EOS10D日記その46 ---ksmt.com---10D日誌---ご意見、ご感想などこちらまで---掲示板---email: ---
2013.1.24 ERNOSTAR 2.7/11cm再改造
Erneman社の製造番号表は見たことがないので正確な製造年は分かりませんが、多分1926年(大正15年)の製造だと思います。
一昨日のアダプタだけでも一応写真は写せますが、最短が3mほどなので使い難い。Pentax67改造に強力な接着剤が使われていたため、どうしても剥がせなかったのですが、たっぷり溶剤を注入して接着剤を溶かし何とかはずすことができました。
これがオリジナルの姿です。
52mmのヘリコイドにねじ込んでみると、見事に入りました。このヘリコイドを使うと全く改造不要だったのです。52mmスクリューは現在でもフィルター枠に使われていますが、大正15年には既に使われていたということですね。
無限も問題なく、このレンズのために誂えたようなヘリコイドです。
このヘリコイドはものすごく伸びるので、最短は20cmほどに改善されました。
カメラに取り付けるとこうなります。
2013.1.22 ERNOSTAR 2.7/11cm
Ernemann Anastigmat "ERNOSTAR" f:2,7 f=11cm 181344 D.R.P
ERNOSTAR はF2(1923年)とF1.8(1924年)が有名ですが、これはf:2.7(1924年)です。エルネマン社のルートヴィッヒ・ベルテレ(当時23歳)によって開発され、エルマノックス・カメラに取り付けて販売されました。
当時既にイギリスのテーラーホブソン社がOPIC F2.0という明るいレンズを売っていましたが、レンズ単体の販売のため、主に映画撮影用に使われたようです。大口径のレンズで、ある程度大きな乾板に写真を撮ろうとすると、大きなシャッターが必要になります。Compurなどのレンズシャッターは小さくて使えません。そこで、大きなフォーカルプレーンシャッターを備えたエルマノックス・カメラが開発され、人気が出ました。当時はまだ引き伸ばし機が普及しておらず、密着で大きな紙にプリントしようとすると、大きな原版が必要でした。このため、エルマノックス・カメラは大型の機種が開発され、大きなイメージサークルを持つ長焦点レンズが開発されました。F2.0やF1.8ではレンズが大きくなりすぎて機動力が失われるので、F2,7の小さいレンズが作られたのだと思います。
映画の場合、フィルムが小さいし、シャッターは問題になりません。また、しばらくすると、ライツが引き伸ばし機の普及に成功します。小さなライカで撮影した小さなフィルムから、大きなプリントを得ることができるようになりました。これによりカメラシステムの小型化が進みました。
ペンタックス 6x7マウントに改造してあります。
下のレバーでヘリコイドを動かし、ピントを合わせます。
前玉は3枚を前から押しこむので、組立てが難しいです。
このような薄いスクリューを、筒の奥の方で回さなければなりません。
自作のPentax 67 - EOS アダプタに取り付けたところ。
2013.1.13 R&J BECK ISOSTIGMAR 6.75IN f6.3
R&J. BECK.Ltd PATENT 871559 6.75IN ISOSTIGMAR f6.3 No. 19680
BECK ISOSTIGMARを探し出して6年半になります。9.5inchはすぐに見つかったのですが、焦点距離が長くて、あまり使っていません。6年半後に二本目が見つかりました。どちらも日本で見つけたものです。歴史的に見ても相当ユニークな構成のレンズですが、まったく人気がなく、価格は激安です。R&J.
BECKという会社が有名ではないのが原因だと思います。
レンズ押さえの薄い金具に細かい字が刻印されています。
ボシュロムのVOLUTEシャッターに組み込まれています。なかなか優美なデザイン。
分解するとレンズはきれいでした。貼り合わせがまったくない5群5枚です。買った時にはレンズがでたらめに組み立てられていました。そのままではまったく写りませんが組み立て直せばよく写ります。正常でも安いレンズですが、うまく写らないわけですから、さらに安くて当然です。
正常な並び "("1と")"はメニスカスレンズの向きを表します。"|"はごく弱い両凹レンズで、ほとんど平面ガラスです。
1( 2( 3| 4) 5)
購入時の並び。合っているのは1(一番前)だけで、他はすべて間違っていました。
1( 2) 5) 3| 4)
一瞬、未知の型のレンズかと思いましたが、残念ながらそうではありませんでした。多分何も知らない人が組み合ってたのだと思います。
170mmくらいの焦点距離なので、それに合わせてアダプタを製作。革を貼って補強。
52mmのオスをヘリコイドにねじ込んで完成。
2013.1.12 Grubb Dublin改造
Grubb Dublin 3669 A3をEOSマウントに改造。
座金が付いているので簡単です。Pentax 6x7の中間リングにぎりぎり入ります。
焦点距離は200mmくらいだと思います。この構造だとヘリコイドより先が長くて重いので、ヘリコイドに大きな負担がかかかります。ヘリコイドは数年すると壊れますが、もともとピント合わせ用ではないので仕方ありません。たまにグリースを補充するという古典的なメンテナンスが必要なのですが、結構面倒です。予備用に安いヘリコイドを買っていますが、あまり値段は下がらないです。
2013.1.8 英国レンズ史 6 Innovation
19世紀、英国で次々と新しいレンズが開発されます。フランス、ドイツと並んで世界のレンズ生産の中心でした。
1841年 Ross Collen lens
1857年 Grubb Aplanat
1861年 Dallmeyer Triple Achromatic
1864年 Ross Doublet/Actinic
1866年 Dallmeyer Repid Rectilinear
しかし、1880年にツアイスのアッベとショットがイエナにガラス工場を設立し、1886年頃までに多くの新種ガラスを開発すると状況が変わります。RossはZeiss
Anastigmatのライセンス生産を開始。ドイツが優勢となります。
それでも、まだ英国のレンズ開発は続きます。特にCooke Tripletは普通のガラスを使い、イエナのガラスに頼らなくても高性能なレンズが製造できた点で画期的でした。
1893年 Cooke Triplet
1895年 Dallmeyer Stigmatic
1914年に始まる第一次世界大戦の前後は一時Innovationが止まりますが、戦争が終わると再びInnovationが始まります。
1920年 Cooke Opic
1924年 Cooke Speedic
1931年 Cooke Speed Panchro, Cooke Technicolor 35mmF2
これらのレンズは高性能で、主にハリウッドで映画撮影用に使用されました。しかし、本数的にはわずかしか売れませんでした。ドイツで安くて高性能なレンズが大量に製造されるようになると、英国のレンズ産業は徐々に衰退していきます。
1944年 Wray Unilite/Cine-Unilite
英国製のレンズは製造された数は少ないですが、どれも味わい深いレンズです。
英国レンズ史というおおげさなタイトルにしましたが、ただGrubb社の説明がしたかっただけですので、このへんで終わりにしたいと思います。
2013.1.7 Grubb Dublin A3
Grubb Dublin 3669 A3
T.Grubb (1800-1878)の生前はGrubb Dublinと刻印されたようですが、亡くなると息子の名前であるHoward
Grubbの刻印に変わったようです。ですから1878年よりは前のレンズだと思います。一方、f8/8in
No2,603の特許は1862年です。このレンズ製造番号3669はこれより大きいので、1862年よりは後の製造だと思います。中をとって、1870年(明治2年)の製造だと推測します。
真鍮の鏡筒と刻印はきれいです。
分解すると、典型的なペッツバールレンズであることが分かります。
後玉の金物はアルミ合金で、後年に製造されたようです。真鍮の金具が傷んだため、アルミで作りなおされたのだと思います。
前玉はかなりバルサムが傷んでいます。何とか写るとは思いますが、これ以上傷むと貼り直しが必要だと思います。前玉は真鍮の金具に接着されていますので、これを剥がすのが結構大変だと思います。
A3というのは、ペッツバール型で焦点距離が三番目に短いものだと思われます。Grubbのレンズの型番はVade
Mecumには次のように記載されています。
A = Petzval
B = Grubb特許の Symmetrical lens
C = Grubb特許のDoublet lens
E = Grubb特許のMeniscus lens
2013.1.6 Planar 7.5cm F4.5
Carl Zeiss Jena Nr 434102 Planar 1:4,5 f=7,5cm Series Ia Nr.4
1921年(大正10年)製造。Series IaとPlanarは同義。PlanarのNr.4は75mmのこと。Nr.4にはF3.6もあるはずですが、見たことはありません。(参考:http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/planar.htm) F3.6の方は1910年頃で製造が打ち切られているようですが、F4.5の方は1923年頃まで作られています。
7.5cmは一眼レフで使いやすい焦点距離ですので、以前から探していました。
1900年前後のPlanar F3.6は金色の派手な鏡筒のものが多いのですが、1921年頃のPlanar
F4.5は黒の地味なものしかないようです。
前後の玉は同じように見えます。スクリューを前後逆にねじこむこともできます。多分、均斉式と呼ばれるものだと思います。
簡単に分解できます。
39mmのスクリューですので、アダプタ作成は簡単です。52mmに変換してM42ヘリコイドに装着。
なかなか使いやすそうです。
2013.1.3 英国レンズ史 5 Perken Son and Rayment
Perken Son and Raymentは99 Hatton Garden, Holborn Viaduct, Londonにあり、当初の社名はLejeune
and Perkenだったようですが、1880-1900に製造されたレンズにはPerken Son and
Raymentを刻印されました。英国では一般的なメーカーで、外観のきれいなレンズを生産しましたが、光学技術的には保守的な会社でした。レンズを生産して自社ブランドで販売するほか、レンズを輸入してノーブランドで販売していたようです。レンズ名であるOptimusとだけ書いてあり、会社名の書いていないレンズがこれに該当するそうです。1900年頃は繁盛しており、1914年まで(この時の社名はPerken
Son and Co)存続しました。
2013.1.2 英国レンズ史 4 R.J. Beck
Beck社は1843年にRobert BeckがLister卿から投資を受けSmith and Beckという名前でスタートします。しかし、複雑な家庭事情から1880年台になるまで写真用レンズのマーケットに参入できませんでした。Beck社のレンズは、そのほとんどがアメリカで販売されました。レンズへの参入が遅かったため、他のメーカーよりRapid
Rectilinearズの割合が少なく、それ以前のレンズはありません。
1900年から1910年頃のレンズには他の会社の名前が刻印されています。たとえば、Thornton-Pickard。レンズの品質は高く安定したいたようです。その後、R.
and J. Beckと社名を変え、ミュンヘンのSteinheilからアナスチグマットの製造権を取得し、Steinheil-Beckと刻印されたOrthostigmatsとUnofocalを製造します。どうやら、Steinheilの特許にドイツ国内では問題が発生し、特許の問題がない英国で製造する必要が生じたようです。
1907年に斬新な設計のIsostigmarの製造を開始します。この設計はガウス型のレンズの真ん中に補正用の凹レンズを入れたもので、当時でも現在でもユニークなものです。このレンズは割と成功したようで1922年まで製造されました。
2013.1.1 謹賀新年
あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
今年の年賀状はWebで失礼します。12月30日は風邪で熱を出して寝込んでしまいましたが、31日には復活し、正月は元気で迎えられそうです。皆様もお気をつけください。
2012.12.30 英国レンズ史 3 Grubb Dublin
T. Grubb (1800-1878)はアイルランドのダブリンでビリヤードのテーブルの製造をしていました。次にアイルランドの紙幣の印刷機械の製造(これは有名だそうです)。そして、天文台の天体望遠鏡の製造を行いました。印刷機械や天文台の仕事は金額は大きいのですが、たまにしか仕事がありません。これでは従業員を養えないので、写真レンズの製造を始めました。
彼の光学デザインは革新的でした。アーマー天文台の15インチ(38cm)反射望遠鏡(1835)、13.3インチの対物レンズなど。しかし、メルボルンの望遠鏡はなぜか失敗に終わります。息子のHoward
Grubb(1844-1931)が海外の仕事を担当していたようです。
T. GrubbはGrubb Aplanatを設計し、特許を取りました。これは従来の色消し張り合わせメニスカスレンズよりも優れていました。しかし、ロスのコレンレンズの片方と似ていました。(ロスは2群構成のコレンレンズの片方だけでも使えることを知っていました) DallmeyerがGrubb
Aplanatを個使ったように見えるRapid Rectilinearの特許を取ると、T. Grubbは失望しました。結局DallmeyerのRapid
Rectilinearだけが成功し、他のレンズは忘れ去られてしまいました。
Howard Grubbは1893年に71cm反射望遠鏡をグリニッジ天文台に納入しますが、これが彼の最後の大仕事になったようです。Howard
Grubb Dublinと刻印された写真レンズの最後の製造番号はNo 520xです。一般にGrubbのレンズは使い込まれており、真鍮がさびています。
Grubb社は1918年にイギリスのSt Albansに移転します。1838年には南アフリカのSutherland
Observatoryに1.9m Radcliffe telescopeを納入します。この会社は高級分光器メーカーとしてSir
Howard Grubb Parsons and Coという名前で1960年台まで続きます。
2012.12.29 英国レンズ史 2 Repiid RectilinearとAplanat
1866年、英国のDallmeyerがラピッド・レクチリニアを発表します。ほぼ同時にドイツのSteinheil博士がAplanatを発表します。Steinheil博士はレンズの収差論と確立した数学者のフォン・ザイデルと親しかったことから、Steinheil博士は科学的根拠に基づいて開発したと思われます。Steinheil博士は英国のDallmeyerに設計を盗まれたと思ったようで、議論が一時白熱します。
またアイルランド(後に英国に移転)のGrubbは1857年にAplanat (Steinheilのレンズと同名なのでややこしい)というレンズを開発し、特許を取ります。この9年後に開発されたDallmeyerのラピッドレクチリニアは、GrubbのAplanatを向かい合わせに2個並べただけのように見えます。DallmeyerがGrubbの特許を無視して類似の特許を取ったことになり、Grubbは”失望”します。
しかしながら、Grubbが1857年に特許を取ったAplanatは、以前からあるRossのCollenレンズの片方と似ていました。DallmeyerはRossの出身ですからGrubbも強くは出られなかったのだと思います。DallmeyerとSteinheilの争いは英国とドイツの戦いですが、J.
H. Dallmeyer自身はドイツの出身で、21歳の時英国に渡り、ロスの会社に入っています。ですから、ドイツ人同士の戦いでもあります。
2012.12.28 英国レンズ史 1 カロタイプと湿板
写真レンズの歴史において英国は大きな役割を果たしました。特1945年ごろまでは画期的なレンズを次々と生み出しました。戦後ドイツと日本が復興すると、価格競争力のない英国のレンズ産業は残念ながら衰退してしまいます。幸い、英国の古い写真雑誌の広告などの資料が残っているようですので、当時の様子がわかります。また、レンズ収集家のM.
Wilkinson and C. Glanfieldが詳細な解説書a lens collector's vade mecumを残しています。PDF形式のファイルをオンラインで安く買えますので、検索には重宝します。この本を読みながら、英国の写真レンズの歴史を振り返りたいと思います。
写真術が発明された時期(1840年前後)において、英国はフランスとともに写真レンズの主役でした。産業革命発祥の地では旋盤など精密加工技術が発達していたためだと思います。しかし、イギリスの科学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが発明したカロタイプ用のカメラは、フランスのニエプスとダゲールが開発したダゲレオタイプ用にカメラほどは売れませんでした。あまり売れないカメラ用のレンズの製造に興味を示すメーカーはロス以外にはありませんでした。
1851年にイギリスのフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer)が湿板写真を発明すると状況が好転します。湿板写真用のカメラが売れだすと、Dallmeyer社とGrubb社が写真レンズの製造に参入します。Dallmeyerは元ロスの従業員で、一旦ロスの社長になった後で独立していますので、ロスの分家みたいなものですね。Grubb社は当初アイルランドのダブリンにありましたが、後にロンドン近郊に移転しています。他にも、Wray,
Beck, Crouch, Perken Son and Raymentなどが参入します。これらはすべてロンドン近郊にありました。さらにその後、Lancaster(バーミンガム)やTaylow
Hobson (Leicester)なども参入します。
2012.12.22 Busch Vademecum改造
このレンズもフランジ金具または座金と呼ばれる金具が失われています。こちらはミランダのチューブを少し削るとねじ込むことができました。このチューブは内径約44mmで昔のレンズに結構合います。昔は時々見かけたのですが、最近はさっぱり見なくなりました。
さらにその辺にあった金具を2個経由して、PENTAX 6x7のチューブに接続。
焦点距離が約300mmですので、長くなります。普段はヘリコイドは一番カメラ側にありますが、レンズ寄りに移動。なにしろ暗いレンズなので、この方が少しブレ難くなります。
2012.12.21 Busch Stigmar改造
組み合わせレンズは、前後の玉を両方入れ替えて焦点距離を変えます。このため、レンズ交換のためにレンズをカメラから取り外す必要があります。フランジ金具または座金と呼ばれるメスねじ金具が失われている場合、改造が難しくなります。接着剤やビスなどでレンズを固定すると、後玉の交換ができなくなってしまうためです。
このレンズの場合もフランジ金具が失われていました。しかし、幸運にもガラクタ箱の中の金具が何とか合いました。最初はねじ込めなかったのですが、ヤスリで内側のメスねじの山を削ると、スムーズにねじ込めるようになりました。昔の真鍮レンズのオスねじの山は一般に低く、最近のメスねじの山は一般に高いので、新しい方をヤスリで思い切り削ってちょうど良くなることが多いです。
さらに幸運なことに、この金具の外側のねじはブロニカのチューブにねじ込むことができます。この金具を発見した時点で改造はほぼ終了です。
ブロニカのチューブを52mmに変換する自家製アダプタをかませると、52mmのヘリコイドに取り付けられます。
M42ヘリコイドの薄いものに取り付ければ、No.1+No.2=85mmの改造終了。
EOS 5Dに取り付けたところ。
厚めのM42ヘリコイドに取り付ければ、No2+No4=111mmの改造完了。
これにブロニカにチューブを2個加えれば、No4+No5=155mmの改造完了。
EOS 5Dに取り付けるとこんな感じです。
2012.12.16 Busch Vademecum
Busch's Vademecum
これもBuschの組み合わせレンズですが、Stigmarよりはだいぶ古い時代のレンズです。多分1890年代のものではないかと思います。
Vade mecumを辞書で引くと、必携参考書、必携、便覧、ラテン語で"go with
me"。
前玉には55、後玉には65と書いてあります。これはどうやら焦点距離(cm)の意味のようです。
Vade mecumから引用。(本の名前とレンズの名前が同じです) セットだとこんな感じになるようです。
今回入手したのは鏡胴とレンズ2個だけです。
http://lensn2shutter.com/busch-vademecum.html から引用。この表から55cmが開放でF24だと分かります。太い文字は単レンズで、細い文字は複合レンズと書いてあります。今回のレンズは55cmが単レンズですが、表のセットで何らかのレンズを組み合わせて55cmを作っているようです。
この表から、重要な事実が分かります。75cmと65cmのレンズを組合わせても、焦点距離は55cmにはなりません。一般に、レンズを2枚組み合わせると焦点距離が約半分になり、F値も半分になります。メニスカス単レンズでも原理は同じはずですので、Vade
mecum(本)に書いてあるように、ほとんど屈折率のない補正レンズが準備されていたのだと思います。主レンズ2枚を組み合わせるのではなく、主レンズ一枚と補正レンズを組み合わせて収差の補正をすると、わずかに焦点距離が変わる、ということだと思います。
Vade mecum(本)にはVademecum(レンズ)について次のように書かれています。
Vademecum set:
No 1 A classic casket set, B.J. Photo. 29/8/1899 to give foci 4.375-14in
-30in, the 30in being with one cell in place. The 4 cells are only single
glass menisci and the sharpness is not high. But there were subsidiary
lenses to correct the visual error while focusing and color filters, at
least on the next set.
No 2 with 7 cells for 4.375-17in, with up to 29.5 from a single cell. A
No 11 set seen is marked DRGM 110275/76.
Model E This was another, later type with cells based on achromats, so
that pairs are RR's or nearly so: one has been seen in decayed condition,
but without detailed information as to the foci of the cells, etc. It was
in a dialset Compur shutter No447,48x, and probably from the early 1920's,
but 20 years later than the No1 above.
今回入手したものはレンズ2枚で、両方ともメニスカス単レンズでした。非常に暗いレンズですので、カメラに取り付けても、良く見えません。追々テストしたいと思います。
2012.12.15 Busch Anastigmat-Satz STIGMAR F6.3
Busch Anastigmat-Satz "STIGMAR" F:6,3 (leather case)
Emil Busch A.-G. Rathenow Busch Satzanastigmat "STIGMAR" F:6,3
13x18cm (Barrel)
Busch Stigmarlinse No5 F=350m/m
Busch Stigmarlinse No4 F=280m/m
Busch Stigmarlinse No2 F=185m/m
Busch Stigmarlinse No1 F=155m/m
Emil Busch社はNicola Perscheidなどで有名です。今まで縁がありませんでしたが、今回"STIGMAR"をはじめて入手しました。4個のレンズエレメントを組み合わせて、F6.3/85mmからF12.5/350mmまでカバーします。遠方に旅行に行く時には、5x7inchカメラとこのレンズ1セットで超広角から望遠まで撮影できて便利だったようです。(85mmの本当に5x7inchをカバーするかは疑問ですので、確認の必要がありますが) 組み合わせレンズ自体は写真が発明された当時からあります。1840年から1930年頃までたくさん作られました。ズームレンズが開発される100年ほど前の話です。
革のケースにはBusch Anastigmat-Satz "STIGMAR" F:6,,3と書いてあります。ザッツという名前から、ザッツプラズマットと同類の組み合わせレンズであることが分かります。Anastigmat
でF6,3ですから、Zeiss Anastigmat VII類のコピーかなぁと思って入手しました
右から、二個のレンズを装着した鏡胴、第三のレンズ、第四のレンズ。いちばん左はフィルターのスペースだと思われますが、何も入っていません。
どのレンズもきれいで、あまり使われていないようです。
鏡胴にはSatzanastigmatと書いてあります。ザッツ・プラズマットと似た名前です。
レンズを一個だけ使う場合と、二個使う場合では絞り値が2倍違います。ですので、具体的な絞り値ではなく、指標番号だけが書かれています。多分、換算表のようなものがあったのだと思います。
No4 280mmだけ塗装がはげていますので、これが前玉として使われていたのだと思います。
レンズエレメントにはStigmarlinseと書いてあります。これはZeissのSeries VII
Anastigmatlinseと似ています。やはり、Zeissのコピーか?
レンズの形はZeiss Anastigmatlinse (後にProtarlinseに改名) Series VIIに似ています。
Vade MecumにはBu 006型であると書いてあります。しかし、この個体は多分この型ではないと思います。反射を見るとプラズマットのような空気間隔はなく、多分三枚貼り合わせのDagor型か、四枚貼り合わせのZeiss
Anastigmat Series VII型だと思います。
Vade Mecumから引用:
Stigmar These were convertible anastigmats, and may have been still listed late in the 1930's.
Stigmar Series 1 f6.3 This is an air spaced symmetrical anastigmat of roughly
Plasmat type, with unequal focus components. It seems to be listed in 3
sizes for 9x12, 13x18, 18x24cm. (1908)(R) (Bu006)
2012.12.10 C. Bertghiot Aplanat 24cm F9
C. Berthiot Fabricant Opticien Paris 21486 No.3
Claude Berthiotは1857年に自分の工場を始めます。1864年にはフランス写真協会のメンバーになります。彼が作ったごく初期のレンズには全く刻印がありません。その後、C.
Berthiot Fabricant Opticien Parisという刻印になります。Claudeは1896年に死去。1864年から1896年の間であると推測できます。Vade
Mecumには1900年の製造番号が25,000番と書いてあるので、21486番は1895年(明治28年)頃だと思います。
ペンタックス67のボディーキャップに改造されていました。
プラスチックのキャップに細めの穴をあけて、ビスをねじ込んであります。軽いレンズなので、十分強度があると思います。
構成はAplanat型。2群4枚。
Corrado D'Agostiniの本にこれと似たレンズが出ています。
焦点距離は約24cm。口径からF9.0くらいだと思います。
2012.12.7 Voigtlander Wien 再改造
Voigtlander Wien No 3626は大変優れたレンズで、入手後ほぼ毎週使っています。最大の特長は、ペリー来航前、あるいは遠山の金さんが南町奉行在任中に製造されたレンズということです。お祭りでモデルをお願いするときに大いに役立ちます。しかし、ブロニカのヘリコイドではトラベルが足りず、1.5mほど離れないと撮影できませんでした。これはポートレートでは不便なので、クローズアップが撮れるよう再改造しました。
M52-M42ヘリコイドの一番長いもの(35-90mm)に取り付けることにしました。太さの関係でアダプタは作成できず、ヘリコイドに直接接着。これだけ使用頻度が高ければ、専用ヘリコイドに固定するのが良いと思います。このヘリコイド用に改造したレンズが使えなくなっては困りますので、同じヘリコイドをeBayで購入。
こんなに伸びます。それにヘリコイドはスマートになったので持ち運びも楽です。このヘリコイドは値段の割には性能が良く、今まで故障したことがありません。
2012.12.4 維新の外国語訳
明治維新:
英 the Meiji Restoration = 王政復古。大政奉還が行われ一応明治天皇親政となったわけですから、妥当な翻訳ですね。
独 Meiji-Restauration = 英語と同じ
仏 restauration de Meiji = 英語と同じ
大阪維新の会
英 Osaka Restoration Association (weblioを参照)
日本維新の会
英 Japan Restoration Party
Osaka's Toru Hashimoto announced on Saturday that his regional Osaka Ishin no Kai (Osaka Restoration Association) political group was officially becoming the Nihon Ishin no Kai (Japan Restoration Party) national political party. (The Japan Daily Pressより引用)
2012.12.3 中華民国維新政府
Wikipediaより引用:
中華民国維新政府(ちゅうかみんこくいしんせいふ)は、1938年3月28日に南京で成立し、江蘇省、浙江省、安徽省の三省と、南京及び上海の両直轄市を統括していた政権。北洋軍閥系の要人であった梁鴻志が行政院院長として政権のトップにあった。日本の中支那派遣軍が日中戦争時に樹立した地方傀儡政権である。
2012.11.26 呪いの自動化の歴史 11
昭和天皇が復活させた「呪いの自動化」は今も生きています。いずれまた崩壊すると思いますが、何とか永く続いてほしいものです。古事記成立から元寇まで562年。元寇から文禄の役まで311年。徳川幕府成立から日米友好通商条約まで258年。終戦から今日まで67年。少なくとも後200年ぐらいは頑張ってほしいものです。
呪いの自動化の歴史を書きだした時には、最初は古事記で呪いがかけられ、次に鉄砲で新たな呪いがかけられ、次に産業革命で別の呪いがかけられ、最後にマスメディアによって今日の呪いがかけられたのだと思っていました。しかし、書き進めるうちに、古事記によってかけられた呪いは何度も破られながら、しばらくすると必ず復活してきたのではないかと思うようになりました。
しかし、ここで大きな疑問があります。古事記に出てくる神功皇后の新羅征伐は何なのか、という疑問です。秀吉や明治政府の軍事行動に根拠を与えていたと考えられます。やはり天智天皇に少し気を使ったと思いますが、海外派兵を奨励するような記載は、私の「呪いの自動化の歴史」と相反します。
2012.11.25 呪いの自動化の歴史 10
大東亜戦争末期になると、昭和天皇は「呪いの自動化」の崩壊が悪い事態を招いたことに気付きます。幸い簡単に「呪いの自動化」を復活させる方法が見つかりました。それはラジオです。天皇自ら玉音放送を行うことにより、一気に「呪いの自動化」の復活に成功しました。
これに続く日本国憲法第9条の制定は、「呪いの自動化」の文書化だと言えます。天武天皇や徳川家康と同じように、海外派兵を取りやめ、諸外国との友好関係を築くことにより、国内における「呪いの自動化」が効力を回復します。
2012.11.24 呪いの自動化の歴史 9
次に呪いを破ったのは蒸気船(または蒸気機関に代表される産業革命)でした。呪いの自動化は日本国内では有効でしたが、秀吉が証明したように国外では無力でした。日本は周囲の海に守られていましたので、自ら無謀な海外派兵をしない限り、呪いに守られていました。元寇の例でも明らかなように、国外の敵が帆船で海を渡り、日本で戦果をあげ、無事帰還するのには大きな危険が伴いました。この海域に詳しい朝鮮とオランダの商船による交易で十分だったと思います。
しかし、蒸気船の開発が事態を変えます。ペリーには呪いは効きません。逆に帝国主義という奇妙な呪いをかけられてしまいます。これにより家康が復活させた「呪いの自動化」は崩壊しました。
2012.11.18 呪いの自動化の歴史 8
鉄砲の轟音と、目に見えない速さで飛ぶ弾丸は人々を恐怖に陥れました。古い呪いを打ち破るのに十分な威力を持っていました。鉄砲の力で戦国時代を勝ち抜いた秀吉は朝鮮へ出兵します。しかし、天智天皇と同じ失敗を繰り返すことになりました。これに気付いた家康は即刻朝鮮と和解し、朝鮮との友好関係を重視する外交に転じます。鉄砲によって一旦破られた天武の呪いを復活させたのだと思います。
家康の作戦は見事に成功し、明治維新まで「呪いの自動化」が効き続けることとなります。
2012.11.17 呪いの自動化の歴史 7
日本の水田開発が進むにつれ、その水田の所有権の確保と、地域が一体となった水田の維持管理が問題となりました。それまで抗争を繰り返していた有力な部族も、和解して大連立政権を樹立する必要が生じました。これを大和と呼んだのだと思います。8世紀に入ると、大宝律令、養老律令などの法が制定されます。これに加えて、古事記、日本書記などにより「呪いの自動化」を行い国土の防衛を行います。天智天皇の朝鮮出兵の失敗に懲りた天武天皇は、九州から関東までの支配地域の防衛に専念すべく呪いをかけたのだと思います。班田収授法がどの程度実施されたかは分かりませんが、とにかく日本は中央集権的な国家を建設し、米の増産に励みます。
元寇においても天武天皇がかけた呪いは有効だったようで、侵略軍を撃退します。ところが、16世紀に入って呪いを破る事件が起こります。それは鉄砲の伝来です。
2012.11.14 Cooke OPICとSpeed Panchro
左と中央はOpic 2/3in. 右はSpeed Panchro 2/3in。Speed Panachroの方が少し細長いです。断面図の比較はこちら。
Opic F2が開発された1920には最も明るいレンズでした。少し後でErnostar F1.9が出ますが、主にスチルカメラ用。Opic
F2は明るいので少数ではありますが映画撮影で使われていたようです。映画ではさらにシャープなレンズの要望が強くなり、これに応えるためSpeed
Panchroが1931年に開発されます。Opicを35mmフィルム用に最適化。第二群と第三群を厚くしてシャープネスを高め、第三群と第四群のレンズの直径を小さくして、ターレットに入るようにしました。イメージサークルは狭くなりましたが、35mmフィルムは余裕でカバーしています。Opicは汎用レンズのためイメージサークルを大きく作ってあったのですが、これは映画では不要です。
2012.11.13 Cooke Opic 155968 改造
1929年頃(昭和4年頃)製造されたOpic 155968の改造。手書きでC-2840と書いてあるのは、映画会社の資産番号だと思います。
二箇所同じ番号が書いてあります。
ミランダの44mmスクリューとだいたい同じなのですが、OPICの方がわずかに太くて入りません。そこでヤスリで内径を広げて、これをニコンの52mmスクリューの中に入れて接着。レンズにガムテープを巻いて、ビスで固定。ガムテープを巻くことによって、いくつかの効果が見込めます。
1、 ビスがガムテープに食い込めば、絶対に抜け落ちない。(ガムテープがないと抜け落ちることがある)
2、 太さをぴったりと合わせられるので、万一ビスが全部抜けても、落下しない。(念には念を入れて)
52mmのヘリコイドに取り付けて完成。
2012.11.12 Cooke Opic 196069 改造
Taylor Hobsony社のレンズの詳しい意製造番号表は見たことがなく、製造年ははっきりしないのですが、多分1933年(昭和8年)頃だと思います。元は35mm映画用のカメラに取り付けられていたと思いますが、入手したのはレンズヘッドのみです。フランジ金具または座金と呼ばれるメスのスクリューは無く、ヘリコイドに取り付ける方法が問題となります。
レンズの外径より内径が2mmほど太い筒(銀色の部分)が見つかりましたので、これに内側に約1mm厚の硬めの革を接着します。レンズがぎりぎり入らない程度の内径にします。そこにゆっくりレンズヘッドをねじ込むと、革がスクリューの代わりをしてくれます。
内側の銀色の筒と、外側の黒い筒にも微妙な差がありますので、中に薄い革を挟んで接着しました。黒い筒はニコンの昔の中間リングで、52mmスクリューが切ってあるため、市販の52mmヘリコイドに取り付けられます。このヘリコイドはカメラ側がM42スクリューになっていて、汎用性が高いです。これにEOSアダプタを取り付けて完成。