EOS10D日記その44 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---
2012.11.7 Cooke Opic 3inch(金)
TAYLOR-HOBSON COOKE ANASTIGMAT No155968 3INCH SERIES O f/2
6年間全く見つからなかったレンズですが、一本見つかった翌日にもう一本見つかりました。一本目と同じ店にあったのですが、まさか金色だとは思わなかったので見落としていました。映画の撮影に使われていたようです。シリアルナンバーから1830年頃(昭和5年頃)の製造だと推測します。
金色のフードは絞りリングを兼ねています。
レンズの後部は柔らかい金属のため、ビスを打った跡がへこんでいます。
金ニスが後で塗られたようです。
このレンズは全く分解できず、内部の清掃はできません。しかし、ほとんど曇りがないので清掃の必要はなさそうです。このまま改造したいと思います。
2012.11.5 Cooke Opic 3inch
TAYLOR-HOBSON COOKE ANASTIGMAT No196069 3INCH SERIES O f/2
6年前から探していたCooke OPIC 3inchが見つかりました。
カタログにはOPICという名前で出ていますが、刻印は全てSERIES Oです。なのでWebで検索しにくです。
絞りはスムーズですが、絞りのレバーがありません。自分で作らねばなりません。映画撮影用に使われていたようです。
レンズは簡単に分解できます。かなり曇っていたのですが、丹念に拭くとかなりきれいになりました。弱いコーティングかかっていたのですが、これが曇りの原因だったようです。強く拭くと、だいたい取れました。前玉に細かい傷がありますが、それ以外はきれいです。
2012.10.30 呪いの自動化の歴史 6
古事記の中に出てくる地名は分かりそうで分からないものが多くて困りますが、これは巧妙な仕掛けだと思います。同じ話を読んで、島根の人は島根の話だと思い、奈良の人は奈良の話だと思い、九州の人は九州の話だと思います。天皇家ゆかりの地が一挙にたくさんできるわけですから、効率的です。
各地に建てられた神社の神官は、字が読めない人々に神話を読み聞かせて普及活動を行ったのだと思います。どうせ神社を建てるなら当時人気が高かった聖地または観光地が選ばれたようです。神社には大和朝廷の首都防衛という役目もあったと思いますが、大勢の参拝客の拍手(かしわで)が鳴り響く神社に、反乱軍の戦意は失われたものと思います。
また、神社に人を集めるには、神官の語る神話が面白い必要があったのでしょう。面白い話を何度も聞くうちに、そこに隠された意味を刷り込まれたわけですね。見事に呪いの自動化に成功したと考えられます。
2012.10.22 呪いの自動化の歴史 5
主な「呪いの自動化」技術は「漢字」です。曽我氏などの渡来系の豪族は早い時期から漢字を使って「呪いの自動化」を開始したと思われます。危機感を持った朝廷は、曽我氏などを実力で排除し、「呪いの自動化」を独占します。古事記、日本書紀で朝廷のための「呪い」をかけ、他の書物はことごとく焼却します。見事に「呪いの自動化」に成功し、1300年後(現代)までその効力が維持されます。
古事記と日本書紀に書かれたことは、すべて朝廷の権威の根源となりました。遠方まで出かけて大声で叫ばなくても、全国民が朝廷に従いました。首都である近畿地方を防衛する強大な軍事力を持たなくても、主要な拠点の地名を記紀に記すだけでOKです。多賀、伊勢、熊野、淡路島、但馬、出雲。ただ地名を書くだけで自動的に呪いがかかります。その場所に朝廷の権威が発生し、たたりが怖くて朝廷に対して反乱を起こすことができなくなりました。
「漢字」すなわち古事記・日本書紀の絶大な威力に比べると、後に開発された多数の「呪いの自動化」の方法は効果が限定的であるように思われます。
2012.10.21 呪いの自動化の歴史 4
村や国が小規模、すなわち徒歩圏であれば、口頭での「呪い」で治安を維持することができました。東西南北の隣村に、「うちの村に侵入したら皆殺しだから気をつけてね」と言っておけば、数十年は効力があったと思われます。ただし、隣村の指導者が血の気の多い人に交代して、「そんなことは聞いてないよ」とい言われたらおしまいです。領土争う戦いとなり、双方損害を受けることになります。
大和朝廷が成立することになると、その支配地域は広大となり、口頭での「呪い」を全国にかけて回るのは、大変な労力を必要とするようになりました。中心である近畿地方をだけでも大変な広さです。支配地である、九州から瀬戸内海沿岸、山陰、北陸、関東、中部、となると、朝廷が直接口頭で「呪い」をかけることは難しくなったと思います。
国司を遠方に派遣して全国に「呪い」をかけようとしますが、遠方の国司はすぐに土着化してしまい、大和朝廷の思い通りには行きません。電話もメールも電車もないわけですから、しかたbないですね。困りはてた大和朝廷に大陸から画期的な「呪いの自動化」技術が伝わります。
2012.10.20 呪いの自動化の歴史 3
「呪い」という言葉は一般的には「呪い殺す」というような悪い意味で使われます。しかし、Wikipediaには、『「呪う」という言葉は「祝詞(のりと)」と語源的には同じで、「宣(の)る」に反復・継続の助動詞「ふ」が接続したものであり、古代の言霊信仰に由来するものと思われる。』とも書いてあり、単に人間が発する言葉という意味もあります。その言葉が、「掟を破ったら殺すぞ」とか、「縄張りに入ったら無事には帰れないぞ」みたいなのが多くなるのは、自然なことだと思います。
呪いを和英辞典で引くと、curse, spell, wordなどが出ています。spellとwordは何か言うことですから、やはり悪い意味ばかりではないようです。
現代では法律と、警察と、裁判所などにより治安が維持されています。太古の時代、法律はありませんから、自分の主張は口頭で行うしかありません。「ここまでが我々の縄張りである」と近隣の村に聞こえるように叫んで回らなければなりません。違反した時の刑罰は規定されていませんから、これも口頭で叫ばねばなりません。「縄張りを犯した者は必ず死ぬ」と。つまり呪いは法律と警察と裁判所の役割を果たしたわけです。
2012.10.19 呪いの自動化の歴史 2
縄文時代、まだ農業が始まる前、口頭で隣村との簡単な取り決めをすれば生活できたと思います。川のこちら側が我村の縄張りだから入らないようにとか、ふたつの村で協力して外敵から守ろうとか。隣村のリーダーが変わった場合、再交渉しなければなりません。敵対的なリーダーに変わった場合、脅しをかけておかなければなりません。こちらに攻めてくれば神のたたりがあるぞと。これを呪いと呼ぶことにします。あちこちに敵対的な村がある場合、すべての村に出向いて、いちいち口頭で呪いをかけて回らなければなりません。
村が小さい場合はそれほど大変なことではありません。隣村の全員に聞こえるよう権利を主張したり、領有権を宣言することができます。口頭でも効率よく呪いをかけられます。
万が一戦いに敗れても、他の土地に移動すればOKです。立派な家もなければ、田畑もまだありませんでした。
2012.10.18 呪いの自動化の歴史 1
先日、品川の宿場祭りで火縄銃の実演が行われていました.。もちろん空砲ですが、その音の大きさに驚きました。現在の東京では騒音にかき消されてそれほど遠くまでは聞こえません。しかし、静かだった戦国時代においては遥かかなたまで轟いたと思います。爆竹などでも大きな音は出せますが、殺傷能力がないと分かると、すぐに慣れてしまいます。鉄砲の命中精度は問題ではありません。運悪く玉に当たったら死ぬかもしれないという恐怖心が鉄砲の音に特別な意味を与えているのだと思います。
これは、「呪いの自動化」に違いありません。数発の銃声で広い範囲を制圧することができます。鉄砲というテクノロジーによって、それまで面倒臭かった「呪いをかける」という作業を自動化したのです。
2012.9.29 Voigtlander刻印 2
Es wurde einheitlich die Bezeichnung
(それ以降は次の刻印に統一された)
Voigtlander & Sohn, Braunschweig
Eine Ausnahme waren die Objektive fuer die USA, welche eine "Amerika"
- Gravur erhielten
(アメリカ輸出用のレンズには例外として"Amerika"と追加の刻印がされた)
2012.9.28 Voigtlander刻印
ドイツ語はよく分からないので推測ですが、だいたい次のような意味だと思います。
Danach wurden ab 1841 die objektive mit
(1841年から次のように刻印されたレンズを製造開始)
Voigtlander & Sohn, Wein bezeichnet.
Ab 1848 bis zum 10 Februar 18877 wurden alle Objektive mit der Bezeichnung
(1848年から1887年2月10日までに製造されたレンズには次のように刻印された。)
Voigtlander & Sohn, Braunschweig und Wien
graviert, obwohl die Fertigung von Onjektiven bereits un 1864 in Wien aufgeben
wurde und nur noch eine Handelsniederlassung on Osterreich bestand.
(ウイーン工場でのレンズの生産は1864年に終了したが、オーストリア国内ではまだ生産が続いていたので、このような刻印を行った)
Somit entfiel erst ab der Fabrikationsnummer 31.995 dieser Hinweis auf
die alte Fabrikationsstatte in Wien.
(刻印にウィーンと記された最後のレンズの製造番号は31995番である)
2012.9.27 Fabrikationsbuch Voigtlander
Voigtlander社のレンズの製造番号と製造年月日を収録した本。A4 326ページに及ぶ詳細な表です。以前から知ってはいたのですが、買わずにいました。最大の問題は1884年から1872年までのレンズしか収録されていないことです。私の知りたい1841年から1883年までのレンズは入っていません。
Leica Shopで買うものがあったので、ついでにFabrikationsbuch Voigtlanderを買いました。ドイツ語なので読むのが大変ですが、少しずつ紹介していきたいと思います。本というよりは、フォクトレンダー社の製造台帳をExcelに入力し、プリントアウトを製本したものです。
まずは表紙から。
Hertmut Thiele(著者名)
-----------------------------------------------------
Fabrikationsbuch (製造台帳)
Photooptik(写真用レンズ)
Voigtlander
Alle Photoobjektive, Spezialobjektive, (全写真レンズ、特殊レンズ)
Fertigungsnummern, Fertigungszeiten, (製造番号、製造年月日)
Mengen und Kameraanpassungen (数量、取り付けられたカメラ)
1884 bis 1972
------------------------------------------------------
2012.9.26 華国鋒
華 国鋒(か こくほう、ホワ・クオフォン、1921年2月16日 - 2008年8月20日)は中華人民共和国の政治家。国務院総理(首相)、中国共産党中央委員会主席などを務めた。原名は蘇鋳。華国鋒という名前は、日中戦争時に彼が属していた「中華抗日救国先鋒隊」から取られた。(Wikipediaより引用)
共産党主席の名前が抗日に由来したとは知りませんでした。
2012.8.23 Kingslakeの「写真レンズの歴史」とWilkinsonの[「Vade Mecum」
Kingslakeの「写真レンズの歴史」という本は、レンズの歴史の全貌をつかめるよう、簡潔に書かれています。諸説あって歴史が確定していない場合でも、多少の誤解は恐れす、最も有力な説だけを書いています。このおけげで、枝葉に惑わされず、全貌を知ることができます。日本語の翻訳書も出版され、絶版後は古書が高値で取引されています。(英語版は注文すれば印刷して送ってくれます)
一方、M. Wilkinson and C. GlanfieldのVade Mecumは、複数の説を併記しています。ごちゃごちゃした記載で読みにくいのですが、キングスレークの本では物足りない人には、多くの詳細な情報を提供します。Wilkinsonが出版を果たせず癌で亡くなった後、彼のノートを元に、さらに情報を追加して出版されました。最初からCDまたはダウンロードで電子ファイルの形で出版され、わずかの寄付で手軽に入手することができます。
これは、古事記と日本書記の関係に似ています。
2012.8.20 Ross ACTINICに関するVade Mecumの記載
T.R.Ross の時代
Actinic Doublets 1864製造開始。これは、T.R.Ross がコレンのレンズと同じ構成を用いて汎用レンズを作ったものと思われる。これはぺリスコピックまたはラピッド・レクチリニアより前のことであり、大きな成果であったが、現在ではあまり評価されていない。コレンのレンズより曲率が大きく、前後のレンズの間隔が狭いように見える。また、レンズの間隔が異なる2種類のシリーズがある。ロスが作ったバルサム張り合わせレンズのうちの初期の物と書かれることがある。しかし、それ以前のペッツバール型レンズでもバルサム貼り合わせを使っているので正しくない。前群、後群は単独でも使用できる。(1857年までにグラブがアプラナチック・レンズの特許を取っていたので、きわどい特許回避策でだったかもしれない)
(左を前にするために画像反転)
2種類のシリーズは初期がRos005の型で、後期がRos006の型である。2種類の型それぞれに3種類の包括角があるので、相当な数のバリエーションが存在する可能性がある。
(1) Wide Angle for 85-95°. f16 LAシリーズと呼ばれる。製造番号13,84xのレンズを見たことがある。'Actinic
Doublet' and L.A. 8.5x6.5と刻印されていた。焦点距離は5.5か6inch。小さなスイング式のシャッターが付いている。10x8inchカメラでも隅まで写るが、周辺はかなり暗くなる。F96まで絞ると、周辺は改善されるはずである。
(2) Ordinary Angle for 60-75°. f14 OAシリーズと呼ばれる。製造番号12,48xは7.5x4.5inカメラ用である。焦点距離9inchのものはF16である。小さなpush-pullシャッターがついている。
Van Monckhoven は、このレンズはGlobeレンズよりもよく収差補正されていると述べている。絞りはF15から45。非常にシャープに写り、十分な被写界深度を得られる。ノン・アプラナティックレンズとしては最高のランクである。シャープな画像を得るには絞り込んだ方が良い(F32で70度または80度。80度が可能なのは多分LAシリーズだけ)。歪曲が少ないので建築撮影に向いている。彼は1865年に執筆し、本は翌1866年に出版されたが、あまり広くは知られていない。イギリスで刊行された本で、ロスの広告がフロントカバーに出ているにもかかわらず、彼がDallmeyerのレンズに対して書いたようなレンズの曲率などの詳細はこのレンズについては書かれていない。
Lake Priceはこのレンズが1868年に再設計されたことに言及していないが、前群と後群はほぼ同じ焦点距離であり、レンズ全体の焦点距離はその半分であると述べている。しかし、前群と後群を別々に使えるとは言っていない。彼はこのレンズが広角をカバーすることに良い印象を持っている。狭い路地や、山岳写真で重宝する。彼は、95度、74度、50度の三種類があると言っている。他の著者は、ベルギー政府のために、直径8インチ、焦点距離48インチのレンズが製造されたと書いている。このレンズは50x42inの巨大なイメージサークルをカバーする。最小のレンズは直径1インチ、焦点距離4インチである。
Push-pullシャッター付きのRoss Actinic Doublet for 7.5x4.5in No12,489'.
2012.8.19 Ross ACTINIC 改造
フランジ金具(座金)が付いていないので手持ちの金具を探したのですが、あいにく合うものがありません。レンズ側のスクリューにガムテープを巻いて、少し大きめの金具にねじ込みました。割とレンズが軽いので、実用的にはこの程度で十分です。この金具をペンタ67のボディーキャップに接着して完成。ビスは飾りです。
これをペンタ67のヘリコイドチューブに取り付けて完成。
偶然ミノルタのフードがぴったりと取り付けられました。
2012.8.18 Ross ACTINIC 測定
Ross ACTINIC DOUBLETの焦点距離と開放F値の測定。
Ross ACTINIC DOUBLETの写真 <------------------> Canon EF 70-200mm
F4Lの200mm F14の写真
開放F値はF14のように見えます。しかし、キングズレークの本にはF15と書いてあるので、これを尊重して、F15と判定します。
キヤノンの200mmよりは少し長焦点のようなので、210mmと判定します。
Canon EF 70-200mm F4Lで絞りを変えた写真。 左からF9, F14, F18。F15の判定で間違いないと思います。
光源は蛍光燈。ISO3200, シャッタースピードは1/13s。
2012.8.17 BERTHIOT 2.5/75mm
TELE. OBJECTIF BERTHIOT PARIS 1:2.5 F=75 257407
1936年(昭和11年)頃の16mm映画用の望遠レンズです。Cマウント。
これ以上分解できないのでレンズ構成ははっきりしませんが、多分エルノスター基本型(4群4枚)ではないかと思います。
2012.8.16 Ross ACTINIC DOUBLET
Ross LONDON 13384 ACTINIC DOUBLET
「写真レンズの歴史」 (ルドルフ・キングスレーク著、雄倉保行訳、朝日ソノラマから引用。
----------------
ロスのダブレット
1841年という早い時期、アンドルー・ロス(Andrew Ross, 1798-1859)が、ロンドン在住の画家でカロタイピストのヘンリー・コレン(Henry
Collen)のためにF4の人物用レンズを作った。これは全く形の違う2個の張り合わせダブレットを離して並べたものである。前群は普通の望遠鏡の対物レンズ、後群はクラウンの平凸を前にしたちょっと変わった張り合わせダブレットであった。
このレンズは人物用としては成功しなかったが、1864年、アンドルーの息子トマス(Thomas,
1818-70)がjこの構成を復活させて、暗いが歪曲のないレンズを作った。ロスのダブレットには次の三種類がある。
ラピッド、アクチニック、またはインスタント・ダブレット、F9で画角は±28度
中画角ダブレット、F15で画角は±35度
広画角ダブレット、F18で画角は±40度
これら三種類の構成は同じだが、画角が小さくなるとレンズが長くなり、メニスカスの形が弱くなっている。評判は良かったが、2〜3年後に表れたラピッド・レクチリニアに置き替った。
----------------
製造番号から推測すると、このレンズは1871年(明治4年)頃の製造だと思います。ロスから独立したダルマイヤーがラピッド・レクチリニアを開発したのが1866年ですから、その5年後ということになります。分家のダルマイヤー特許のレンズを、本家のロスがすぐに作るとは考え難く、自社開発のダブレットをしばらく作り続けたのは考えるのが自然だと思います。
美しいレンズです。焦点距離とF値は不明です。後で測定します。
手彫りの刻印も美しい。
分解は簡単。
回転式の絞りです。穴が小さいので、結構暗いと思います。
レバーでシャッターのようなものを開け閉めできます。数秒の露光であれば、このような単純な機能でも使えそうです。
2012.8.10 32GB CFカード
EOS 5D Mark IIになって画素数が上がったので、8GBのコンパクトフラッシュカードでは心配になってきました。そこで、一番安い32GBのCFカード(Silicon
Power 200X)を購入。あきばお〜で2,799円也。安い。JPEG Large Normalなら、12,000枚くらいは入ると思います。
5年前に買った8GB CFカードが8990円で安いと思ったのですが、5年でビット単価はさらに1/10以下になっています。うれしくもあり、悲しくもあり(半導体関係の仕事なもので)。
2012.8.9 BALTAR 比較
BALTAR F/2.3 100mmと75mmを5本並べてみました。右上の1943年製造の100mmはコーティングが明らかに違います。私はコーティング
はかかっていないと思います。しかし、同じようなスピードパンクロを見て、薄いコーティングがかかっているという業者もいましたから、ひょっとしたら薄いコーティングがかかっているのかもしれません。レンズをばらばらの分解しても、コーティングがかかっているかどうか判定することは素人には難しいものです。
上段の100mmのコーティングと下段の75mmのコーティングが同じかどうかも分かりません。見る角度によって変わります。
コーティングの有無と、コーティングの種類は写りに大きな影響を与えます。そのうち、コーティングの違うレンズを同じ条件で比べてみようと思います。
2012.7.13 ユーザー車検 2
2010.7.5に最初のユーザー車検を受けてから2年がたちましたので、2回目のユーザー車検を受けてきました。2年間で2千キロほどしか走っていませんので、車の状態は2年前とほとんど変わりません。2回目なのでスムーズに行くかと思ったのですが、なかなかそうはいきません。2年前のことはすっかり忘れています。自分の日記を読んで思いだそうとするのですが、以前のように気合は入らず、あまり頭に入りません。
かかった費用は次の通り。前回の記録が間違っているのかもしれませんが、自賠責は2380円高く、重量税は7200円安くなっていました。
自賠責 24,950.- (前回比 +2,480)
重量税 32,800.- (前回比 -7,200)
検査費用 1,800.- (前回と同じ)
前回は7番レーンに並んで検査を受けたのですが、7番レーンは込んでいるので、空いている4番レーンに並ぶことにしました。ところが、4番レーンでは私の車種ではスピードメーターの検査ができないかもしれないとのこと。タイヤの空転を防ぐシステムが働いて、後輪だけを回すことができないのです。去年使った7番レーンは4輪駆動車対応になっていますので、4輪とも回るようになっており、問題ありません。途中でレーンの変更はできないので、一旦スピードメータ以外の検査を通し、再度7番レーンに並び直してスピードメータのみ検査を行いました。
検査が終わってから気づいたのですが、「ESPオフ」というボタンがありました。このボタンを押すとタイヤの空転を許すようです。しかし、これを押せば4番レーンでもOKかどうかは確認できていません。神奈川陸運支局の場合、00番または、3番または、7番レーンに並んだ方が良いようです。jこれらのレーンが混んでいた理由が分かりました。
検査レーンに並ぶと、検査員が車体番号の確認に来ます。初めてユーザ車検を受ける人や、私のように2年前のことをすっかり忘れている人は検査を遅らせる可能性が高いので、係員を付けてくれます。神奈川陸運支局では、超多忙にもかかわらず、素人にも親切に対応して頂けます。しっかり準備をすれば、安心してユーザ車検を受けることができます。
2012.7.11 SWITAR 1.9/75mm
SWITAR 1:1,9 f=75mm No 672336 Kern-Paillard Switzerland
CマウントのSWITAR 1.9/75mmです。1950年代に製造されました。詳しくはBolex Collectorをご覧ください。
このレンズは4年ぐらい前から探しているのですが、なかなか安いものは見つかりませんでした。
2012.7.10 MILTAR 100mm f/2
MILTAR MADE BY GENERAL SCIENTIFIC CORP. CHICAGO U.S.A FOR BELL&HOWELL
CO.
EFL 4 INCH (100mm) T2.2 (f/2) 35mm CAMERA LENS TYPE V No. C1559
USE 2 1/2" FILTER B&H CO. SIZE 8 2.646-36 THRD
EYEMOマウントのMILTAR 2/100mm。製造年不明。多分1950年代だと思います レンズが内部が汚れているので分解を試みたのですが、失敗。
字がたくさん書いてあります。アメリカっぽい感じです。
分解出来ないので光学系は不明です。
字が多いので、一度に写すことはできません。
ここまでしか分解できないのでオリジナルのヘリコイドを使うしかありません。レンズの後部を少し切断して、EOSマウント金具を直接貼りつけました。これで無限は出ています。
一番前のレンズを押さえている金具をコンパスで回すと、少しだけ回ります。しかし、そこで固着してしまい、どうやっても回りません。
思い切り力を入れて回すのですが、コンパスが滑ってキズが付くばかりで、全く動きません。少し回った分レンズと金具の間に隙間ができて、レンズが固定できていません。やむをえず、レンズを金具の間に紙を詰めて固定。
EOSマウント金具を貼りつけたところ。
ヘリコイドは結構トラベルがあります。どんどん繰り出すと抜けますが、特に問題なさそうです。
EOS 5Dに取り付けたところ。
2012.7.9 Baltar 2.3/75mm KF6216
BAUSCH&LOMB OPTICAL CO BALTAR 75MM f/2.3 KF6216
製造番号がKで始まりますので1951年です。黄色と薄紫の点が付いています。
レンズヘッドとヘリコイドを分離するのに苦労しました。前のオーナーが苦労した跡がありますが、失敗だったようです。思い切りねじると、内部でビスが折れ、なんとか分離に成功。
35mm映画用の特殊マウントだそうです。 右側のリングは絞りです。
ここまでしか分解できませんでした。レンズの中を清掃できていないので、少しクモリやゴミがあります。
52-46mmのステップダウンリングを接着して改造完了。スペーサーとして、M42の中間リングを使用。傷ついているのは、りヤスリで削ったせいです。
EOS 5Dに取り付けたところ。
2012.7.8 Baltar 2.3/100mm BF8509
BAUSCH&LOMB OPTICAL CO BALTAR 100MM f/2.3 BF8509
製造番号の先頭がBですから1945年製造のBALTAR 2.3/100。BALTARの刻印の両側に黄色と薄紫の点があります。意味は分かりません。
分解する時にコンパスの先端を差し込む穴と、黄色と薄紫のマークは同じ穴です。間違って色着きの穴にコンパスの先端を差し込んで回すと、塗料がハゲます。BF9466では私も間違いました。間違い難いように、色つきの点の位置を変えたのかもしれません。
ペンキで何か書いてあります。資産番号かもしれません。
完全に分解できます。
スピードパンクロ型です。
MF1808の残骸から、メスネジを切り出しました。同じレンズなので、同じネジが使えます。
切り出したネジに52-67mmのステップアップリングを接着して改造完了。
ヘリコイドにねじ込んで使います。
EOS 5Dに取り付けたところ。BALTAR 2.3/100mmが3本揃いましたので、テストしてみたいと思います。
2012.7.7 Baltar 2.3/100mm MF1808改造
BAUSCH&LOMB OPTICAL CO BALTAR 100MM f/2.3 MF1808をEOSマウントに改造
黄色い点が一個だけあります。意味は分かりません。
銀色のパイプが邪魔で改造できなかったので、切断。切断箇所に52-55mmのステップアップリングを瀬着して改造終了。
ヘリコイドにねじ込んで使用します。このヘリコイドは長く伸びるので、マクロもOKです。レンズ側は52mmフィルターのネジ、カメラ側はM42。私はEOSでしか使わないので、EOSマウント金具がビス止めしてあります。
EOS 5Dに取り付けたところ。
2012.7.1 Baltar 2.3/75mm MA3273
BAUSCH & LOMB BALTAR 75mm f/2,3 MA3273
製造番号の先頭の文字がMですから1943年に製造されたレンズです。二文字目の”A”の意味は分かりません。
BALTAR 2.3/75mm之一本目です。正面から見ると汚いですが、拭けば新品同様にきれいになります。プロ用のシネレンズは乱暴に扱っても大常備菜用に丈夫にできています。(自然光で撮ったので汚く見るのかもしれません) うっすらとコーティングがかかっているようにも見えますが、良く分かりません。
レンズヘッドだけ。
後でコバ塗りを追加したようです。
簡単に分解できます。映画撮影現場で泥だらけになっても、すぐに清掃できます。
やはりスピードパンクロと同じ構成です。
52mmスクリューに改造。
スピードパンクロが入っていたヘリコイドに装着して完成。
なかなか実用的なレンズです。
2012.6.30 Baltar 2.3/100mm BF9466
BAUSCH & LOMB BALTAR 100mm f/2.3 BF9466
1945年製造のBALTAR 2.4/100mm2本目です。薄いコーティングがかかっています。その他はMF1808と同じようです。
MF9466はもうすぐ桁上がりしそうですね。英文字2桁+数字4桁だけなのか? それとも数字5桁があるのか? それとも英文字の二桁目の文字が変わるのか? 不明です。
35mm映画用 BNCマウントというのだそうです。大きなギヤを回してピント合わせします。マウント面の後ろに大きなヘリコイドがあります。
一番右がレンズ本体。真中と左はヘリコイド。
梅雨の中休みで晴れたので窓辺の自然光で撮影したのですが、影がうるさいですね。やっぱりストロボの方が良いようです。
コンパスが一個あれば、全部ばらばらに分解できます。私は大きなコンパスと小さなコンパスを二個使っています。その方が効率的。
スピードパンクロと同じ構成です。
前玉にシリアルナンバーが書いてありますが、レンズ前面の刻印とは違う番号です。修理の時に取り換えられたのかもしれません。
ブロニカのヘリコイドに改造。
自作のブロニカ -- 52mmアダプタをかませて52mmのヘリコイドに接続。此のヘリコイドはものすごく長く伸びるので便利です。(思い切りオーバーインフの改造でも問題ないため)
フードは58mmがそのまま取り付けられます。
EOS 5Dに取り付けたところ。金ピカの真鍮レンズに慣れているので地味に見えます。
2012.6.28 彦根の由来3
井伊直孝は1590年に焼津で生まれ、群馬県の安中で幼年期を過ごします。側室の子であったため、父直政は正室に遠慮して、直孝が11歳になるまで会わなかったそうです。直政の正室の子、すなわち直孝の異母兄である直勝とは同じ年でした。直政の死後、直孝が彦根の領地を受け継ぎ、直勝が群馬の安中の領地を受け継ぎます。直孝は彦根の領主ですが、主に江戸で徳川秀忠に仕え、出世の道を歩んだようです。大坂夏の陣では大活躍をし、淀君と豊臣秀頼を自害に追い込むなどの手柄をたてます。その勇猛さは「井伊の赤牛」と恐れられたそうです。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康はすぐに佐和山城を攻めます。石田氏滅亡後、井伊直政が佐和山城に入城。直政はすぐ近くの彦根山に彦根城の築城を計画しますが、着工前に亡くなります。嫡男の直勝が彦根城の築城を行いますが、直勝はあまり評判がよくなかったようでして、代わりに直孝が領主になります。佐和山城には石田三成の亡霊が出たそうです。すぐ近くに新築した彦根城も十分に清める必要があったと思われます。
大坂夏の陣で手柄を上げた直孝は、意気揚々と彦根城に凱旋します。途中で安土の活津彦根神社に参拝し、天照大御神の子である活津彦根命には絶大な権威があることを知ります。(私の推測です)。彦根城は天照大御神と活津彦根命に守られていると宣伝することにより、彦根城を末代まで守ろうとしたのかもしれません。
直孝は朝鮮通信使の接待の責任者という大役を務めます。朝鮮通信使に活津彦根神社の前の道を通ってもらい、その道を朝鮮人街道と名付けたのも、宣伝の一環だったのかもしれません。直孝は清に滅ぼされた明の鄭芝龍とその息子鄭成功からの出兵要請に強く反対し、大陸および朝鮮との平和外交を推進したようです。江戸時代tは鎖国ではなく、朝鮮との平和外交を優先した時代とする説もあります。いずれにしろ、直孝の平和外交が徳川幕府の長期安定政権に貢献したようです。
2012.6.27 Baltar 2.3/100mm MF1808
BAUSCH&LOMB OPTICAL CO BALTAR 100MM f/2.3 MF1808
Bausch & Lomb Date Code (serial number scheme) によりますと、ボシュロムの1941年以降の製造年は、
A 1941 G 1963 N 1962 V 1944
B 1945 H 1959 P 1958 W 1948
C 1949 J 1955 R 1954 X 1952
D 1953 K 1951 S 1950 Y 1956
E 1957 L 1947 T 1946 Z 1960
F 1961 M 1943 U 1942
だそうです。このレンズはMですので、1943年製造。二番目の文字Fは写真用という意味だそうです。従って1943年に製造された写真用のレンズの1808番目ということになります。思ったより古いです。
35ミリ映画用のアイモマウントだそうです。
レンズヘッドとヘリコイドは簡単に分離できます。
コンパスだけでバラバラに分解できます。コーティングはかかっていません。レンズ構成は普通のダブルガウスで、スピードパンクロのコピーのように見えます。レンズは大変きれいで、拭傷はまったくありません。
2012.6.25 彦根の由来2
彦根に地名には藤原房前が関与していると考えるのが一番自然だと思います。房前は天武天皇10年(681年) - 天平9年4月17日(737年5月25日)。飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。藤原不比等の次男。元明上皇が死の床で祖父・鎌足以来の内臣に任じて、皇太子首皇子(後の聖武天皇)の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。
古事記の成立が712年ですから、藤原房前は31歳。霊亀3年(717年)に36歳で兄の武智麻呂に先んじて参議となる。これで藤原家から参議が父不比等と房前の二名となり、各豪族から一名という前例が破られることになります。日本書紀の成立が720年ですから藤原房前は政権を掌握した藤原家のエースということになります。
古事記が編纂される以前から彦根付近は軍事的に重要であったようです。壬申の乱でも、この付近で制した大海人が勝利しています。政権を取った藤原不比等、房前親子も奈良にある首都防衛のため、彦根付近に強力な呪(のろい)をかけておく必要がありました。
古事記の中で、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあります。多賀は彦根からわずか10キロほど。天地創造の神が坐すわけですから、最高に強力な呪と言えます。藤原房前は近江の国司だったそうですのでこの地域の事情に詳しく、この記述は房前の指示だったに違いないと思います。
藤原房前はこれでもまだ呪が足りないと思い、天照大御神の皇子として活津彦根命を誕生させます。同様に熊野方面の防衛のため、熊野久須毘命を誕生させ、熊野方面に呪をかけます。しかし、これではまだ仏教的な防衛力が不足していたため、さらに彦根山に彦根寺を建てます。
以上をまとめると、彦根や多賀という地名は有史以前からあり、大和朝廷の首都防衛戦略上の最重要地域でした。奈良時代の初期、首都防衛の責任者だった藤原房前は古事記編纂チームに対して、この地域に強力な呪を何重にもかけるよう要請します。古事記編纂チームはこの課題に最優先で取り組み、見事に呪をかけることに成功します。もちろん、ほとんどの人は呪をかけられていることに気づきません。その効果は絶大で、朝廷に反逆を試みる勢力は今日に至るまで現れていません。
2012.6.24 彦根の由来
先日安土城址近くの活津彦根神社 (イクツヒコネ) の宮司さんの説明を聞いてから気になっていた「彦根」という地名の由来についてWebで調べてみました。いろいろな説があり、どれが有力かは分かりませんが、とりあえず羅列します。日本書紀と同じ方法です。
彦根市の公式ホームページより引用
「彦根」の地名は、むかし天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いきつひこねのみこと)の二神がおられ、このうち活津彦根命が活津彦根明神として彦根山に祭られたことに由来しているとされている。戦国時代になって絶えず戦場となっていたが、豊臣時代に石田三成が佐和山城主となってから町は次第に繁栄し、その後、関ヶ原の戦功で井伊直政が彦根の地
に封ぜられ、その子直孝が彦根城を築城を行い始めてから城下町として発展、産業、政治、文化の中心地として300年間栄えた。
彦根観光協会より引用
彦根城が築城される以前、彦根山には、近江の国司藤原房前が亡母の供養に建立した彦根寺という霊験あらたかな古刹がありました。
房前の護持仏であった金色の亀の背に乗った一寸八分の観音様を本尊としていたため、彦根山を金亀山と呼ぶようになりました(彦根城を別名金亀城と呼ぶのもこのためです)
古城の歴史 彦根城 より引用
養老4年(710年)近江国の国司であった藤原房前(ふささき)によって、彦根山に亡母の供養のため彦根寺が建立された。藤原房前の護持仏であった金色の
亀の背に乗った一寸八分の観音像を本尊としていたため、彦根山は金亀山とも呼ばれるようになった。彦根寺の御堂は、彦根城の観音台のあたりに存在したと考
えられる。この彦根寺は目に御利益のある観音霊場として知られ、平安時代には名刹の聞こえ高く、白河上皇をはじめ、多くの都人が参拝に訪れたと文献に見え
る。参拝者が彦根山に登る前に、道中に背負っていた連着(れんじゃく)を解く場所があり、そこに腰掛石としての露頭石がいくつかあった。この場所は現在の
連着町として地名に残る。『彦根城由来記』によると、代々の古老たちは藤原氏時代から現存する唯一の遺物として、この露頭石が失われることを心配し、この
石を腹痛石と呼び、「触ると腹が痛くなる」と言い伝えて大切に守り継いだ。
彦根山由来記より引用
彦根山は太古以来、活津彦根命鎮座の地にして、地名はこれに因るといふ。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の五男神は天照大御神と建速須佐之男命との宇気比の時に成りませる神なることは、古事記日本書紀に委しければ、就て見るべし。平田篤胤の古史伝八之巻に天津彦根命と活津彦根命とは一神ならんかの疑ひを存せり。尚此古史伝はさらなり。本居宣長の古事記伝をも見るべし。
氏姓録、未定雑姓に犬上縣主天津彦根命の後とあり。彦根山に尊嶽と称する所あり、日本武尊駐蹕(ちゅうひつ)の地なりという。
Wikipedia「彦根市」より引用
「彦根」という地名は天照大神の御子であるアマツヒコネ(天津彦根命;アマツヒコネノミコト)とイクツヒコネ(活津彦根命;イクツヒコネのミコト)2柱のうちの後者が活津彦根明神として彦根山(彦根城が築かれた、琵琶湖岸の山)に祀られたことに由来するとされる[1]。cf. 彦根神社創建年(1734年)。
城東小(じょうとうしょう)れきしマップ の彦根(ひこね)神社(じんじゃ)より引用
井伊(いい)家(け)が彦根藩主(はんしゅ)となり、築城(ちくじょう)当時(とうじ)、彦根山<金亀山(こんきやま)>にあった多(おお)
くの社寺(しゃじ)をとりはらいましたが、移築(いちく)もされずに破壊(はかい)されたお堂(どう)の中(なか)に、活津彦根命(いくつひこねのみこ
と)を祀(まつ)った社(やしろ)もありました。
井伊家七代(しちだい)当主(とうしゅ)のとき、彦根藩(はん)として彦根の地名(ちめい)由来(ゆらい)の神(かみ)を、城下(じょうか)近(ちか)く
にまつることになり、1734年(享保(きょうほう)19年)5月28日、田中(たなか)神社の相殿(そうでん)に活津彦根命をうつし、8月5日、田中神
社の社号(しゃごう)を彦根神社と改(あらた)めました。
社紋(しゃもん)も井伊家ゆかりの紋所(もんどころ)、井桁(いげた)、橘(たちばな)とし彦根の惣社(そうじゃ)となりました。
「東近江紀行 その2・安土編」より引用
「活津彦根神社」
<滋賀県蒲生郡安土町下豊浦鎮座>
祭神:活津日子根神(天照大神の第四御子神)
由緒:創立年代は明かではないが、古来以来豊浦庄の産土神。豊浦庄は天平感宝元年に桓武天皇が奈良薬師寺に寄進された土地であったが、中世期に延暦寺・日吉社の勢力下にはいる。天正四年に安土城を築くにあたり織田信長が参詣、寄進。天正十年に安土城が焼失した際に宝庫が延焼し、この際に古書宝物散逸。大阪夏の陣に井伊直孝が彦根神の御加護により大功をたて、35万石をもって封じられた際に当社に参詣。我城を彦根と名付け、彦根神を崇敬した。
陸路の地形障害だった箱根・彦根 より引用
箱根の語源の類証として、滋賀県琵琶湖東岸の彦根の語源も説明しておきましょう。賢明な読者は、箱根と彦根の地名の音の類似性から既にお分かりのことでしょう。彦根は〔ひ−こ−ね=hi−ko−ne〕で、箱根と全く同じ「中間に存在する不便な所」でした。琵琶湖は、湖東の愛知川や野洲川が運ぶ土砂で少しずつ埋まり、湖岸線は江戸時代からでも、多い所ではおよそ2km程西へ移動しています。彦根の辺りも、古代には湖岸が切り立った山裾に迫っていました。鈴鹿・伊吹・養老山系がぶつかるすぐ西の彦根は、現在よりもっと厳しい地形で、湖岸を徒歩で通行することも、東側の山地を越えることも極めて困難だったのです
都へ向う旅人は、関ケ原を越えて琵琶湖が見える米原付近に出ると、湖岸から舟に乗り大津まで南下しました。今の国道8号の元の姿である中仙道にも、東海道と同じように水の上の道があったのです。
2012.6.19 EOS 5D Mark IIの感想
EOS 5Dから5D Mark IIにカメラを変えたのですが、外観がほとんど同じですし、操作方法もほとんど同じです。JUMPボタンがなくなったので戸惑いましたが、ボタンを押さなくてもシャッターの横のダイヤルで直接ジャンプできるよう変更されたようで、だいたい同じです。
液晶モニターは大幅に良くなりました。これならLive Viewも動画も問題ないと思います。ただし、静止画を再生した時、液晶モニターで画像を拡大してもピントが合っているか分かりません。5Dの時と似たようなものです。サムネイルの解像度が低いためだと思います。ピントが合っているかはパソコンで見てのお楽しみ。
パソコンで画像を見ると画素数の違いが案外大きいことが分かります。
EOS 5D 4368 x 2912 = 1271万画素 面積で1/100の436x291ピクセルに縮小
EOS 5D Mark II 5616 x 3744 = 2100万画素 面積で1/100の561x374ピクセルに縮小
画像の一部を800x533ピクセルで切り出し、ピクセル等倍で見えるようにしていますが、その作業中に画素数の違いを実感します。
EOS 5Dだと800x533ピクセルで口まで入っています。
EOS 5D Mark IIでは800x533ピクセルでは目と鼻しか入りません。これはもちろん良いことです。より大胆にトリミングしても画質が保てるということですので、大いに助かります。
あきた観光レディーの皆さま、ご協力ありがとうございます。8月3日から6日に行われる秋田竿灯まつりのキャンペーンを浅草で行っていました。是非秋田竿灯まつりを見に行きましょう。ちなみに、ミスあきたこまちというのもあります。こちらはお米の宣伝が目的のようです。
2012.6.17 EOS 5D Mark IIの電池(互換品)
EOS 5D Mark IIの電池LP-E6の互換品(新品)を購入。1380円 x 2 = 2760円。純正品は一個6,500円くらいですので、約1/5の値段です。純正品の方が良いという意見も聞かれますが、わたしは昔から互換品を愛用しています。今まで6個購入しましたが、どれも純正品をしのぐ性能でした。9年ほど前EOS
10Dの純正電池を買って、二個とも10回くらい充電しただけで極端に性能低下。互換品に変えたら50回くらい充電しても性能を維持したので、それ以来互換品の方を買うようになりました。もちろん今では純正品の方が信頼性が高ので、あまり人に勧めるべき話ではないと思いますが。自己責任でお願いします。
2012.6.16 EOS 5D Mark II購入
EOS 5D Mark IIIはまだ高いのですが、そのかわりEOS 5D Mark IIの中古が安くなったので購入しました。メーカー保証は切れていますが、6か月の販売店保証がついていますので安心です。外観は新品同様。
本日千枚ほど撮影しましたが、特に問題なさそうでした。製造後に切られたシャッター総数をEOSInfoというフリーソフトを使って調べると次のような結果になりました。
8万9千枚ほど撮影されたカメラを買ったようです。外観から想像したよりは多いですが、常識的な数字だと思います。
2012.6.12 EOS 5Dシャッター故障
私の使用するカメラCanon EOS 5Dのシャッターが故障。シャッターが壊れるのは三度目です。買って一年弱で一度目の故障(メーカー保証)。二年弱で二度目の故障(販売店の延長保証)。どちらも約5万枚だと思います。ちょっと壊れるのが速すぎますが、1/2000以上の高速シャッターが壊れただけで、遅いシャッターは生きていました。それから4年間、約14万枚故障せず順調に稼働。このクラスのカメラとしては優秀だと思います。
シャッター幕が完全に破損しているようで、見ればすぐに分かります。Err 99が出ていました。キヤノンに修理に持って行ったら、24万回シャッターを切っているとのこと。シャッター以外にもミラーやホットシューの交換をすすめられましたが、シャッターの交換にみにしました。ミラーやホットシューがそんな簡単に壊れるとは思えませんし、もしそんな所が壊れるようなら他の部分も一斉に壊れそうなので、買い換えた方がよさそうです。
1週間ほどで修理が終わるとのことでした。しかし、この古い5Dにはもう頼れなさそうです。EOS
5D MkIIに中古が値下がりしているので検討しようと思います。5D MkIIIとか1DXも魅力的ですが、ちょっと高すぎですね。でも最新型を買った方が得な気もするし。ちょっと悩んでみます。
私の歴代のカメラはほとんどシャッターが故障しています。Olympus OM4が2回、Pentax
6x7が1回。EOS 10Dはシャッター破損し廃棄。そしてEOS 5Dが3回。シャッターは消耗品だと考え、どんどん壊して、どんどん交換するのが良いと思います。
2012.6.10 Voigtlander Wienの焦点距離とF値
Canonのレンズを基準にして、EOS 5Dで撮影した結果をもとにVoigtlander &
Sohn in Wien No 3626の焦点距離とF値を調べました。その結果、
F3.6, 125mm
と判定しました。F3.3位でもいいと思いますが、キングスレークの本にはF3.6と書いてあるので、F3.6を採用します。
2012.6.9 Voigtlander Wien ビスで固定
嘉永4年製造のVoigtlander Wienを外に持ち出す前に、ピニオンギヤを何とかせねばなりません。ピニオンギヤがない状態ではレンズがスポっと抜け落ちてしまい危険です。暫定策として、ビスで固定することにしました。3mmのビスで合うようです。ビスを短く切って、先端をやすりで尖らせでネジ穴に入れれば完成。ピント合わせはヘリコイドで行います。ついでに革でキャップを作って準備完了。
革のキャップはレンズを傷つけないので、リュックに入れて持ち運ぶのに適します。しかし、長期保存するとカビそうです。
ビスの拡大図。一応色を合わせてあります。
2012.6.8 Voigtlander Wien No 3626
Voigtlander & Sohn in Wien No 3626が到着しました。一昨日オーストリアから発送されたものです。速いです。
一昨日掲載した業者さんの写真は、前後が逆です。写真の下方が前です。
ピント合わせ用のピニオンギアは失われています。
典型的なペッツバール型レンズ。ペッツバール博士の設計そのままだと思われます。
キャップが付属していますが、真鍮の色が違うので、後の時代に作られたものだと思います。
フードは付属していません。同じ色の真鍮のパイプがあったので、フードを製作しました。
ブロニカのスクリューに接着剤で貼ってマウント改造完了。所要時間3分。Planar
1a 3.6/110mm用に作ったマウント金具がそのまま使えました。
EOSに取り付けたところ。絞りが無いため、筒の中が平面で反射がひどいので、簡単な反射止めを作成して中に入れました。これで大幅に内面反射が減りました。週末にさっそく試写してみたいと思います。
2012.6.6 遠山景元
Wikipediaを見ると、遠山の金さんのモデルである遠山景元が亡くなるのは1855年(安政2年)と書いてありますから、Voigtlanderのレンズが製造された四年後ですね。昨日の記事を訂正します。遠山景元の写真が残っていないのが残念です。
天保の改革で老中水野忠邦が町人の贅沢を禁止します。水野は芝居小屋全廃の方針を打ち出しますが、北町奉行だった景元はこれに反対し、猿若町への小屋移転だけに留めました。これに感謝した芝居小屋が「遠山の金さん」を盛んに上演したのだそうです。
2012,6,5 Voigtlander Wien 1851年製
Voigtlander & Sohn in Wien No 3626
Voigtlander Wienのレンズが見つかりました。シリアルナンバー3626番は1851年製だそうです。1851年は嘉永3年11月29日
- 嘉永4年12月9日。ペリーの黒船が浦賀に来る二年前です。ペリーは写真が残っていますので、このようなレンズで撮影したのだと思います。遠山景元(遠山の金さん 享年61)が亡くなるのが嘉永5年ですから、まだ存命中。
jこの時期のレンズはシリアルナンバーが刻印されていないのが多いようですが、これは明記してあります。
残念ながらピント合わせ用のピニオンギヤは失われていますので、代用品を探したいと思います。このレンズの到着まではもう少し時間がかかります。
2012.5.30 Dallmeyer ペッツバールレンズのフード
Voigtlanderの真鍮レンズは見た目が良く、派手な金色なので目立ちます。このレンズで投影していると、めずらしそうに見て行く人が多いです。高い性能に見合った美しい外観。
一方、Dallmeyerのペッツバールレンズは性能が高い割には見た目が悪く、興味を示す人もいません。
原因は明らかに黒いフードにあります。フードが付属していなかったため、出来合いの黒いフードに黒い皮を巻いてみたのですが、地味すぎたようです。
そこで、このような真鍮製のフードを製作。適当な太さの真鍮のパイプに55mmのスクリューを叩き込んで、内側に反射防止用の黒いフェルトを貼りました。色は本体と似ていますが、肉厚すぎて重いです。
前玉にねじ込んで完成。派手な外観になりました。
内面反射を防ぐため、でこぼこにフェルトを貼りました。うまく機能してくれると思います。
2012.5.18 Ernostar 2/10cmのフード
Ernostar 2/10cmに合うフードはないと思って思っていたのですが、探して見るとKOMURAのフードがぴったり合いました。ロゴが違うものが2個あったので取り付けてみると、ネジはどちらも同じでした。
エルノスター 2/10cmは画面に空が入ると画面全体が白っぽくなってコントラストが落ちるのが悩みですが、これだけ深いフードを取り付ければ、少しは改善出来ると思います。
フードを付けると刻印が読めなくなり、外から見てもERNOSTARなのか分からなくなるのが難点。KOMURAのレンズにしか見えません。フードに大きな字でERNOSTARと書いた方がいいかもしれません。
フードのスクリュー部分の外形は53.5mmくらいです。
2012.5.7 古事記仮説 市辺之押歯王
市辺之押歯王は履中天皇の第一皇子。雄略天皇の従兄です。雄略天皇に殺されましたが、播磨に逃げていた息子二人が復活して天皇になりました。兄のヲケ王が顕宗天皇、兄のオケ王が仁賢天皇です。市辺之押歯王の墓は近江鉄道八日市線の「市辺」駅の近くにあるそうです。
このあたりは万葉集に登場する蒲生野なのだそうです。額田王が「あかねさす紫野行き標野行き。。。」と詠み、大海人皇子が「紫草のにほへる妹を憎くあらば。。。」と詠んだところですね。このあたりは天皇家の直轄領だったようでして、安全に遊べたのでしょう。機会があれば訪れてみたいと思います。
ちなみに、額田王はWikipediaによりますと、「日本の代表的な女流万葉歌人でありまた天武天皇の妃(一説に采女)である。(中略)「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫という。」
2012.4.19 A. Ross London 6008
1858年頃(安政4〜5年)製造のA. Rossのレンズです。Rossの創始者のAndrew
Rossの名前A. Rossと刻印されたのは、Andrewが亡くなる1859年までだそうです。ですので、Andrewが亡くなる直前のレンズということになります。
典型的なペッツバールレンズです。
このレンズの最大の特徴は、A. Rofsとも読める刻印です。多分Rossを装飾的にデザインしたのだと思います。不思議なのは、刻印の上部に余白が全くないことです。製造された時点ではウォーターハウス絞りが付いておらず、後に絞りを取り付けたのかもしれません。刻印ぎりぎりまで絞りの窓を開けて、ピント合わせのトラベルと確保したのだと思われます。
レンズは金属枠に接着されており、ここまでしか分解できません。レンズの順番を変えたり、裏返してソフトフォーカスレンズとして使うことはできません。
ペンタックス67のボディーキャップに穴をあけてフランジ金具をボルト3本で固定。
これをペンタ67の中間リングに取り付けて改造終了。ボルトが中間リングと干渉するのでまっすぐには打てません。少し斜めに入れる必要があります。
レンズを取り付けたところ。
EOSに装着したところ。
左側がDallmeyerのレンズ。ほとんど同じ形ですが、中央の四角い窓の高さがずいぶん違います。右側のRossのレンズの窓は後で開けられたので、広くできなかったのかもしれません。
2012.4.14 古事記仮説 飯豊天皇
雄略天皇の子である白髪皇子(しらかのみこ)が清寧天皇となりますが、清寧天皇には妃も子供もなく、皇族の男子はことごとく殺されてしまった後ですので、深刻な後継者問題が発生します。雄略天皇に殺されたオシハ王(磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ、履中天皇の第一皇子)の妹(または娘)の忍海郎女(おしぬみのいらつめ、飯豊青皇女)が一時的に政権を取ったそうです。忍海郎女は飯豊天皇とも呼ばれ、女性天皇の先がけとも言われます。近鉄御所線に忍海駅があり、このあたりが本拠地だったと思われます。
忍海郎女は行方不明となってい甥(または弟)のオケ王とヲケ王の捜索と行います。山部連小楯(ヲダテ)が播磨(針間)国のシジムの家で火焚きをしているオケ王とヲケ王を発見します。宴会でオケ王とヲケ王が舞いながら名乗ったので山部連小楯(ヲダテ)はビックリ仰天し、床から転げ落ちたと古事記には書いてあります。しかし、忍海郎女がオケ王とヲケ王を保護していたとの説もあります。
オケ王もヲケ王も天皇になれる立場にあったのですが、互いに譲り合って、なかなか決まりません。この間、忍海郎女が暫定政権を指揮したと思われます。結局弟のヲケ王が顕宗天皇として即位。しかし8年(3年説も)で崩御。兄のオケ王が仁賢天皇となります。
Wikipediaを見ると、オケ王とヲケ王のお話は、古くから典型的な貴種流離譚であるとの説があるでそうです。また、背後に二派の有力な黒幕がいて、雄略天皇とオシハ王が代理で戦っているようにも見えます。
2012.4.9 古事記仮説 赤猪子
雄略天皇が美和河(大和川上流=初瀬川下流、三輪山付近)に遊びに行った時、川で洗濯をする童女に会った。童女は赤猪子(アカイコ)と言い、容姿甚麗(かたちいとうるはし)。雄略天皇がそのうち呼ぶから結婚せずに待っているようにと言ったので、赤猪子は80年待った。
雄略天皇からさっぱり声がかからないので、悩んだ末に自分から申し出ることにした。たくさんの引き出物を持って雄略天皇に会いに行くと、「どこの婆さんだ? 何の用だ?」とつれない返事。事情を説明すると、天皇はやはり自分の言ったことを忘れていたようです。
(原文の訓み下し、岩波書店版から引用)
「吾は既に先の事を忘れつ。然るに汝は志を守りて命を待ちて、徒に盛りの年を過ぐしし、これ甚愛悲し(いとかなし)」 とのたまひて、心の裏に婚ひ(まぐわひ)せむと欲ほししに、その極めて老いしを憚りて、婚ひを得成したまはずて、御歌を賜ひき。
美母呂能 伊都加斯賀母登 加斯賀母登 由由斯伎加母 加志波良袁登賣
みもろの いつかしがもと かしがもと ゆゆしきかも かしはらをとめ
古事記の後半になってくると、和歌が多くなります。和歌は漢字を使っていますが、漢文ではなく、漢字の音だけを借りて日本語を表記しています。日本人は日本語を表記する文字を獲得し、かつ必要に応じて自由に中国語と混在させられるのだ、と主張しているように見えます。
2012.4.8 古事記仮説 雄略天皇 3
雄略天皇の業績は古事記を読んでも良く分かりません。河内の若日下部王(皇后:草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。仁徳天皇の皇女))に会いに行った話とか、吉野で美女:吉備稚媛(きびのわかひめ。吉備上道臣の女) を見つけた話とか、三輪山j付近で赤猪子(あかいこ)という美人に出会ったとか、葛城山で一言主大神に出会ったとか、春日で丸邇のヲドヒメ(和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女) に会ったとか、そんな話ばかりです。
雄略天皇を見ると、平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じたとか、武力を持って日本各地に服属を迫ったとか、雄略天皇8年(464年)2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死してしまい敗走したとか、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したとか、伊勢神宮外宮を建立したとか書いてあります。
雄略天皇といえば、『万葉集』巻第一の最初の歌の作者であることを忘れてはなりません。万葉仮名です。Wikipediaの雄略天皇から引用します。
籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津
山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
(読み方)
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に菜摘ます兒 家聞かな 告らさね そらみつ大和の国は おしなべて我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我にこそは告らめ 家をも名をも
(現代語訳)
良い籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。大和の全てを私が治めているのだ。私こそ教えよう、家柄も名も。
古事記に記載された女性との出会いを総括しただけの歌のようにも聞こえますが、きっと万葉集のオープニングにふさわしい良い歌なのだと思います。
2012.4.7 古事記仮説 雄略天皇 2
磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ、古事記では市辺之押歯王、略してオシハ王)は履中天皇の第一皇子。雄略天皇の従兄です。皇后の連れ子(7歳)に殺された安康天皇は弟のオオハツセ(後の雄略天皇)ではなく、甥のオシハ王を天皇に推薦していたようです。皇后中磯皇女(なかしのひめみこ、中蒂姫命)の元夫を殺したことに負い目があって、皇后の兄であるオシハ王に譲らないとまずい雰囲気だったのかもしれません。
オオハツセ(後の雄略天皇)はオシハ王を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、殺してしまいます。政敵を全て消したオオハツセは雄略天皇となります。
殺されたオシハ王にはオケ王とヲケ王という二人の息子がありました。オシハ王が殺されると、オケ王とヲケ王は播磨の国に逃げ、シジムという人の家で馬飼い牛飼いとして身を隠します。
雄略天皇の子である白髪皇子(しらかのみこ)が清寧天皇となりますが、清寧天皇には妃も子供もなく、皇族の男子はことごとく殺されてしまった後ですので、深刻な後継者問題が発生します。
2012.4.6 古事記仮説 雄略天皇 1
允恭天皇は五男四女、9人の子供がありました。9人の兄弟には波乱万丈の人生が待っていました。
第一皇子 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ) 皇太子 ==> 第二皇女との不倫により第三皇子に捕えられ流刑の後死去。
第一皇女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)
第二皇子 境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ) ==> 第五皇子に殺される
第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇) ==>皇后の連れ子(7歳)に殺される。
第二皇女 軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ) ==>第一皇子と不倫の後死去。
第四皇子 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ) ==> 第五皇子に殺される
第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇)
第三皇女 但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
第四皇女 酒見皇女(さかみのひめみこ)
第一皇子木梨軽皇子は第二皇女軽大娘皇女を不倫関係(父母が同じ兄弟での婚姻は不倫とされた)になり、 第三皇子 穴穂皇子に捕えられ、伊予に流刑となります。それでも二人の情熱は冷めず、ふたりとも死んでしまいます。
第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)は、叔母を第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇) の嫁さんに世話しようとするが、トラブルとなり、伯父を殺してしまう。殺した伯父の妻(中磯皇女(なかしのひめみこ)は履中天皇の娘なので従姉妹)を皇后に迎えるが、連れ子の眉輪王(まよわのおおきみ)に暗殺されてる。
安康天皇が殺された時、 第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇)は煮え切らない二人の兄、 第二皇子 境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ) と 第四皇子 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ) を殺す。男は第五皇子が残るだけとなり、雄略天皇となります。
2012.4.5 古事記仮説 履中、反正、允恭天皇
仁徳天皇は五男一女をもうけ、そのうち三人が天皇となりました。三人とも母はイワノヒメ。
長男 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)
次男 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、墨江之中津王)
三男 瑞歯別尊(みずはわけのみこと、反正天皇)
四男 雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)
次男「すみのえのなかつみこ」は履中天皇のライバルでした。履中天皇は難波の宮殿で行った新嘗祭で酔いつぶれます。これはチャンスと、次男「すみのえのなかつみこ」が宮殿に火を放ちます。阿知直(あちのあたへ)が履中天皇を救い、寝たまま馬の背に乗せて奈良へ逃げます。次男「すみのえのなかつみこ」と名乗るくらいですから、大阪を本拠としていたのだと思います。履中天皇は三男「みずはわけのみこと」に次男「すみのえのなかつみこ」の殺害を命じます。三男「みずはわけのみこと」は、次男「すみのえのなかつみこ」の側近の「ソバカリ」をだまして、次男「すみのえのなかつみこ」の殺害に成功します。「ソバカリ」が主人の「すみのえのなかつみこ」を殺せば、「ソバカリ」を大臣にすると言って殺させます。しかし、「ソバカリ」が実際に「すみのえのなかつみこ」を殺した直後に「ソバカリ」の首をはねてしまいます。卑劣なやり方で三男に次男を殺させるのはどうかと思いますが、とにかく履中天皇はこれを喜び、政権は三男「みずはわけのみこと」=反正天皇へ引き継がれます。
政権はさらに四男の允恭天皇へと引き継がれます。允恭天皇には持病があり天皇になることをためらっていましたが、周囲の勧めで天皇になります。すると、新羅から81隻の船がやってきて、金波鎮漢紀武(こむはちむはむきむ、または、コミハチニカニキム、苗字は「金」、名は「武」、「波鎮」は新羅の爵位、「漢紀」は新羅の王族の号)が薬で天皇の治療に成功します。このエピソードが新羅との友好関係を強調したいようです。
元気になった允恭天皇は、乱れた氏姓を正すという難事業を行います。氏は家の名、姓は朝廷から賜る家の階級。釜で湯を煮えたぎらせて、その中に手を入れさせ、氏姓を正直に申告した場合は火傷をしないが、嘘をついていると火傷をする、という方法。嘘発見器ですね。
2012.4.4 古事記仮説 仁徳天皇 4
仁徳天皇は次に女鳥王(庶妹、メドリ、メトリ、異母妹、八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)の妹、仁徳天皇と皇位を譲り合ったウジノワキイラツコの妹)に興味を示します。八田若郎女も女鳥王も父は仁徳天皇と同じ応神天皇。母は丸邇のヒフレノオホミの娘のミヤヌシヤカハエヒメ。以前登場した美人です。仁徳天皇は弟のハヤブサワケを使者として女鳥王の所に送りプロポーズします。しかし、どうやら女鳥王とハヤブサワケは以前から出来ていたようです。女鳥王は姉八田若郎女が皇后イワノヒメにいびり出されたことを知っているわけですから、仁徳天皇の誘いを受けるわけもなく、ハヤブサワケと結婚てしまいます。使いに出したハヤブサワケが帰ってこないので、仁徳天皇じきじきに女鳥王を訪れます。機を織る女鳥王に、誰の着物だと聞くと、ハヤブサワケの着物だとの回答。仁徳天皇は一旦あきらめて帰ります。その後、女鳥王がハヤブサワケをそそのかして仁徳天皇殺害を計画しているとの噂が流れ、二人とも仁徳天皇に殺されてしまいます。
何が面白いかと言うと、仁徳天皇の名前は大雀命=スズメ、ハヤブサワケ、女鳥王、と三人とも名前が鳥なのです。私には駄洒落のようにしか思えませんが、当時は何か特別な意味があったのだと思います。でも、簡単に言うと兄弟同士の恋愛と喧嘩と殺し合いのお話ですので、当時の皇族も大変だったんだなぁ、というのが感想です。
2012.4.3 古事記仮説 仁徳天皇 3
仁徳天皇は次に八田若郎女(異母妹、ヤタノワカイラツメ、八田皇女、ヤタノヒメミコ、天皇の座を譲り合った異母弟ウジノワキイラツコが自殺した時に、仁徳天皇に皇位を譲るので自分の妹である八田若郎女を皇后にするよう遺言したとも言われます)を妃に迎えます。応神天皇はウジノワキイラツコを後継者に指名していたようですので、その遺言通りにすることは当然のような気もしますが、妹と結婚するというのはやはりどうかとも思います。皇后イワノヒメが紀伊の国に行っている間に八田若郎女を仲良くしているところが皇后イワノヒメにばれて、ひと悶着。一旦は仲直りしますが、不和の原因なったことは間違いありません。イワノヒメの死後、八田若郎女が皇后になったそうです。
名は体を表すと言いますが、古事記では顕著ですね。イワノヒメと、ヤタノワカイラツメ=ヤタノヒメミコ。イワノヒメは強面で嫉妬深いが、四人の皇子を産み、そのうち三人を天皇にした。岩のように強い女のイメージ。ヤタノワカイラツメ=ヤタノヒメミコは皇女であり、皇位を継ぐはずだった兄の遺志を受けて、異母兄の仁徳天皇に嫁いだが、子供には恵まれず、高貴でかよわい美女のイメージ。
(ksmt.com仮説)
古事記の人名は読者が人物像をイメージしやすいように付けられている。先にストーリーと配役を考えて、後で名前を割り振った。確かに名前が逆だったらややこしい。
2012.4.2 古事記仮説 仁徳天皇 2
仁徳天皇の皇后イワノヒメは大変嫉妬深かったようですが、それにもめげず、仁徳天皇は他の女性に興味がありありました。吉備のクロヒメが美人なので妃に迎えますが、クロヒメは皇后の嫉妬が怖くて吉備の実家に逃げ帰ります。仁徳天皇は淡路島に用事があると嘘をついて、吉備まで会いに行きます。ここはうまく皇后にバレなかったようです。仁徳天皇が難波から愛しいクロヒメの住む西の海を見ると、淡島、自凝(オノゴロシ)島が見えたと、歌に詠んでいます。オノゴロ島は、イザナギとイザナミが天の浮橋立って、天の沼矛で海水をかきまぜた時に最初に出来た島で所在不明。淡島はイザナミが最初に産んだ島だが、これは失敗作で、イザナミの子とは数えない。これも所在不明。と古事記(岩波文庫)では解説されています。これら二島が仁徳天皇の歌に出てくるのは、何か意図がありそうです。
文脈からすると、淡島もオノゴロシ島も現在の淡路島のことだと思われます。一度難波から淡路島が見える場所を探してみたいと思います。
(ksmt.com仮説)
古事記の冒頭でイザナギとイザナミが産んだ淡島とオノゴロシ島が、仁徳天皇の歌の中に再度登場する。これは試験問題である。一般の生徒は古事記の授業に疲れてきており、最初の方で多用した下ネタはもはや通用しない。そこで、先生が、「さて、淡島とオノゴロシ島は何だったかな? 最初に勉強したでしょ。当然覚えているわよね」 みたいな試験問題を出す。生徒の間に緊張が走り、再び熱心に勉強し出す、という仕掛けである。
2012.4.1 古事記仮説 仁徳天皇 1
「楽しい古事記」(阿刀田高著、角川書店)から引用します。
-----------------------
中国の「宋書」には、倭王・讃が使者を寄こした、と記されており、これが西暦421年のこと。さらに、讃は438年に没し、弟の珍が王となった。443年に珍のあとを継いで済が王となり、済は462年に死んだ。子の興があとを襲ったが、興も478年に没して弟の武が王となった。とこれは没年はともかく王の存在に関しては充分に信憑性の高い記録である。讃・珍・済・興・武、と続いて、中国資料による日本の古代五王と呼ばれている国王たちである。この王が天皇であり、最後の武が第二十一代雄略天皇であることが学術的な検討を経て、ほぼ確実らしい。
武以外については、いくつかの推理があって、讃が仁徳天皇かもしれない、というのも一つの説である。
-----------------------
古事記には、「また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」と書いてありますから、仁徳天皇は帰化人を使って、農地整備や港湾整備などに事業を行ったようです。
有名なエピソードとしては、つぎのようなものがあります。
仁徳天皇が山に登って見ると家々から煙が立っていない。民は貧しくて食料も燃料もなく、かまどに火が入れられない。そこで三年間税の徴収を中止。宮殿の修復なども中止。質素倹約に努めた。三年後、民は豊かになり、家々から煙が立った。仁徳天皇の人気は上昇し、スムーズな政権運営を行うことができた。
2012.3.31 PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE 3
PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE の著者Corrado D'Agostini氏は、フィレンツェ大学で臨床心理学を教える精神病学者。フランス、ドイツ、オールとリア、スイス、イギリスにおける19世紀の光学レンズの開発の歴史を研究しておられます。第一弾としてフランスのレンズの研究結果を出版され、今後、ドイツ・オーストリア、イギリス、アメリカなどの本も出版予定とのこと。豊富な写真で、古い写真レンズの学者やコレクターが、レンズの特定を行うことができる文献となっているそうです。到着が楽しみです。
2012.3.30 PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE 2
PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE の著者のCorrado D'Agostini氏から早速返事がありました。D'Agostini氏自ら注文を受けて、自ら発送するのだそうです。サイン入りの本を送ってもらうことにしました。D'Agostini氏はイタリアのフィレンツェ在住。三年前に京都を訪問されたようで、なかなかの日本通。次は1800年代のドイツのレンズの本を書く予定があるとのこと。楽しみです。
2012.3.29 PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE
Claude Berthiotに付いてGoogleで検索すると、PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE が見つかりました。Berthiotのページから次のような抜粋がありました。
Pag.32...Claude Berthiot (+1896) opened his factory in 1857. In 1864 he
became a member of the Societe Francais de Photographie. His lenses were
not engraved in the early days of production; later they showed the following
marker’s engraving: “C.Berthiot Fabricant Opticien Paris”. In 1895 the
factory was located at 168 rue Saint Antoine, while a catalogue from 1905
indicates it as Maison C. BERTHIOT E. Lacour (Neveu et Successeur) Fabrique
speciale d’optique de haute precision pour la photographie. Paris, 61
rue Saint Antoine”. The change in company name refers to new management
in 1884 under Benoit Marie Eurgene Lacour, who designed new anastigmatic
optics at the turn of the century. Shortly after, the company name changed
to "Ottica Lacour-Berthiot, rue Froissart 9, Paris" and later
in 1913 to "S.O.M. Berthiot” (1). After 25,000 lenses were produced
in 1800 (3), the brand name grew in popularity, and by the beginning of
the 20th century, the company had achieved considerable success, becoming
the most important manufacturer in France (2). Some Aplanats particularly
stand out from the early production; these could be separated, as well
as converted to a wide-angle, with the addition of a third glass (4). With
the introduction of new glass made by Jena, many models were recalculated,
and manufacturing was modernized…(continues)
(ksmt,com翻訳)
Claude Berthiot (~1896)は1857年に工場を開設し、1864年にフランス写真協会の会員となった。初期のレンズには刻印がない。その後、“C.Berthiot
Fabricant Opticien Paris”という刻印となった。1895年には工場は168 rue Saint
Antoineという住所にあった。1905年のカタログではMaison C. BERTHIOT E. Lacour
(Neveu et Successeur) Fabrique speciale d’optique de haute precision pour
la photographie. Paris, 61 rue Saint Antoineとなっている。(写真用高精度光学機器製造のC.
BERTHIOT E. Lacour社(甥が後継者になりました)、住所Paris, 61 Saint Antoine通り) 会社名の変更は1884年に新しい経営者になったことを意味する。Benoit
Marie Eurgene Lacour(訳者注BenoitはBenoistの間違いだと思います)が世紀の変わり目に新しいアナスティグマティック・レンズを開発した。しばらくして会社名は"Ottica
Lacour-Berthiot, rue Froissart 9, Paris"に変わり、1913年に "S.O.M.
Berthiot”に変わった。1800年代に25,000本のレンズを製造し、ブランドは有名になった。20世紀初頭には大きな成功をおさめ、フランスを代表するレンズ製造会社となった。アプラナット型のレンズは最初から際立った成功をおさめ、後に第三群のレンズを加えた広角レンズに改良された(訳者には意味不明)。新しくイエナのレンズを導入し、多くのモデルの再計算を行い、製造の近代化を行った。
私のレンズと同じレンズには"Central cone"との説明がついており、そのように呼びたいと思います。これはJamin
Cone Centralisateurに対抗するものかもしれません。私のレンズの製造年ですが、刻印がC・Bであることから初期型の後の方だと思います。1864年にフランス写真協会に入った少し後の1868年というのは、この説明とは特に矛盾しないと思います。
ということで、PHOTOGRAPHIC LENSES OF THE 1800'S IN FRANCE という本を買ってみようと思います。
2012.3.28 Claude Berthiot
C.B Brevete s,d,d,g Paris
140年くらい前にフランスで作られた、ほぼ新品・元箱付きのレンズです。
玉手箱みたいな感じです。
使用された形跡は見当たりません。
真ん中が円錐形に絞られた独特の形です。「ペッツバール」型もしくは「ドイツ式」と呼ばれるレンズのうち、ドイツやイギリスので製造されたものはどれも似た形で質実剛健という感じです。一方、フランス製のものは会社ごとに形が異なり、優美な装飾品といった感じです。
C.B Brevete s,d,d,g Parisと刻印してあります。C.BはClaude Berthiotのイニシャルです。シリアルナンバーはありません。
このレンズの絞りは特殊です。ウォーターハウス絞りの一種なのですが、外から刺し込んで交換するのではなく、前玉を取り外して、押さえ金具を外して、絞り板を取り換える方式です。絞り板は4枚付属しています。製造番号はなく正確な製造年は不明。ウォーターハウス絞りが発明されたのが1858年ですから、それより後だと思います。多分1868年の明治維新前後だと思います。正確な製造年は分かりませんが、慶応4年製と断定したいと思います。
絞り板を重ねて入れたところ。一番小さな穴の板が有効で、穴の大きな板は効いていませんが、この状態で保存できるのは便利です。バネのような金具fで押さえてありますので、取り換えは簡単です。最初このような写真をみた時が、意味が分かりませんでした。
さらに不思議なのは、前玉の後ろに金属製のキャップがついていることです。このキャップを付けると真っ暗で何も写りません。多分装飾品としての意味しかないと思います。
VIIとケガキしてありますが、意味不明です。多分部品の型番だと思います。
前玉のコバに鉛筆で何か書かれています。C Berthiotと書かれているのは判読できますが、その他の記号は判読できません。
後玉のコバにもC Berthiotと書かれています。
このようにレンズが入っていたので驚きました。1866年にダルマイヤーが特許を取った新型の並びに似ていますが、中玉の向きが逆です。試写してみたところ、これではうまく写りません。真ん中のレンズと右側のレンズを入れ替えて、両方のレンズを裏返しにすると、一般的なペッツバールの並びになり、まともに写るようになりました。明らかに組み立てミスなのですが、この前のダルローもレンズが裏向きに入っていたし、何らかの意図的なもののような気がしてきました。普通に組み立てるとシャープすぎるので、わざとレンズの組み方を変えてソフトフォーカスにしたのかもしれません。
完全に分解したところ。
前のキャップにはNINET PARISの刻印があります。きれいなキャップですが、刻印の押し方がいいかげんで、上方の字が読めないのが残念。
フランジ金具は付属していないので、とりあえず暫定マウントを作成。