました。オオクメノミコトが神の子であるイスケヨリヒメを推薦します。母はセヤダタラヒメ。美しいので三輪の大物主が見染め、生まれた子がイスケヨリヒメ。ここの古事記の記述は以下の通りです。

「その容姿うるわしくありき。故、美和の大物主神、見感でて、その美人の大便(くそ)まれる時、丹塗矢に化りてその大便まれる溝より流れ下りて、その美人の陰を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。すなはちその矢をもち来て床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫になりて、すなはちその美人を娶して生める子、名はホトタタライススキヒメノミコトと謂ひ、亦の名はヒメタタライスケヨリヒメと謂ふ。故、ここをもちて神の御子と謂ふなり」

丹塗矢と言うのは赤く塗った矢のことで、雷神のことだそうです。大物主は無茶をしますね。美人のセヤダタラヒメが厠で用を足していると、赤い矢に変身した大物主が厠の下から美人の陰部に突き刺さったと書いてあります。下品なエピソードで、映画化は難しいと思います。生まれた娘の名はホトタタライススキヒメノミコト。あそこがとても良い姫という意味だそうです。さすがにこれはかわいそうなので、ヒメタタライスケヨリヒメに改名したそうです。といういことは、大物主は、あそこの大きな神様、と解釈するのが素直かもしれませんね。

大物主は大国主の別名で、大伴氏と物部氏のことだと思っていたのですが、怪しくなってきました。

(ksmt.com仮説)
大和朝廷を守るためには、古事記をちゃんと最後まで読んでもらい、ちゃんと呪いをかける必要があった。しかし漢字を読むのは難しく、ほとんどの人は数ページで挫折してしまうことが予想できた。印刷技術がなっかた時代は、筆で書き写してもらう必要があったが、こちらも途中で飽きて放り出す人が多いだろうと予想された。これではいけないと、多数のエロ、グロ、恋愛、残虐、スリル、サスペンスなどのエピソードが挿入された。このおかげで古事記は広く読まれ、予定通り呪いがかかり、長く天皇家の権威を保つことができた。


2012.3.15 古事記仮説 神武東征

神武天皇は兄イツセとともに高千穂を出て、東に向かいます。まず大分の宇佐に行きます。大分は祖母と母の実家がありますから、藪入のようなものでしょう。次に福岡の岡田の宮に一年滞在、広島に七年、岡山に八年、ここで一旦豊後水道まで戻り、その後大阪へ。東大阪のあたりはまだ河内湖と呼ばれる湖だったようで、ここで東にある生駒山の豪族ナガスネヒコ軍と戦います。ここでイツセは矢を受け重傷を負います。

イツセは日の御子であり、太陽に向かって戦うのは良くないそうでして、一旦大阪湾に戻り、和歌山へ南下。しかし、紀ノ川の河口付近でイツセ死去。神武はさらに熊野へ船を進めます。イツセが生きていたら伊勢まで行って東から大和に入ったかもしれませんが、神武は熊野から大和を目指します。しかし、熊に襲われて失神し、断念。和歌山へ引き返し、吉野川を遡ります。五條から吉野を経て宇陀に到ります。宇陀でエウカシの罠にはまりかけますが、エウカシの弟のオトウカシの密告や、神武の重臣であるミチノオミ(大伴氏の先祖)やオオクメ(久米氏の先祖)の活躍で勝利します。そして、桜井市の長谷寺の付近から伊勢へ向かい、途中トミビコを討ち、エシキ、オトシキを討ちます。しかしこのへんで兵士が疲れたようで、ニギハヤビが援軍にやってきます。ニギハヤビが先に滅ぼしたトミビコの妹トミヤビメを娶って産んだ子がウマシマジで、物部氏、穂積氏、采女氏の先祖となります。神武は奈良の畝傍山に到り、橿原の宮において天下を治めることにしました。

やっぱり、「港町ブルース」ですね。順番とかエピソードはそれほど重要ではなく、とにかく地名をたくさん書き出すことが重要。別の言い方をすれば、瀬戸内海帝国の防衛拠点の地名を書くことにより呪いをかけているのです。古事記に出てきた土地では神武東征ゆかりの地として自慢できるわけですから、反乱を起こしずらい。奈良盆地の中なら、歩いて呪いをかけてまわることにより防衛することができたかもしれませんが、九州から伊勢に到る瀬戸内海帝国にくまなく呪いをかけてまわるのはしんどい。そこで古事記に地名を書くことにより、効率的に呪いをかけたのだと思います。兵士を各地において武力で防衛するより、よほど効率的な方法だと思います。

(ksmt.com仮説)
九州南部から福岡、広島、岡山、大阪、和歌山、三重、奈良の主要な地名を神武東征ゆかりの地として古事記に記載。この広大な地域を軍事力fだけで防衛することは物理的に困難である。また、全地域に徒歩で呪いをかけてまわることも困難である。そこで、紙と文字という最新兵器を使用することにより、簡単に呪いをかけることが可能となった。呪いをかけられた地域における反乱は激減し、軍事費を使うことも戦死者を出すこともなく反乱を鎮圧し、また未然に防止することができた。


2012.3.11 古事記仮説 神武天皇

山彦は朝廷の先祖となり、トヨタマビメはウガヤフキアエズ(鵜萱草葺不合、萱草の代わりに鵜の羽根を葺いて産屋を建てたが、屋根を葺き終わる前に出産したので)を産みます。トヨタマビメが出産するところを見てはいけなかったのですが、山彦は覗いてしまいます。トヨタマビメは実は巨大な鰐で、身をくねらせて出産していました。これを恥じたトヨタマビメは海中に帰り、代わりに妹のタマヨリビメを送り、ウガヤフキアエズを養育してもらいます。成長したウガヤフキアエズは乳母であるタマヨリビメと結婚し、4人の男神を産みます。長男は五瀬命(イツセノミコト)、二男は稲氷命(イナヒノミコト、母の国海原に帰る)、御毛沼命(ミケヌニミコト、波の穂を踏みて常世国に渡る)、そして四男が若御毛沼命=豊御毛沼命=神倭伊波礼毘古命=カムヤマトイワレビコ=後の神武天皇です。

「名は体を表す」と言います。私は古事記が語呂合わせ的な要素が多いと思います。現代では日本語に当てる漢字が定着していますが、古事記が書かれた頃は前例がなかったと思われます。したがって、勝手に好きな漢字を当てる以外に方法はなく、古事記全体が語呂合わせであるとも言えます。古事記を前例として、日本語の漢字表記が行われたのだと思います。

トヨタマビメは豊国=大分の人で、山彦は持ちかえって玉を使う。和邇氏の娘。

(ksmt.com仮説1)
山彦が大分出張の時に知り合ったトヨタマビメは、玉を使う占い師。嫌いな人に呪いをかけることができる。ある日、トヨタマビメが高千穂の宮殿にやってきて、山彦に妊娠したことを告げる。最初は認知しないと言っていた山彦だが、トヨタマビメが大富豪の和邇氏の娘だと知ると、急に態度を変え結婚を迫る。トヨタマビメは山彦の態度が気に入らず、ウガヤフキアエズを産んだ後、大分に帰ってしまう。父の和邇氏は朝廷との婚姻を望むが、トヨタマビメがどうしても高千穂には帰らないというので、かわりに妹のタマヨリビメを送る。タマヨリビメはその美貌でウガヤフキアエズを誘い、見事にゴールイン。四人の男子を産み、一番下の弟が後に奈良・磐余の地に引越して神武天皇となった。

(ksmt.com仮説2)
古事記は大和朝廷の役人に向けた就業規則である。最近国家機密や、個人情報の流出が相次ぎ、大きな問題となっている。見るなと言われたものは決して見てはいけない。日本の国土と神々を産んだイザナギ命でも見てはいけないものを見てしまったので最愛のイザナミが生き返る可能性を失った。朝廷の先祖である山彦も見てはいけないトヨタマビメの出産を見たために、最愛の妻を失った。ましてや低い身分の者が朝廷の秘密を漏らした場合には一族郎党皆殺しである。


2012.3.10 古事記仮説 山彦海彦

ニニギは笠沙でコノハナノサクヤビメに出会います。コノハナノサクヤビメは一夜にして身籠り、兄の海彦と弟の山彦を産みます。海彦はその名の通り海で魚を獲る漁師で、山彦は山で獣を獲る猟師です。山彦は好奇心旺盛で、いやがる兄から釣り針を借りて魚釣りに出かけます。魚は一匹も釣れず、悪いことに兄が大切にしている釣り針をなくしてしまいます。兄から返却を命じられますが返すことはできません。自分の刀を壊して五百個の釣り針を作って差しだしても受け取ってくれません。さらに千個に増やしてもなお受け取ってくれません。山彦が途方に暮れて浜辺へ出ると、シオツチの神があらわれ、船で海神の宮殿に案内します。ここで海神の娘であるトヨタマビメに出会い、恋に落ちます。海神の宮殿での生活が三年が過ぎた頃、山彦は釣り針のことを思い出します。海神が魚たちに聞いてみると、鯛の喉に引っかかっているのを発見。山彦は釣り針を持って兄海彦のところへ帰ります。海神が言うには、「貧乏釣り針だ」と言って後手(しりへで)に賜へ(呪いをかける行為)。こうすると海彦は三年で貧乏になると。海神はまた二個の玉を山彦に授けます。ひとつは洪水を起こすもの、もうひとつは旱魃を起こすもの。来るときは船でしたが、帰りは鮫(ワニ)が送ってくれました。

釣り針を返すとき兄に呪いをかけたので、二個の玉の効力が発生し、兄海彦は海神の予言どおり三年で没落。山彦は大和朝廷の先祖となり、海彦は子孫はその家臣となります。

要するに、山に関係ある弟が、海に関係ある兄に呪いをかけ、政権を奪取したということですね。たぶん、あれのことですね。

(ksmt.com仮説)
兄の天智天皇は百済の要請に応じ、水軍を朝鮮に派遣。数的には優勢だったにもかかわらず、白村江の戦いで負けてしまった。さらに天智天皇は唐・新羅軍の追撃を恐れ近江大津京に都を移したが、どしらも金がかかり財政赤字が膨らむばかり。これを見かねた弟の大海人(名前は海ですが、後に吉野にこもるので、山彦のモデルだと思います)は、緊縮財政を提案するが、兄は頑として受け入れない。天智政権には百済系の渡来人が多く、形勢不利と見た大海人は、一旦吉野に退く。ここで瀬戸内海の海賊を味方に付け、伊勢・美濃方面の豪族の協力を得、最後に和邇氏など奈良盆地の有力な豪族と話をつける。天智天皇の崩御を待って美濃から大友皇子を攻め、政権奪取に成功する。瀬戸内海の海賊から教わったとおり、吉野山から大友皇子に呪いをかけたのが勝因だった。


2012.3.9 古事記仮説 天孫降臨

タケミカヅチノオと大国主の間で交渉が成立。アマテラスの親であるイザナギとイザナミによって造られた大八島国=水穂国=日本は、大国主によって農地開発された後、再び高天原のアマテラスに返還されることになります。今で言うと大国主はゼネコンのようなもので、高天原から請け負った公共事業が竣工し、施主であるアマテラスに引き渡す日がやってきました。

アマテラスはそのまま高天原にとどまり、長男のアメノオシホミミに大八島国=水穂国=日本に転勤を命じる予定でした。しかし、大国主との交渉に予想外に時間がかかります。ホヒが三年、アメワカヒコが八年ですから合計11年、ナキメやタケミカヅチノオもそれなりに時間がかかっているでしょうから、20年くらいかかったかもしれません。アメノオシホミミに転勤辞令が出た時にはまだ幼かったニニギも、既に成人し、高天原政府の幹部候補生となっていました。一方、アメノオシホミミは政府高官としての激務に疲れており、そろそろ引退を考えていました。そんなこんなで、転勤者はニニギに変更になりました。ニニギはアマテラスの孫ですから、天孫と呼ばれます。

ニニギはアメノコヤネ、オモイカネ、タヂカラオ、アメノイワトワケなどの有力な神々を連れて高天原を出発し、サルタビコの案内で高千穂に降り立ちます。そこから海へ向かい、笠沙の御前に至り、そこに宮殿を建てます。笠沙は薩摩半島の南西部じ実在するそうです。高千穂から笠沙に至る行程は読んでも良く分かりません。色々な地名が出てくることが重要で、その順番とかはあまり重要ではないようです。つまり、森進一の「港町ブルース」のようなものですね。函館、宮古、釜石、気仙沼、三崎、焼津、御前崎、高知、高松、八幡浜、別府、長崎、枕崎、鹿児島。自分の町の名前が出てくるとうれしいので、ついレコードを買ってしまう。自分の故郷の地名が古事記に出てくてると、つい大和朝廷を支持してしまう、ということのような気がします。

(ksmt.com仮説)
天武天皇は本拠地である奈良、大阪、京都を中心とする近畿圏と瀬戸内海については完全に掌握していたが、北陸、山陰、九州南部については十分ではなかった。各地に有能な血縁者を配置してはいたものの、すぐに土着化してしまい、なかなか中央集権化がきない。そこで、古事記を使ったキャンペーンを開始。説話の中に全国各地の地名をふんだんに盛り込むことにより、朝廷の支持者を増やす作戦。特に反政府勢力の強い九州南部を天孫降臨の地とすることにより、反対勢力の中に支持者を増やした。同時に中央から派遣した役人を鼓舞し、土着化を防いだ。


2012.3.8 古事記仮説 タケミカヅチノオ

大国主命は古事記では大活躍をしますが、日本書紀には登場しません。もし大国主が大伴氏と物部氏のことであれば、先に出版された古事記を見て、藤原氏からクレームが出たのかもしれません。あまりに大伴氏と物部氏の活躍が大きく取り上げられているものですから。ひょっとすると、大国主は実は藤原氏のことで、他の豪族からクレームがついたのかもしれません。

アマテラスは自分の父母であるイザナギとイザナミが造った大八島国が大国主など活躍で繁栄しているのを喜びます。しかし、本来はアマテラスの長男とも言うべきアメノオシホミミが大八島国=水穂国=日本を治めるべきだと考えます。アメノオシホミミは地上が騒がしいのに恐れをなして、もう少し様子を見ることにします。会議の結果、大国主に国を譲るよう交渉するのは、スサノオの息から生まれたホヒの命が適任ということになります。ホヒの命は出雲に地縁があるからです。ところが、ホヒの命は昔なじみの大国主に媚びてしまい、赴任後三年たっても報告がありません。そこで若くて強いアメワカヒコに弓矢を持たせて派遣します。武力で威嚇する作戦です。しかし、大国主に懐柔されて、八年たっても報告がありません。そこで雉の女神であるナキメを送り、アメワカヒコに報告を要請します。ところがアメワカヒコはアマテラスに持たせてもらった弓矢でナキメを射殺。矢はナキメの胸を貫通して、高天原のアマテラスの所まで届く。タカムスヒがこの矢を射返して、アメワカヒコは即死。

アマテラスは四度目の使者を地上に送る。スサノオの剣から生まれたオハバリの命の息子タケミカヅチノオ。これは地上軍。もうひとりアメノトリフネ。こちらは水軍。高天原の正規軍とは戦えないと判断した大国主は、あっさりと国を譲る決断をし、出雲神社に隠居してしまいます。

(ksmt.com仮説)
大国主=大伴氏と物部氏、または反乱軍一般

朝廷の指示で奈良盆地、北陸地方、山陰地方の農地開発を行った大伴・物部連合は強大な勢力を持つようになった。朝廷は危機感を抱き、4度に渡り使者を送り、国を譲るよう要請する。最初は平和的な交渉だったが、最後には武力鎮圧に乗り出す。まともに朝廷を戦うのは無理だと判断した大伴・物部連合は結局朝廷に従い、国を譲る決断をする。そもそもアマテラスは大国主の叔母さん(妻の父の姉)ですし、まあ一族の内輪もめというところでしょうか。大国主でさえあっさりと服従したのですから。勝ち目はないので反乱はしない方が得ですよ、という大和朝廷からのメッセージです。


2012.3.7 古事記仮説 スクナビコナ2

昨日の仮説は明快ではありますが、面白くない。実はこれより先に思いついた仮説があります。

(ksmt.com仮説2)
大国主=葦原色許男=排水路を担当する部門。大規模な土木工事が専門。大伴氏と物部氏。
スクナビコナ=灌漑用水路を担当する部門。小規模な給水路工事や、給水時期の調整など、農業の専門家。渡来人。

奈良盆地や北陸山陰地方の農地開発には重要な工事が二種類あった。ひとつは排水路の確保。低湿地や沼地においては、まず最初に排水路の掘削、浚渫、河川の河床を上げるための堤防建設などの大規模な土木技術が必要だった。これは、堅い根を切り、重い土を大量に運ぶ重労働だったため、屈強な軍隊が任務にあたった。これを指導したのが葦原色許男=大国主。

次に必要になるのは、水田を灌漑するための小さな用水路や、水を確保する溜池、暦に基づく作付計画と給水計画などである。高度な農業技術が必要。軍事力を持たず派手な活動をしなかったため、古事記の中に記述が少ない。

櫛状に排水路と灌漑用水路が整備されたことにより、未開の沼地は豊葦原の水穂の国となった。


2012.3.6 古事記仮説 スクナビコナ1

新潟県糸魚川付近のヌナカワ(沼河)までやってきた大国主(ここでは八千矛)は、ヌナカワヒメに求婚します。八千矛は武器をいっぱい持っていて強いぞ、という意味のようです。アスハラシコオ(葦原色許男)よりは相当に格式の高い名前になっていますが、やっていることは同じ。まあ、秀吉が、木下、羽柴、藤原、豊臣と改名するようなものでしょうか。めでたくヌナカワヒメと結婚したは、新潟に神の子孫を残し、北陸における朝廷の支配を確実なものにしたと思われます。沼河ですからやはり農地開発です。奈良盆地の開拓で経験をつんだ大国主の指導のもと、新潟県は日本有数の米所になったのかもしれません。

大国主の遠征は続きます、福岡県のタキリビメ、カムヤタテヒメなど。天智天皇の後宮天武天皇の後宮でもふれた通り、またハプスブルグ家もそうですが、婚姻は古今東西、政治的に大きな意味を持ちました。大国主が全国に血縁関係のある支配階級を育成したのだと思います。

大国主が島根県の海辺にやってきた時、沖の方からガガイモの実の殻の船に乗った、米粒ほどの小さな神様と出会います。大国主が名前を聞いても返答がありません。案山子に聞くと、神産巣日神の息子のスクナビコナ神との回答。神産巣日神は以前大国主が八十神に殺された時に復活させた命を司る神。神産巣日神に問い合わせると、神産巣日神の手俣より漏しき子ぞ。葦原色許男と兄弟になって、国を造り固めよ、との指令が下ります。

スクナビコナ神については記述が少なく、どのような神か分かりません。ガガイモの実が漢方薬であることから薬の神、神産巣日神の指の間からこぼれたことから、水の神、米の神、酒の神との説も。鏡を配って歩いたので、鉄や銅などの金属の神であるとの説もあります。朝鮮半島から船に薬や、米の種や、酒や、鉄・銅の地金を持ってやってきたと考えるのが自然だと思います。小さい神、というのをどう解釈するかが問題。

(ksmt.com仮説1)
スクナビコナ=天智天皇
大国主=葦原色許男=大物主=大伴氏と物部氏

天智天皇が百済復興のため援軍を白村江に送ったのは失敗でだった。天智天皇は政治家としての能力が低い、小さい人である。しかし、小さいとはいえ全く評価できないわけではない。朝鮮半島からの帰りに、船にたくさんのお土産を積んできた。作物の種子、技術者、酒、薬、金属の地金、などを持って帰ってきた。天智天皇の崩御後、天智天皇の一族には、大伴氏や物部氏とともに国土の開発と人民の幸福のために尽力してほしい。このような寛大な処置をする天武天皇は器量の大きい有能な政治家である。今後は朝鮮出兵のような無駄な経費を削減し、天皇家の歳入確保と民の幸せのために国内の農地開発に専念する、というのが天武政権の施政方針である。


2012.3.5 古事記仮説 根の堅州国

評判の美女ヤガミヒメは八十神の求婚を断り、素兎の予言通り大国主を選びます。怒った八十神は大国主殺害します。焼いた大石を抱かされたり、大木を裂いて挟んだり。何度も殺されますが、そのたびにカミムスヒ(人間の生命を司る神)に助けられます。大国主は一旦紀伊の国のオオヤビコのところに逃れますが、そこも危険なので、スサノオのいる根の堅州国を向かいます。根の堅州国へ行くと、スサノオの娘スセリビメに出会い、お互いに一目ぼれ。スセリビメはスサノオに大国主を紹介しますが、当然スサノオは気にいらない。大国主にアスハラシコオ(葦原色許男)というあだ名を付けます。シコオは醜男(醜い男)との説もありますが、色許男という字からはスケベ男みたいな印象を受けます。ヤガミヒメ求婚の件で追われて来た根の堅州国で、いきなりスセリビメと出来てしまうわけですから、適当なあだ名だと思います。

スサノオは大国主を毒蛇の部屋に寝かせたり、百足と蜂の部屋に寝かせたり、野原に鏑矢を取りに行かせて火を放ったり、スサノオの髪についた百足を取らせたりして大国主をいじめます。そのたびに救援者が現われ、苦境を何とか切り抜けることができます。スサノオが寝ている間に大国主とスセリビメは根の堅州国から駆け落ちします。黄泉比良坂(以前イザナギ命が黄泉の国から逃れてきた所)まで来たところで根の堅州国からの脱出に成功。最後にはスサノオのふたりの結婚を許します。スサノオの承認を得た大国主は八十神を倒し、大きな宮殿を建てて地上に君臨することになります。

(ksmt.com仮説)
スサノオ=天皇
大国主=大物主=葦原色許男=大伴氏と物部氏
黄泉比良坂=滋賀県の比良山付近
根の堅州国=農地開発中の奈良盆地。農地開発には、木や竹の根を切る必要があるが、鉄器が不足している時代においては、非常に困難だったと思います。実家の植木屋の手伝いで大きな木を移植したことがありますが、根を切るのは本当に大変です。鉄製のノコギリがないと無理fです。

農地開発中の奈良盆地は、まだ沼地で、葦が茂り、毒蛇や百足は蜂が多い未開の地。特に木や竹の堅い根を切る土木工事は、鉄器不足のため困難を極め、多数の犠牲を出した。朝廷は大伴氏と物部氏に開発の指揮を委任。困難な事態が発生すると、朝廷の権威と武力で問題を解決した。大伴氏と物部氏は反発する他の豪族を抑え、原住民との血縁関係を築き、堅い根を切り、奈良盆地の農地化をついに完成させた。

農地化が済むと、もはや強力な豪族は不要。朝廷は大伴氏と物部氏を奈良盆地から追い出し北陸・山陰地方の開発を命じた。大伴氏と物部氏は当然大いに不満だった。大和朝廷は反乱を防ぐため、大伴氏と物部氏を大物主という神に昇格させ、天皇の娘を嫁がせ、山陰地方を支配することを許した。その契約書として、これを古事記に記載し、全国に公示した。


2012.3.4 古事記仮説 稲羽の素兎2

稲羽の素兎に対して、もうひとつ仮説を立てたいと思います。

(ksmt.com仮説2)
素兎=中大兄皇子=天智天皇
大穴牟遅=大国主命=大物主=天武天皇=大海人
オ岐の島=朝鮮

百済の要請に応じて朝鮮へ出兵した中大兄皇子は、人員や船舶数では圧倒的に有利だったにもかかわらず白村江で破れ、斉明天皇は九州で崩御。沈没を免れた船が朝鮮から九州に帰ってきたとき、中大兄皇子は初めて損害の大きさを知る。中大兄皇子は和珥氏(わにうじ)の力を借りて近江大津京に遷都し唐・新羅軍の追撃に備える。しかし、最後は和珥氏(わにうじ)にも見捨てられ政権運営が困難になる。大海人はこれまで兄の天智天皇とは距離を置いていたが、ここは一旦兄を助けることにする。この時の行動により朝廷内部に大海人の支持者が増え、後の壬申の乱で役にたつのである。


2012.3.3 古事記仮説 稲羽の素兎1

稲羽の素兎は有名ですがなかなか解釈が難しいです。気多の前を通りかかった大穴牟遅が泣いている稲羽の素兎を見つけてどうしたのかと聞く。素兎がオ岐の島から海を渡って帰るとき、鮫(ワニ)をだまして一列にならばせ、背中の上をぴょんぴょん跳ねて帰ってきた。しかし、もう少しというところで鮫(ワニ)をだましたことがばれて、皮を剥がれてしまった。痛くて泣いていると八十神が通りかかり、塩を塗って山の上で寝るように言われた。そうしたらますます痛くなったので泣いている。穴牟遅が真水で体を洗って蒲の花粉を敷いたところに寝転がれば傷は癒えるとアドバイス。これで素兎は復活。

穴牟遅=大国主=大物主はいったい誰なのか? 兎は誰なのか? 稲羽はどこなのか? 気多の前はどこなのか? はっきりしたことは誰にも分からないので、思い切った仮説をたててみました。

(ksmt.com仮説1)
稲羽=水田開発中の奈良盆地
素兎=天武天皇=大海人 海を渡る人なので
鮫(わに)=和珥氏(わにうじ)=孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)の子孫。 5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族。
大穴牟遅=大国主命=大物主=大伴氏と物部氏
気多の前=北(きた)=奈良県北部の石上神宮付近。物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫であったと言われる。
オ岐の島=畝傍山(直感だけで、まったく根拠はありません) 奈良盆地がまだ沼だったとき、畝傍山は島だった

若き大海人は、奈良盆地の水田開発プロジェクトの完了を目指していた。すでに2/3以上農地化されていたが、南部の畝傍山から北部の天理のあたりがまだ沼のまま残っていた。櫟本を支配する和珥氏(わにうじ)との交渉が最後になって決裂したためである。単身交渉に臨んだ大海人であったが力およばず、怒った和珥氏(わにうじ)にみぐるみ剥がれて沼のほとりに放り出された。和珥氏(わにうじ)は大海人の兄であり最大の政敵でもある中大兄皇子の支持者だったからである。櫟本より少し南の石上神宮にいた物部氏は大海人を助ける決断をする。昔から和珥氏(わにうじ)との領土争いが絶えなかったし、中大兄皇子が推進する朝鮮出兵や近江大津京建設にも反対だった。これ以上の増税には耐えられなかった。物部氏とこれに賛同する大伴氏は、大海人を吉野に逃がし、同じく増税に反対する伊勢・美濃勢力の支援を取り付け、政権奪取へと動き出した。

この仮説には難点が多いですが、この後徐々に改良して行きたいと思います。


2012.3.2 古事記仮説 ヤマタの大蛇

スサノオがある家を訪ねると、父アシナヅチ、母テナヅチ、娘のクシナダヒメが泣いています。8人いた娘のうち7人は既に大蛇に食われ、今年は末娘のクシナダヒメの番だと。大蛇は頭が8つ、尾が8つ、体には木が茂り、長さは山八個分くらい。スサノオはクイシナダヒメと恋に落ち、大蛇対策に取りかかります。

濃い酒を作り、垣をめぐらせて八つの入り口を作り、各入口に酒の入った桶を置く。大蛇はまんまと罠にかかり、酒を飲んで酔い潰れる。スサノオは大蛇を切り刻み、尾から草薙の剣を取り出す。

ヤマタの大蛇は、大和川のこと。八つに分かれ、山八つ分くらいの大きさというのは、奈良盆地の中の大和川のことですね。洪水と渇水を繰り返し、奈良盆地の農民を苦しめます。クシナダヒメは櫛状に配置された用水路と排水路を持つ優れた水田のこと。アシナヅチ、テナヅチは、鉄器を持たす、手と足で水田開発をする土木作業員。

ヤマタの大蛇は、奈良盆地内で部族間抗争を繰り返す豪族のことかもしれません。頭と尻尾が多くて意見がまとまらず、農地開発が停滞してしまったのかもしれません。

(ksmt.com仮説)
亀の瀬の開削により、沼地から水田に変わった奈良盆地。しかし、大和川は水害と渇水を繰り返し、米の生産量は不安定。暴れる大和川はさながら大蛇のように農民を苦しめた。また、鉄器の不足により農機具が行き渡らず、十分な水田の管理ができなかった。さらに、盆地内の部族長会議が紛糾し、開発が滞ることが多くなった。大和朝廷は剛腕のスサノオに全権を委任し、部族長を脅したり、酒で懐柔したりして意思統一を図り、大和川の全面付け替え工事を推し進めた。これにより、櫛状に用水路と排水路の整った櫛名田が完成し、米の収量が増大した。大和川の水害と渇水も制御可能となり、さらに農業生産が増大した。また、鉄器を大量に輸入することにより、土木工事や農作業の効率を高めた。民の暮らしが良くなり、税収が伸びた。奈良盆地の米はすべて朝廷のものである。

奈良盆地は人工河川により農地化されているので、一カ所でも堤防が切れたり、がけ崩れで排水路が堰き止められたりすると甚大な被害を受けます。盆地内のすべての部族が規則に従って正確に河川管理を行う必要があります。奈良盆地での稲作には、決まりごとを書きとめるための文字と、土木工事を行うための鉄器の導入が不可欠だったと思います。


2012.3.1 古事記仮説 天の岩戸

黄泉の国からやっとの思いで逃げ帰ったイザナギの命は、けがれを清めるために日向の国に向かいます。裸になって海に入って体を洗うと、次々に神が生まれます。最後に左の目を洗うとアマテラス、右の目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれます。アマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海を治めるようにイザナギが命じます。しかしスサノオは黄泉の国の母に会いたいとわがまま言い、高天原から追放されます。イザナギは引退して、近江の多賀大社に隠居します。多賀は坂本よりは少し北に位置しますから、朝廷の勢力が徐々に拡大したと言いたいのだと思います。

高天原を追放されたスサノオは、姉のアマテラスの所に立ち寄りますが、さっそく兄弟げんかになります。スサノオが機織場の屋根に穴をあけて皮を剥いだ馬を投げ落とすと、驚いた機織女が死んでしまいます。嘆き悲しんだアマテラスは天の岩戸に引きこもります。

アマテラスは太陽神ですから、岩戸に隠れると世界はずっと夜です。何とかアマテラスを引っ張りだそうとして、アメノコヤネが祝詞を唱え、ウズメが派手なストリップまがいの踊りを始めます。これを見ていた神々の笑い声が響きわたり、無礼講の大宴会が始まります。外の様子が変なので、アマテラスが岩戸を細く開けて外を覗いた時。隠れていたタヂカラオが岩戸をこじあけてアマテラスを外に出します。

アマテラスは太陽ですから農業生産または米の意味だと思います。天の岩戸は当時は沼だった奈良盆地と大阪の間にある大和川の亀の瀬付近。スサノオは台風や地震などの災害のこと。アメノコヤネやウズメは巫女、すなわち大和朝廷の指導者。タヂカラオは田力男ですから開拓農民。

(ksmt.com仮説)
奈良盆地は巨大な沼地だった。ここをすべて水田に変える巨大プロジェクトが始まる。中国や朝鮮半島から最新の技術が導入された。このプロジェクトには、鉄器、土木技術、農業技術、文字、法律、プロジェクトマネジメント、それに開拓農民を楽しませる芸能、などの導入が必須であった。まず盆地の排水を行うため大和川の亀の瀬付近の河床を下げる大工事を行った。盆地が干上がると、盆地内の大和川を全て付け替え、人工的な用水路にした。用水路と排水路を櫛形に配置し、全ての水田に重力だけで水が行き渡り、またいつでも排水できるよう、綿密な計画と統制のとれた工事が行われた。これによって大規模な水田が出現し、農業生産が一気に拡大した。しかし、奈良盆地を襲った直下型地震のため亀の瀬で地すべりが発生。河床が30mほど上昇した。さらに台風にも襲われ、奈良盆地は再び深い沼地に戻った。しかし奈良盆地の開拓農民は負けなかった。大和朝廷の強力な指導のもと、再び大和川の大工事を行い、農地を復元し、再び米を作りはじめた。これらは全て大和朝廷が行った事業であり、奈良盆地は朝廷の所有物である。だれもこれを侵すことはできない。

奈良盆地を自転車でまわると、奈良盆地全体が人工的な農地だと分かります。排水が相当に難しかったのではないかと思います。しかし、何しろ巨大な農地ですので、その農業生産力に支えられた大和が日本を統一したのは当然であると思います。排水が不要な九州や出雲や近江や伊勢や美濃は奈良よりは米作を始めやすかったと思われますが、既に地方豪族が所有していました。中国や朝鮮の技術者は一攫千金を夢見て、フロンティアである奈良盆地を目指したのだと思います。

これに気が付いたのは、カリフォルニアのサクラメント・デルタの干拓地を思い出したからです。昔は広大な湿地だったのですが、高い堤防を築いて川を上げ(天井川)、干拓をして広大な農地を開拓しました。ここは乾燥地帯ですし、台風も来ないので、それほど排水に苦労はいりません。給水さえできればよいのです。19世紀のことですから、古代の干拓よりははるかに簡単だったと思います。広大な農地にあこがれて、19世紀に世界中から移民がやってきたカリフォルニア。3世紀から6世紀頃の奈良盆地は、夢のカリフォルニア、だったのだと思います。


2012.2.29 古事記仮説 イザナギとイザナミ

古事記・日本書紀を原文で読もうとしたのですが、さっぱり進みません。なので、まずは「楽しい古事記」(阿刀田高)を読んでストーリーを暗記しているところです。阿刀田の解説は面白く、大変読みやすいです。古事記の説話は一部史実を含むのではないかと思い始めました。ここは思い切って100%史実であると仮定し、私独自の仮説を立ててみたいと思います。この仮説は多分間違っていると思いますが、それを古事記の原文を読みながら確認しようという試みです。

まずはイザナギの命とイザナミの命のお話から。二人の神様は(ミコトを命と書くので人間かも)、どろどろと漂う混沌の世界を、天の浮橋から「天の沼矛」を使ってかきまわし、オノゴロ島を作ります。二人はここで島や神を産みはじめますが、どうも出来がよろしくない。女性であるイザナミから先に誘ったが良くないと天のお告げ。男性であるイザナギから先に誘うようやりなおすと、今度はうまく淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の八つの島を産みます。淡路島、四国、九州、対馬、本州は瀬戸内海帝国であり百済に近い大和朝廷としては当然の記載だと思います。隠岐、壱岐、佐渡などが最初に記載されるのは、朝鮮半島東岸の新羅や高句麗からの渡来人が多かったからだと思います。つまり、イザナギは百済系、イザナミは新羅・高句麗系ということになります。

イザナミは次に神々を産み始めます。力を象徴する神、住居の神、海の神、河の神、山の神まど多数の神を産んだ後、最後に火の神を産んで火傷をおい、死んでしまいます。イザナギは最愛の妻を追って黄泉の国へ降り、生き返るよう頼みます。黄泉の国の神様と相談するから、その間にイザナミの姿を見てはいけないと言われます。しかしイザナギは我慢できずにイザナミの姿を見てしまいます。そこには変わり果てた醜いイザナミの姿があり、イザナギは恐れおののいて逃げ出します。怒ったイザナミが恐ろしい姿で追います。

黄泉比良坂之坂本まで逃げると、それ以上は追ってこれず、逃げ切り成功となります。黄泉比良坂之坂本は滋賀県大津市の坂本だと考えるのが自然だと思います。つまり坂本以北の滋賀県は黄泉の国なのです。滋賀県を近江(おうみ)といいますが、これは黄泉(よみ)と良く似た音です。

(ksmt.com仮説)
大和朝廷内部において百済系の渡来人と新羅系の渡来人の抗争が始まった。半島で唐・新羅連合軍が百済と高句麗を滅亡させたのが原因である。朝廷としては何としても抗争を避けなければならない。やっと最近百済派(イザナギ)と新羅派(イザナミ)が力を合わせて日本の国土開発、特に当時沼地だった奈良盆地の水田開発事業が軌道に乗りかかっていたのに。最初新羅派から提案された事業案は失敗だったが、次に百済派が出した事業案なら見込みがあるのに。そんな時、百済系の天智天皇は百済復興のために半島に援軍を送った。これは負け戦となり天智天皇は九州から逃げ帰ってきた。奈良、大阪、京都、和歌山の首都圏には反対勢力が多くて、都を置けない。かといって近江の坂本以北は新羅系の渡来人が多くて恐ろしい。無理を承知で福井、石川、新潟の新羅系渡来人に協力を頼みに行ったが、追い返され、命からがら逃げ帰ってきた。近江の坂本まで来ると和邇氏が助けてくれた。このあたりは唐・新羅の水軍も簡単には来れない。奈良の反対派も来ないし、北陸の新羅人も来ない。ここに都を移すことにしよう。そして百済から亡命してきた人々とともに、楽浪郡にも負けいない壮麗な首都を建設しよう。


2012.2.28 天智天皇と天武天皇

倭国内には新羅や百済や高句麗からの渡来人が多数いました。唐・新羅が百済と高句麗を滅ぼすと、在日渡来人の間でも抗争が発生したに違いありません。大和朝廷としては対策を打たねばなりません。しかし、百済に肩入れしすぎた天智天皇は有効な対策を打つことができません。また、白村江の戦い膨大な国家予算をつぎ込んで国家財政の悪化を招いた天智天皇の支持率が下がります。

ここで、吉野に亡命したていた改革派の大海人皇子が立ち上がります。軍事大国である伊勢と美濃の支援を得た大海人皇子は新羅派の本拠地である近江・若狭方面の制圧に向かいます。対外和平、緊縮財政を掲げる大海人皇子の人気が上がり政権奪取に成功します。

天皇となった大海人皇子は、まず、百済王家、新羅王家、高句麗王家につながる渡来人の家にある家系図を全て焼却するよう命じます。彼らは大和朝廷の役人であり、外戚であり、抗争を繰り返す危険な存在だったからです。彼らが分裂していては、政権を維持することはできません。彼らの祖先は全て日本人でなければなりません。朝廷の先祖、すなわち神が生み出したものでなければならないのです。

もちろん、彼らの朝廷に対する貢献もある程度認めなければなりません。飴と鞭です。朝廷と婚姻関係で深く結ばれている渡来人は天皇の親戚だからです。宮崎の叔父さんにも気を使わねばならないし、島根のおばさん、長野や静岡や千葉の従姉妹にも気を使わねばなりません。

(これは私の想像であり、史実ではありませんが、完全に間違いと言いきることもできません)


2012.2.27 朝鮮と中国の関係

紀元前3世紀 戦国七雄のひとつ燕が朝鮮を攻め、朝鮮や真番がこれに服従
紀元前214 中国を統一した秦に服従
紀元前108 漢が衛氏朝鮮を滅びして、楽浪、真番、臨屯、玄兎の四郡を置いて朝鮮半島を直接支配
598年 隋が高句麗に出兵開始。これが隋の滅亡のきっかけとなる
660年 唐が百済を倒す。(新羅が唐の介入を要請)
663年 白村江の戦いで、百済・倭国軍が唐・新羅軍に敗れる
668年 唐が高句麗を倒す。(新羅が唐の介入を要請)

筑紫において白村江の戦いの指揮をした中大兄皇子の元には、戦いに敗れた船が次々と引き上げてきたようです。そこには百済からの亡命者も大ぜい乗っていたそうです。唐・新羅軍の侵攻を恐れた中大兄皇子は内陸の近江大津宮に遷都します。しかし、これは杞憂に終わりました。高句麗出兵が隋滅亡のきっかけになったことは、まだ記憶に新しかったのだと思います。また、かつて漢が直接支配したことのある朝鮮とは違い、倭国に遠征する動機が乏しかったのでしょう。


2012.2.26 箕子(きし)モデル

「紀元前11世紀の中国で、殷に変わって周が成立すると、周の武王は箕子(きし)という賢人に東方の朝鮮を治めさせたのが始まりで、朝鮮の王室はその末裔である。今これをそのまま信ずる人はいないが、その背後には中国との古くて深い関係があり、また紀元前三世紀頃には箕子伝説が成立していた。」(地域からの世界史-1 朝鮮から引用)

日本の古代に中国や韓国からの渡来人がかなりの数にのぼったようです。古代の豪族の権威を高めるには、古代中国王朝の血筋を引くという伝説を作るのが簡単で効果的だったと思われます。しかし、そのような記述は古事記にも日本書紀にもまったくありません。7世紀の天武朝時代に、中国王朝に血筋を引くと主張する有力者がいた可能性は高いと思います。彼らの作る家系図は日本オリジナルを主張する朝廷の家系図を脅かすものだったことでしょう。天武政権の政策として、有力者が保有する家系図を全て偽物と断定し焼却処分。その代わりに新たに古事記と日本書紀を編纂する、ということだったような気がしてきました。


2012.2.25 地域からの世界史-1 朝鮮

「地域からの世界史-1 朝鮮」(武田幸男、宮嶋博史、馬渕定利著、朝日新聞社)を読んでみたのですが、とても面白かったです。古事記や日本書紀の不明点が少し分かったような気がしました。

まず、この地域の名前の由来:

朝鮮: 「朝鮮」はすでに紀元前数世紀、遼東から朝鮮半島にかけて活躍した種族の名称であり、半島最初の古代王朝名、いわゆる古朝鮮として広く知られた。

韓国: 「韓国」は紀元前後に朝鮮半島中・南部に分立していた数十国をいい、それらはおよそ馬韓、弁韓、辰韓の三グループにまとまり、三韓としてよく知られ、四世紀頃までに形成された百済・新羅や加羅諸国などの古代国家の成立基盤となった。

コリア: 結局、後三国時代を制したのは王建であった。彼は935年に新羅を併せ、翌年には百済を倒して、朝鮮半島に再び統一国家としての高麗を作り上げ、開城に都を置き、以降五百年近く続く長期政権の基盤を固めたのであった。(紀元前後から7世紀まで存在した高句麗も高麗と呼ばれたが、王建の高麗と区別するため高句麗と呼ばれることが多いのだそうです)。

いずれも由緒正しい国名ですが、高句麗=高麗=コリアが期間的には一番長かったようです。


2012.2.22 中山千尋

最近良く聴くジャズピアニスト。まだ以下のアルバムしか聴いていませんが、是非全部聞きたいピアニストです。
アウトサイド・バイ・ザ・スウイング やたらとピアノがうまくなったバド・パウエルという感じ
アフター・アワーズ~オスカー・ピーターソンへのオマージュ
時々日本でもライブを聴けるようなので、そのうち行ってみたいと思います。


2012.02.19 PENTAX 6X7 HELICOID TUBE修理

古い真鍮レンズは口径が大きいので、PENTAX 6X7のヘリコイドチューブに取り付ける改造を行う場合が多いです。自作のアダプタを使ってCanon EOS 5Dで使うのがほとんどですが、もちろんPENTAX 67でも使うことができます。このヘリコイドは結構高いので、1個のヘリコイドチューブを多数のレンズで共用しています。どのレンズも重いものばかりでヘリコイドに負担がかかる上に、ピント合わせのために何度も伸縮させるのでさらに負担がかかります。

このヘリコイドはマクロ撮影用の中間リングですから、それほど頻繁に伸縮することを想定していません。私の使い方だと既に10万回以上伸縮しているはずですので、とっくに仕様上の限界は越えているはずです。

ここ数年でこのヘリコイドを3個ほど壊しています。ある日突然ヘリコイドが回らなくなるのです。ヘリコイドのネジ山にゴミが挟まって動かなくなる感じです。完全に固着してしまうと分解すらできませんが、昨日故障した物は、頑張れば何とか回ります。分解して原因を調べることにしました。

小さなビスを11個はずせば分解できます。分解はそれほど難しくありません。金属の粉がヘリコイドの中に付着していましたので、これを清掃して組み立て。結構面倒です。やっと組み立てて、重いレンズを取り付けてほんの数回回すと、また故障。やはり金属粉が出ているようです。

再度分解すると、ヘリコイド自体から金属の粉が出ています。今度はグリースをたっぷり付けて組み立て。組み立て方は分かっているので、今度は簡単。グリースの効果はてきめんで、スムーズに回るようになりました。このヘリコイドは割と遊びが大きいので、グリースが切れた状態で荷重をかけて回すと金属同士がこすれて粉が出るようです。グリースが効いていると粉は出にくいようです。


2012.02.16 フランジ金具

真鍮レンズ用の古いフランジ金具を少し買ってきました。探すと見つからないものなので、見つけたときに買っておくと将来役に立つかもしれませんし、役にたたないかもしれません。(同じネジに偶然あたる可能性は低いかも)



R.KONISHI TOKIOと書かれたフランジがありました。山崎光七氏が苦心して製作した初の国産レンズ「コンゴー」が昭和2年。これに触発されて小西六が「ヘキサー」を製作するのが昭和6年ですから、それまでは写真レンズは全量輸入で、輸入したレンズ用に小西六がR.KONISHI TOKIOと刻印したのだと思われます。


2012.02.05 説到曹操、曹操就到

説到曹操、曹操就到 (しょーだおツァオツァオ ツァオツァオじゅうだお)

「噂をすれば影」と同じ意味。曹操の噂をした途端に曹操がやってきた。曹操のことは良く分かりませんが、魏の太祖武皇帝とも
呼ばれているようです。魏志倭人伝がありますから、日本とも少しは関係があったと思われます。


2012.02.04 椎名林檎 三文ゴシップ

年末の紅白歌合戦で椎名林檎を見て、ちょっと聞いてみる気に。歌に力が入り過ぎて良くなかったのですが、それがかえって良い人のように見えたのでした。力を抜いて軽く上手に歌っていたら興味を引かれなかったかも。何枚かアルバムを聞いてみたところ、「三文ゴシップ」が良かったです。なかなか洗練されていて、細かいギャグも入っていて楽しいアルバム。

それにしても椎名林檎の顔はあんなだったのか? 以前と全然ちがいます。椎名林檎は実は何人のグループで、総選挙で当選した一名だけがテレビに出ているので、総選挙の度に顔が変わるのではないか?


2012.02.03 FinePix AV230

8年前に購入したコンデジCANON PowerShot A75はまだ健在で、それなりの使い方をすれば、きれいな写真が撮れます。単三電池なので電池切れの心配はありませんし、一眼レフで使わなくなったコンパクトフラッシュが使えます。数年前に故障したのですが、リコールがかかっているとのことで無償保証となり、めでたく復活しました。

ところが、息子が成人式に行くので持たせたら、友人たちの顔が白く飛んでしまい、うまくプリントできません。日蔭の黒いスーツが画面の下2/3を占め、強烈な直射日光の当たった顔が画面の上1/3にあります。AEは暗いスーツに引っ張られて顔が白く飛んでしまったわけです。これはそろそろ顔認識付きにコンデジを買わねばと思いカメラ屋に行ったら、FinePix AV230が七千円台で売っていたので購入。14Mピクセル、顔認識あり、ISO 100-3200、単三乾電池二本使用、124g(本体のみ)。ユーザーとしては安いのは大歓迎ですが、半導体業界の人間としてはかなり心配。数年前のおもちゃデジカメの値段です。

まあ、しばらく使ってみようと思います。


2012.02.02 多一事不如少一事

中国のことわざ。最初このことわざを見たとき、”人生でひとつのことだけを成せば良い。余計なことには手を出しても何も残らない。” というような意味だと思いました。これはなかなか良いことわざだ、と思ったわけですが、実はそんな意味ではないようです。「触らぬ神に祟りなし」 のような意味だそうで、余計なことをするとひどいめにあうので、何もしない方が良い。


2012.02.01 Petzval 3本の外観比較

以下の3本のレンズの外観比較です。
Voigtlander & Sohn in Wien und Braunschweig No 16869 165mm F4.0
J. H. Dallmeyer London 16934 175mm F4.0
Darlot Paris 175mm F5.6


VoigelanderとDallmeyerはほとんど同じ外観です。Darlotは少し暗いぶんだけ、少し細い。どのレンズの真鍮のパイプに精密な旋盤加工が施されています。これだけ良く似ているということは、ペッツバールレンズ専用の旋盤があったのか、皆元は同じ親方に習ったか、同じ業者に下請けに出したか、金具メーカーが同じものを大量に見込み生産して、各国のレンズメーカーに売り込んだか、多分そんなところだと思います。明治・大正期の日本の旋盤技術、ヨーロッパに比べ大きく立ち遅れていたようです。レンズの消費量がわずかだったため、輸入だけで十分だったようです。昭和になってようやく山崎光七氏が写真レンズの製造に乗り出しますが、金物の加工ができずに困ったそうです。


フードの形が違いますが、だいたいどれも同じです。多分、手札判の乾板用のレンズだと思います。六櫻社のダルメイヤー人像鏡玉を見ると、15cm手札、21cm二枚掛と書いてあります。カビネだと27cm-34cm必要で、値段は手札用の2.5倍くらいします。当時は引き伸ばし機がなく、密着プリントだけでしたから、大きな写真を得ようとすると、焦点距離が長くて、大きくて、高価なレンズと、高価なカメラと、高価な乾板が必要になりました。カビネの写真と、手札の写真では、スタジオの場合には設備投資に、外での撮影の場合には機材の運搬にも、大きな差が出たのだと思います。現在は引き伸ばしができますので、レンズの焦点距離と写真の大きさとは直接関係がありません。


2012.1.31 Petzval3本の焦点距離とF値の判定

3本のペッツバールレンズには焦点距離もF値の記載されておりませんので、Canonのレンズと比較することにより決定することにしました。焦点距離もF値も絶対値の測定は素人には難しいのですが、キヤノン EOS 5D + EF 70-200mm F4L IS USMから出力されるJPEGファイルのEXIFデータと照合するkとおにより、キヤノン基準の焦点距離とF値を判定することは簡単です。

まず三脚にデジカメを据え、ISO 400, 1/20s, WB太陽光に固定し、3本のPetzvalレンズでカーテンを撮影します。光源はインバータ蛍光灯ですが、1/20ならフリッカーは無視できそうです。次にEF 70-200mm F4L IS USMで、焦点距離を少しずつ変えて撮影し、焦点距離の基準画像を得ます。さらに、絞り値を少しずつ変えて、F値の基準画像を得ます。

結果は次の通り
Voigtlander = 165mm F4.0
Dallmeyer = 175mm F4.0
Darlot = 175mm F5.6

縮小すると分かりにくいですが、一応画像を掲載します。

Voigtlander 165mm F4.0と判定。カーテンの柄から、他のレンズよりわずかに短焦点だと分かります。


Dallmeyer 175mm F4.0と判定。これが一番明るいように感じました。


Darlot 175mm F5.6と判定。他の2本より一絞りくらい暗いです。焦点距離はDallmeyerと全く同じ7インチ。5インチと聞いていたのですが、違ったようです。


EF70-200mm F4 L IS USMで焦点距離を変えた基準画像
159mm
168mm
172mm だいたいこのあたり。
180mm

EF70-200mm F4 L IS USMでF値を変えた基準画像
F4.0 VoigtlanderとDallmeyerの明るさはこれに近い
F4.5
F5
F5.6 Darlotの明るさはこれに近い
F6.3


2012.1.30 Darlot Paris Petzval 改造

Darlot Paris Petzval のフランジ金具をPENTAX 67の中間リングに接着し、EOSで使えるよう改造しました。


レンズボードからフランジ金具を取り外して、直径調整用の金具にビスで止めて、PENTAX 67の中間リングに接着。フランジ金具が薄く、直接接着すると次回分解する時に壊れそうなので、ネジ止めにしました。


改造作業自体は数分ですが、改造方式の検討に数時間かかりました。あれやこれや試してみるのは、楽しい作業です。


2012.1.29 Darlot Paris Petzval 製造年不明

Darlot Paris

としか書いていないので、焦点距離もF値も製造年も分かりませんが、だいたい7inch F5.6くらいだと思います。レンズの型はオリジナルのペッツバールです。

塗装の色がVoigtlanderやDallmeyerに比べて赤っぽいですね。木製のレンズボードに装着されています。ウォーターハウス絞りは付いていません。ウォーターハウス絞りが発明される1856年以前のレンズかというと、そうではないと思います。ジャマンの会社の従業員だったダルローが社名をダルローに変えたのが1860年だそうですので、それより後の製造だと思います。コストダウンのために絞りを省略したのかもしれません。あるいは、3本の角のついた独自の絞り機構を開発中で、一般的な絞りを嫌ったためかもしれません。


刻印はこれだけ。ADはロゴはAlphonse Darlotのイニシャルだと思います。


ラック&ピニオンギヤはしっかりしています。軽いレンズなので、簡単な機構でも壊れにくいのだと思います。ラック&ピニオンギヤで重いレンズを支えるのは難しいです。


典型的なペッツバール型のレンズです。妙に収差が大きいと思ったら、一番後ろの玉が逆向きに組み立てられていました。これをひっくり返したら、かなり良くなりました。レンズが一枚逆向きでも、焦点距離はほとんど変わらず、普通の人には分かりにくいのだと思います。


フランジ金具が木製のレンズボードにきれいに入っています。少しセンターからオフセットがかかっています。蛇腹カメラの構造上、少しライズしておく必要があったのだと思います。


2012.1.28 Dallmeyer Petzval改造

Dallmeyer Petzvalのフランジ金具をPENTAX 67の中間リングに接着し、EOSで使えるよう改造しました。

フランジ金具のネジ穴の位置が悪く、ボルトで固定することが困難なので、接着することにしました。軽いレンズなので問題ないと思います。PENTAX 67の中間リングには微妙な段差があって接着面積が確保できませんので、少しヤスリで削りました。


少し削って接着しただけですので、作業時間わずか数分で完成。


2012.1.27 Dallmeyer Petzval 明治二年頃製造

J. H. Dallmeyer London 16934


1869年(明治二年)頃製造のダルマイヤーのペッツバールレンズです。焦点距離は6.5inchとのことでしたが、実際には7inchくらいのようです。F値は多分4.0くらい。




16934 J. H. Dallmeyer London 以外にも I.B.L.c? と刻印してあります。意味は分かりません。


基本的なペッツバールです。John Henry Dallmeyer はロス社で働いていた時Andrew Rossに気に入られ、ロスの次女のハナと結婚します。1859年にロスが死ぬと、翌1860年に独立し、1862年にTriple Achromaticレンズを開発します。1866年には人物用レンズの特許を取り、ラピッドレクチリニアレンズを製作し、商品ラインナップを拡大していきます。このレンズはシリアルナンバーから1869年製造だと思われますが、基本的なペッツバール型で、三年前に取った特許を使っていないようです。後の時代になると、レンズに特許を刻印するのですが、このレンズには特許の刻印はありません。レンズの構造上の特徴は、各レンズが金属枠に糊付けされていることです。他のペッツバールレンズはだいたい金属の枠に裸のレンズを二枚入れて、スクリューで締める構造です。このレンズが金属枠に糊付けされている理由は不明です。


塗装の状態はあまり良くありませんが、ガラスはきれいで、ラック&ピニオンギヤもしっかりしています。

DATING GUIDE TO DALLMEYER LENSES
    1881 30000-31000
1862 5000 1882 31000-33000
1863 6000 1883 33000-34000
1864 7000-8000 1884 34000-35000
1865 9000-11000 1885 36000-37000
1866 12000 1886 38000-40000
1867 13000 1887 41000
1868 14000-15000 1888 42000-43000
1869 16000-17000 1889 44000-46000
1870 18000 1890 47000-48000
1871 19000-20000 1891 49000-50000
1872 20000 1892 51000-52000
1873 21000 1893 52000-53000
1874 22000-23000 1894 54000
1875 23000-25000 1895 55000
1876 25000-26000 1896 56000
1877 26000-27000 1897 57000
1878 27000-28000 1898 58000
1879 28000-29000 1899 59000
1880 29000-30000 1900 60000-62000

http://members.ozemail.com.au/~msafier/photos/dall_ross.html よりコピーさせて頂きました。せっかくWebで製造番号表を見つけても、いつの間にか消えていることが多いので、ここにコピーしておきます。


2012.1.25 ktf_design

Cマウントレンズ作例集のktf_designさんから連絡を頂きました。人気のあるCマウントのシネレンズの記事と作例をたくさん発表されています。Kino PlasmatとDallmeyer Speed Anastigmatの作例はKino Plasmat全焦点距離作例リンク集にリンクさせて頂きました。


2012.1.22 コダック破綻

1月20日 米コダックの破綻が報じられました。富士フィルムとコダックの明暗を別けたものなど、論評はだいたい同じようなものです。しかし、私には沈む船に最後まで残った船長のようで、潔い感じがします。銀塩写真の歴史はコダックの歴史と言ってもよく、その偉大さをいささかも損なうものではありません。

コダック社の歴史にも書かれていますが、コダック社はフィルムを開発しただけでなく、写真を一部の人間のものから、誰でも使えるものにするという大きな変革を成し遂げます。写真サービスという新しいビジネスモデルを創出したわけです。1883年にロールフィルムを発表した後、100年近くの間、大きな成功をおさめます。

1891年にエジソンがロールフィルムを使った映画撮影用カメラを発明すると、映画の時代が始まります。映画の歴史もまたコダックの歴史と言っても過言ではありません。フィルムのほとんどがアメリカで消費され、ドイツや日本のカメラやレンズがアメリカに大量に輸出されます。ドイツや日本の写真産業もまた、アメリカ市場とコダック社のフィルムに支えられていたことは間違いありません。戦後になってもしばらくの間は、個人で写真や16mm映画をバンバン撮影できる金持ちはアメリカ人しかいなかったわけですから。


2012.1.21 Voigtlander Wien und Braunschweig 6inchの絞り

Voigtlander Wien und Braunschweig 6inchには一個だけウォーターハウス絞りの板が付いています。しかし、この絞り板はレンズの内径より大きく、絞りの役目は果たしていません。これは絞り板を差し込むためにレンズの開けられたスリットからの光線漏れを防ぐためのものだと考えられます。ですからこれは、絞り開放撮影用絞り板と呼ぶのがふさわしいと思います。

ウォーターハウス絞りの解説は以下の通り。
This apparatus was invented by the pioneering 19th century photographer John Waterhouse of Halifax in 1858.[1][2] It has also been reported to have been independently invented by Mr. H. R. Smyth, and described by Waterhouse as early as 1856.[3][4]

ウォーターハウス絞りが付いたレンズは1856年より後の製造だと考えた方がよさそうです。


絞り板を差し込んだところ。


絞り板の穴は大きく、板の端ぎりぎりまで穴が開けられています。


レンズの中央にドーナッツ型の板があり、左右に板バネが取り付けられています。スリットに絞り板を差し込むと、バネで押さえて抜けないように工夫されています。後の時代になると、ドーナッツ型の板を2枚にして、バネを省略しているものが多くなります。スタジオだとレンズが常に前を向いており、絞り板の脱着が容易な方が好まれたのだと推測します。この方式だと光線漏れが少なく、開放絞り用絞り板がなくても大きな問題にはなりません。


手前側の板が開放絞り用絞り板。絞り機構の変遷などを調べるのも面白く、古いレンズの楽しみのひとつです。


2012.1.13 Voigtlander Wien und Braunschweig 6inch改造

明治4年製造のVoigtlander Wien unt Braunschweig 6inch改造をPENTAX 67マウントに改造しました。
材料: PENTAX 67中間リング 1個、2mmボルト、ワッシャー、ナット各4個


2.5mmのドリルで4カ所穴を開けて、ボルトで固定すればアダプタ完成。
2.

ワッシャーがたわんでいますね。ちょっと締めすぎかもしれません。


キャップがないので、革で製作しました。


部品jが完成。あとはPENTAX 67のヘリコイドチューブで接続するだけです。


組み立てたところ。EOSマウントアダプタも取り付けてました。フォーカスはレンズに付いているラック&ピニオンギヤでも、ヘリコイドでも行うことができます。


EOSに取り付けたところ。簡単でした。改造時間約一時間。


2012.1.12 Voigtlander Wien und Braunschweig 6inch

Voigtlander & Sohn in Wien und Braunschweig No 16869

焦点距離もF値も刻印されていませんが、6インチだそうです。前玉の直径は47mmほどです、F値は3.2くらい。製造は1871年(明治4年)頃。設計はウィーン大学の高等数学の教授であるヨーゼフ・マックス・ペッツバール。ダゲレオタイプが公表された1839年に設計され、1840年にウィーンのフォクトレンダーに製造を依頼。ペッツバールの設計したレンズは商業的に成功しますが、お金のことでフォクトレンダーと喧嘩になります。ペッツバールはオーストリアでしか特許を取っていなかったため、ドイツのブラウンシュワイグに移ったフォクトレンダーの製造を差し止めることができなかったのです。ペッツバールはその後成功することはなく、不遇の人生を送ります。一方、フォクトレンダー社などの光学メーカーは自由にペッツバール型のレンズを製造することができ、世界中で長い間広く使用されました。


フォクトレンダーのレンズには最初Wienとだけ刻印されていましたが、その後Wien unt Braunschweigに、そして最後にBraunschweigに変わります。何年から刻印が変わったのかは不明です。(どこかで読んだような気もしますが、忘れました) 1871年の時点では、Wien unt Braunschweigと刻印されていたことだけは分かります。


真鍮の塗装は140年たってもまだきれいなままです。あまり使われないまま、どこかに埋もれていたのかもしれません。


ラックアンドピニオンギヤもスムーズですし、一枚だけではありますが、ウォーターハウス絞りも付いています。


真鍮に切られたスクリューの精度もすばらしく、簡単に分解と組み立てができます。光学系もきれいです。


後玉は2枚構成で、ペッツバールの最初の設計の通りです。この写真は後で組み立て方が分からなくなった時のため。左が前方です。

この手のレンズの値段は安かったり高かったりで、相場というようなものはありません。粘り強く探せが安くて美しいレンズが見つかると思います。35mmデジカメで使う場合には、像面湾曲も気にならず、素晴らしい性能を発揮してくれるはずです。


2012.1.7 安富祖貴子

何となく借りてきた安富祖貴子のデビューCD「魂」ですが、素晴らしかったです。日本人の歌うジャズは最近聞いたことがなかったのですが(美空ひばりを除く)、少しは聞かないとまずいなぁと思いました。


2012.1.3 年賀状(ボツ)

額縁から桜が飛び出すようなイメージの年賀状を作ったのですが、家族の反対でボツになりました。その代わりに元旦に掲載したシンプルはデザインが採用されました。せっかく一所懸命レタッチしたので、ここに掲載します。桜が飛び出しているように見せるのは結構難しいです。


2012.1.1 新年のご挨拶

本年もよろしくお願い致します。


今年の年賀状は東本願寺渉成園の桜です。渉成園はJR京都駅から徒歩10分くらいで近いです。


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